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モスクワ (2000年6月5日)
10年前、ソ連が崩壊する直前にモスクワに行ったときのことを書いた文章が、
最近見つかったので、ここに紹介する。
あくまで10年前の話であることを念頭にお読みいただけるよう、お願いしたい。
たかだか一週間余りの滞在でモスクワのことを云々するのもおこがましいこと
だが、実際に見た範囲内のことを記そうと思う。
まずアエロフロート航空の飛行機についてであるが、私の乗った飛行機は小さ
いもので、なおかつガラガラに空いていた。座席は他の飛行機のものとさして
変わらない大きさだが、実に粗末なもので、驚いたことに折り畳みの出来るもの
だ。そんな座席は今まで見たことがない。
飛行中、眼下は最初雲に覆われていたが、しばらくして見てみると雲はなく、
シベリアの大地がよく見えた。ほとんど白く凍っていた。凍土の国。それが
シベリアの印象である。誰も入ったことのないようなこの土地にも、立派に
生活している人たちがいるという。信じられないことだ。北極圏に生活する
人たちは、アザラシを獲り、生で食するという。驚嘆すべき生命力と言うほか
ない。
モスクワはよく晴れており、きれいな夕焼けと美しい黄葉が出迎えてくれた。
荷物を引き取るのに三時間はかかると脅されていたので覚悟していたが、乗客が
少なかったせいか、二十分ほどで出てこれた。通関もすんなり終わり、気分よく
空港を出ることができた。これは実に幸運だったようで、ある人の話では、
実際に三時間以上待ったという。
空港からタクシーに乗ったが、ひどい車である。ドアの取っ手が取れてしま
っているのだ。よく見ると、どの車も実に汚い。日本人ほど車をきれいにする
国民もいないと思うが、ソ連の車は、明らかにアメリカよりひどい。故障も
多いと聞く。国産車が多いが、ドイツ車や日本車も見かける。ベンツのタクシー
だってある。どちらかというと国産車が一番汚れている。もちろん中にはきれい
にしている車もあるが、数は見たところ極めて少ない。
その代わり道路が広い。東京の狭い道路を見慣れていると、この広さは羨まし
い。ただ、センター・ラインなどは殆どかき消えている。車線はもともとない
ところもあるようで、二列になったり、三列になったりして走っている。
また、日本では通常ライトを煌煌と灯けて走るが、こちらは夜でも薄暗い
ままだ。車が割り込んで来たりしたときだけ、明るいほうをつけて注意する。
言わばパッシングだ。薄暗いままでも意に介さないらしい。あとは恐らく、
明るいほうをつけるのがもったいないからだろう。
さて、タクシーにはメーターがない。白タクである。タクシーと書かれてある
車も結局は同じで、たとえメーターがあっても関係ない。料金はドルで払う
場合が、殆どである。
ホテルと見本市会場を結ぶ無料バスがあったのだが、予定の時刻を過ぎて
しまうと動かない。それはいいとして、そのバスに金を払えば、たとえ客が
たった一人でもそのバスは動くのである。聞いた話では、観光バスが白タクに
なるときもあるという。運転手にとっては、自分のポケットに金が(特に外貨
が)入れば、例えばクレムリンを観光している客を待っている時間(日本では
普通、勤務中で拘束時間内のはず)であっても、他の客を乗せていこうとする
のである。もちろん、クレムリンの中にいる客たちの荷物が乗ったままでも、
だ。逆に言えば、観光バスに白タクを依頼することを異常なこととは思わない、
ということだ。日本でそんなことをしたら、どういう顔をされるだろうか。
それほどこの国は日本と違う。金やモノがないだけに、それらを中心として
動くようになる。
見本市にも多くの子どもたちが来る。その中には、メダルか何かを売ろうと
するものもいれば、みやげ物(ボールペンなど)をねだる者もいる。これは
ホテルの前でもそうであり、観光地でも同じだ。子供たちまでもがさもしい姿
を見せる。インドで見かけた乞食(子どもが多い)を思い出さざるを得ず、
寒心に堪えなかった。
関連することで言えば、この国の通貨である。通貨はルーブルであるが、ホテルや
レストランなどでは外貨が通じる。通じる、というよりも、ルーブルよりもはるかに
外貨のほうが価値があるのだ。タクシーのところで料金はドル払い、と書いたように、
ドルが強い。次に日本円、ドイツマルク、といったところ。レストランでも、ルーブ
ルで払う、と言ったらなかなか席を用意してくれないし、サービスが悪いが、ドルで
払う、と言ったら、途端に態度が変わる。
さて、ルーブルのことだ。ルーブルはハード・カレンシー(国際通貨)ではない。
しかも、二重レート制をとっている。通常は1ルーブル≒250円だが、観光客が
両替する場合、1ルーブル≒25円と安い。もちろん、ほかに闇レートがある。
要するに政府自体がルーブルを信用していない。国全体が外貨を必要としているのだ。
通貨に関するこの異常な状態は、国家自体がもたらしたものと言える。
次に、レストランの料理について書くと、高級ホテルのそれにおいても、物不足は
深刻のようだ。特に野菜類が少ない。長く滞在するとビタミン不足になることは間違
いない。
夕食のコースではまず前菜が用意されている。フランス・パンに黒パン、ハムにサ
ラミに魚の刺身のようなもの、魚の燻製、それにキャビアなどである。有名なキャビ
アはやはり高い。しかし、その味となると、塩辛いだけだと言えなくもない。料理に
は好き嫌いがあるので何とも言えないが、少なくとも同席した日本人の中に好んで
たくさん食べていた人は一人もいない。
それから、ボルシチなどのスープが出、メインディッシュとして、肉か魚と続く。
しかし、メインディッシュまで食べたのは一度だけである。前菜の量が多いためと、
前菜にしても、とてもおいしいとは言えないのでウンザリするためである。さらに、
前菜が毎日殆ど同じなのである。それもウンザリさせる要因の一つだろう。それに、
今日のスープ、などというものもない。
話は変わるが、モスクワには美人が多い。それも超美人である。それがホテルで
うろうろしている場合、大抵は娼婦である。彼女たちはその高級ホテルに住みついて
いるのだ。この国にもエイズが多いと聞く。ソ連には余り娯楽がなく、自然、そういう
方に向かってしまうのだろうか。
先ほど高級ホテルと書いたが、それはホテルの格がそうなのであって、内容とは
関係がない。まずほとんどの従業員が無愛想で、やる気がない。レストランでは、
テーブルの係が決まっており、それ以外のウェイターは相手にできない。あまり気に
しなければ、のんびりと食事できて消化にも良いと思う。
インツーリスト系のホテルは朝食込みの料金である。チェックインすると名前や
部屋番号などを書きこんだ宿泊カードをくれる。これを常に携帯している必要がある。
部屋の鍵は、各階のエレベータのところに、ジェジュールナヤという女性の鍵番が
おり、カードと引き換えに渡してくれる。部屋を出るときは、キーを渡してカードを
受け取る。このカードがないと朝食を取るレストランに入れない。チェックインの
ときにカードにスタンプを押し忘れたらしく、レストランの入り口で断られた。
フロントまで行ってスタンプを押してもらって戻ったら、やっと入れてくれた。
また、荷物を預けようと思って、行くと、誰もいない。休憩時間ではない。休憩
時間以外はずっと開いている、という看板は、どうやらただの飾りにすぎないらしい。
万事この調子で、皆いかにサボるかを考えている。その代わり、自分のポケットに
金が入るとなると、別人のように良く働くのだ。
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