「おはよう」
滝田隆一は、パジャマを着たまま寝室から出てくると、妻のマリアに声をかけた。
マリアは、すでに着替えを済ませ、エプロンをつけて朝食の支度をしている。
「おはよう。まだ眠そうね」
「うん。昨日、遅かったからね」
「顔、洗ってきたら」
「そうするよ」
欠伸をかみ殺すようにしながら、隆一はバス・ルームに向かった。
昨日は、同僚の駒田直哉と、長いこと話した。ほとんどが会社の将来についてだった。
二人は、インターネット関連のベンチャー企業に所属しており、新規事業を立ち上げるためにアメリカにやってきている。ともにインターネット関連技術の専門家として、三年前に日本で入社した。半年前に、二人でアメリカに来た。
二人とも三十歳だが、駒田はまだ独身だ。隆一は、二年前にマリアと結婚したが、まだ子どもはいない。マリアは、東京の語学学校で英語の講師をしていて隆一と知り合った。
「本社の役員連中の言うことは、まともじゃない」
駒田直哉は、静かな口調だが、はっきりと非難した。
「まあ、そう言うなよ」
「だってそうだろう。今になって新しい方針を出してくるなんて、今まで俺たちがやってきたことが、すべて水の泡になってしまうじゃないか」
「確かにそうだが、新しい方針は、まだ決定したことじゃない」
隆一は、駒田をなだめるような口調で言った。
「まあ、彼らが撤回するように願いたいね」
それからは、会社の将来構想について、それぞれ思うところを話し合った。二人とも、会社のヴィジョンを明確に持って、それを実現しようという意欲に漲っていた。
駒田と別れた時、すでに十二時を回っていた。涼しい風が身を包む。まだ残暑が厳しいが空気が乾燥しているためか、日中でもそれほど暑く感じない。
隆一たちのオフィスのある世界貿易センターのツイン・タワーが見える。隆一たちは、北のビルの九十五階にオフィスがある。同じフロアの隣は、米系の証券会社のオフィスだ。知り合いもいる。
よく見ると、まだ明かりのついたところもある。ワーカホリック(仕事中毒)の連中がいるようだ。もっとも、いつもは隆一たちも十二時近くまでいるのだから、人のことは言えない。
はじめてニューヨークに来たのは、五年前になる。前の会社にいた時に出張でやってきた。マンハッタンに住む知り合いと一緒に、メトロポリタン美術館やワシントン・スクウェアを回ってから、世界貿易センターにも来た。天気がよくて風もない日で、屋上まで登ることができた。屋上からみたマンハッタンはまた格別だった。半年前に来てからも、数回登ったが、その都度新しい発見があって、子どもみたいにはしゃいだ。
マリアは、日本での生活が長く、料理教室にも通っていたので、和食もいろいろと作れる。朝はたいていパン食だが、たまにご飯と味噌汁を作ることもある。ニューヨークには日本人も多く、和食の食材も豊富に売られている。
この朝、マリアは、ご飯と味噌汁を用意した。
「うん、この味噌汁、うまい」
「ほんと?よかった。味噌を変えてみたの」
「おふくろの味がする。君は本当に料理がうまいね」
「ありがとう」
朝のニュースでは、アメリカ経済の先行きに対する見通しが語られている。前年のネット・バブル崩壊以来、アメリカ経済は急速に冷え込んだ。それが、特にアジアに波及し、日本も少なからぬ影響を受けた。
滝田隆一の会社も、ご多分に漏れず業績は芳しくない。それで、早目に事業の新しい柱を立てるべく、隆一と駒田がやってきた。その成果は徐々に現れ始めているが、まだ半年しか経っていないので、本社の希望する収益には到達していない。それで、先週になって、方針転換とも言える指示が本社から来たのだ。昨夜、駒田が息巻いていたのは、その指示に対するものだった。
隆一は、駒田と話し合って、昨日のうちにその指示の撤回を本社に要請した。
「相変わらず、景気はよくなりそうにないわね」
「そうだね。何か起爆剤になるようなことでもないとなあ」
「たとえば?」
「ひとつは、戦争、かな」
「戦争?」
「そう。アメリカは産軍共同体の一面があるから、戦争が経済回復の起爆剤になるんだよ。軍と結びついている業界から、その種の期待はいまだにあるのさ」
「湾岸戦争の時もそうだったのかな」
「そうだね。湾岸戦争の後、アメリカの経済はよくなって行った。ブッシュ大統領の時代は不景気だったけど、彼が湾岸戦争を実行して、クリントンになってから、経済はよくなったんだ。戦争の後に、徐々に景気が回復する、という図式だね。ブッシュは、景気がよくなかったから、大統領選挙でクリントンに負けたけど、実際は、彼が湾岸戦争をやったおかげで景気が回復した、とするアナリストは何人かいるよ。クリントンがついていた、とも考えられるけど、そのツキを呼びこんだのは、ほかならぬブッシュだった、というわけだ。」
「そのブッシュの息子が、現在の大統領よね」
「ブッシュは、軍とのつながりが強いと考えられている。だから、当然、その種の業界からの圧力は、あるだろうね。アラブあたりが、どこかで仕掛けて来るのを待っているのかもしれない」
マリアは、隆一の話を単純に信じたわけではないが、一理ある、とは思った。大学では、専門の語学教育とともに、国際関係論をかなり勉強した。その方面の関心は今も持ちつづけていて、国際関係の解説本をときどき読む。
東京にいた時は、語学学校の講師をしていたが、ニューヨークに来てからは、ニューヨーク大学の非常勤講師の職を得た。語学教育法の講座を週に2回受け持っている。
オレゴン州の出身だが、マリアの両親は、マリアが日本に来てからすぐに、交通事故で二人とも一度に亡くなってしまった。そのころ既に滝田隆一は、マリアが講師を務めていた語学学校に通っていたのだが、両親を亡くしたマリアを、隆一は会うごとに励まし、やがて交際を始めたのだ。
二人には子どもがないが、既に半ば諦めている。日本にいたころは、治療も含めていろいろと努力したが、今ではふたりの生活を楽しもうという気分になっている。隆一は、毎日帰りが遅いが、休日はしっかり取る。夫婦の交わりも週末が多いが、平日に遅く帰った時でも、体力が残っている場合は、マリアを誘うこともある。休日は、ほとんど二人で行動をともにする。セントラル・パークに行くことが多いが、たまにナイアガラの滝あたりまで遠出することもある。事業が順調に流れるようになれば、休みを取ってイエロー・ストーンあたりに行ってみたい、と話し合っている。
「今度の土曜日は、どこに行きたい?」
「もう決まってるの。ハドソン川ぞいに歩くの」
「歩く?歩くだけ?」
「たまにはいいでしょ」
「そう。わかった」
それから隆一は着替えをして出かけた。
駒田直哉はブロンクスに住んでいて、地下鉄で通っている。アメリカに来た当初は、隆一と一緒に住んでいたのだが、マリアが来るのに合わせて、別のアパートに移った。毎朝、貿易センターの近くで会うことがほとんどだ。
駒田には、東京にいたころからつきあっている女性がいる。仁科佳子と言って、二十五歳になったばかりだ。一ヶ月ほど会っていないが、毎日メールのやり取りをしている。佳子の誕生日には、小さな真珠のイヤリングを贈った。一ヶ月前に帰国した際に、誕生日が近かったので、二人で店に行って佳子に選んでもらったものだ。真珠は佳子のお気に入りだ。
付き合い始めてもう二年になる。駒田は佳子の両親にも会っており、佳子の両親は、早く結婚するように佳子に言うのだが、佳子も、また駒田も、まだ早い、と思っていた。そこへ、駒田のアメリカ人事が決まったので、否応無しに先送りになった。人事異動の発令から実際の赴任まで余裕があれば、その間に結婚してしまう、ということも考えられたのだろうが、実際には二週間もなかったのだから、赴任の準備で精一杯だった。
出発する日の前の夜、駒田の部屋で過ごしたのだが、男女の交わりの後、佳子は長いこと涙を流した。それは、駒田にとって驚きだった。佳子は、もともと感情表現が豊かではあったが、二年もつきあうと、夫婦に近いような感覚になっており、一時的な別れに際して、佳子がそのような反応を見せるとは想像もしなかったのだ。
駒田は、アメリカでの事業が成功すれば、佳子と結婚しよう、と思った。それに対して、この時の佳子は、いずれ駒田が自分から離れて行くのではないか、と漠然と思った。その不安が涙となってあらわれたのだ。
一ヶ月前に、駒田が一時帰国した際も、ホテルの部屋で一夜をともに過ごしたのだが、今度はもう涙を流すことはなかった。けれど、漠然とした不安がなくなったわけではない。駒田は、アメリカでは仕事のことが手一杯で、別の女性の影など感じられなかったし、ベッドの中でも佳子を激しく求めてきたのだが、その不安は消えなかった。いつからこんな心配性になったのだろう、と自分でも思うほどだった。
その日の朝、滝田隆一と駒田直哉は、貿易センターのエレベーター・ホールで顔を合わせた。二人とも快活な性格だが、隆一はどちらかと言えば冷静で、駒田は多少激しやすい。その分、駒田は本社への不満を漏らすことが多く、隆一がそれを宥める、といった図式になりやすい。ただ二人の仲は極めて良好で、一応、ニューヨークでは隆一のほうが上司という位置付けになっているが、ふたりともそれを意識したことは殆どない。新しい事業を成功させることを当面の最大目標とする同志のような関係だ。
「本社から返事は来てる?」
メールを確認しながら、駒田が聞いた。隆一が本社からの指示の撤回を求めたことに対する、本社からの回答のことだ。
「いや、来てないね。社長にも伝わってるとは思うけど」
社長の安藤は、まだ四十前だが、インターネット関連では教祖のように言われていたことがある。高校の時に行ったアメリカでの生活が長く、インターネットの経歴も十年以上になる。もともとアメリカでバーチャル・カンパニーを運営していたのだが、四年前に帰国して、今の会社を設立した。常に沈着冷静で淡々としており、おおよそエネルギッシュな創業者のイメージとは程遠い。その代わり、決断は早い。今回の指示も安藤から来ているが、それを強行するにしても撤回するにしても、安藤からの回答はすぐに出るだろう。
まだ回答が来ていないと言うことは、隆一からの連絡が、昨日のうちに安藤に伝わらなかったのかもしれない。
「しょうがないなあ。」
「まあ、回答が来るまでは、今までどおり進めるしかないんだから」
「そりゃそうだけど」
「それより、明日はサンフランシスコに行くんだったよね」
「そう。ニューアークから出る」
「全国的に天気はいいみたいだから、フリスコで少しゆっくりして来てもいいんじゃないかな」
「そうも言ってられないよ。あさってはボストンに行かないといけないし」
「そうだったね。そっちのほうが重要だな。」
「そう。ビッグ・ディールだから。」
そう言って笑うと、駒田は、なぜか仁科佳子のことを思い出していた。こんなことは、かつてなかった。しかし、その思いもすぐに消えた。やらなければならないことが、山ほどあるのだ。
窓の外には、青い空がひろがっている。今日も暑くなりそうだ。
夜の七時過ぎに、滝田隆一の目の前にある電話がなった。外はまだ明るい。
電話は、社長の安藤からだった。安藤は、秘書を通して電話をかけるようなことはしない。部下からの電話も、大抵は直接取る。
「メールの件だが。」
すぐに用件から入るのも、いつものことだ。
「君たちの言いたいことはわかった。だから、前回の指示のほとんどは忘れてもらっていい。」
隆一の予想したとおりの答えだ。
「ただし、最後の項目だけは撤回しない。」
最後の項目とは、安藤に毎日メールで報告を行う、という内容だった。これについては、隆一も異論はない。駒田は、これについても反対していたが、隆一は、自分がやればいい、と考えていた。三十分か一時間ほど、毎日の仕事が増えるだけだ。
「わかりました。」
それで電話は終わった。
報告は今日から始めなければならない。今日は十二時を回ることになるだろう。
アパートに帰ると、マリアはまだ起きて待っていた。マリアは、隆一が帰るまで必ず起きて待っている。今日は大学の講座のない日だったが、いつものように大学の図書館で調べ物をしていた。夕方には帰ってきて、少し横になって休んでから、読みかけの小説の続きを読んだ。
夕食はいつも一人だが、隆一のことを思い浮かべながら食べていると、不思議にさびしくはない。
ただ、このところ、隆一を求める気持ちが強くなることが多く、ひさしぶりに一人で慰めるようにもなった。それも週に一度あるかないかではあるが。
その夜も、九時くらいに隆一から電話があり、十二時を回りそうだと聞いて、電話が終わった後、急に体が熱くなって、それを抑えるために、胸に手をのばした。それからシャワーを浴び、テレビで映画を見るともなしに見ながら、隆一の帰りを待っていたのだ。
「遅くなってごめん。」
「ううん、いいの。疲れたでしょう。バスに入る?」
「うん。」
「じゃあ、今、お湯を入れてくる。」
「マリア。」
「なに。」
「久しぶりに一緒に入らないか。」
「ほんと?でも、疲れてるでしょ。」
「大丈夫だよ。」
ふたりは、広くもない湯船に一緒に入って、抱き合ったままじっとした。こうすると、心が落ち着いて、疲れも取れる。けれど、アメリカに来てからは初めてだ。そして、お互いの体を洗ったりしてから、そのまま体をつなげた。
バスから出て、隆一はベッドの上で改めてマリアを求めた。自分でもわからないが、激しく求めずにはいられなかった。マリアは、久しぶりに大きな声を出した。
翌朝、滝田隆一は少し遅めに出勤した。さすがに眠かった。
駒田は既に空港に着いているはずだ。たしか、ユナイテッド航空の93便だ。サンフランシスコに行く時は、隆一も大抵ユナイテッドを使う。
あと百メートルほどで北ビルに着く、というあたりで、隆一の頭上で、轟音が鳴り響いた。何が起こったのかと見上げると、ビルに何かが突っ込んだような感じで、バラバラと破片が落ちてきており、さらに煙が出始めていた。隆一の近くにまでガラスの破片が降り注いできて、慌てて退いた。何が起こったのか、全くわからない。いずれにしても、ビルから遠ざかるしかなかった。
その時、少し離れたところにいた男性が、
「飛行機が突っ込んだぞ!」
と、叫んだ。
隆一には、俄かに信じられなかったが、事故だろうか、と思った。
九時を過ぎた頃、ビルの中からバラバラと人が走り出てきた。みな、灰をかぶったように真っ白になっている。
その直後だった。飛行機の爆音が近づいてきて、南から低空で突っ込んでくる飛行機が見えた。その飛行機は、まるで南ビルに吸い込まれるように消え、次の瞬間、大音響とともに爆発し、すさまじい炎を吹き出した。
まるで、アクション映画を見ているような思いだった。
衝撃は、それだけでは終わらなかった。
ビルから、またバラバラと破片が落ちる中に、人のような形をした物体がいくつか、少し手足を動かしながら落ちるのが、隆一の目にもはっきりと見えた。
それは、間違いなく、人だった。
それを見ながら、隆一は、昨日の朝、マリアと交わした会話を思い出していた。
これは、戦争ではないか、と、思った。いや、正確に言うと、テロだろう。十年近く前に、同じ貿易センタービルで起こったテロ事件を思い出した。今回のテロは、そんな生易しいものではない。ビルに突っ込んだ飛行機は、戦闘機ではない。どう見ても民間の旅客機だ。おそらく、テロリストたちが、旅客機をハイジャックして、ビルに突っ込んだのではないか。しかも、連続して。
ともあれ、隆一は、オフィスが、ビルごと破壊されてしまった以上、アパートに戻るしかなかった。隆一は、携帯でマリアに電話し、簡単に事件のことを話し、これから帰る、と伝えた。そして、ニュースを見ておくように付け加えた。
地下鉄の駅は、いつもと変わらない。まだ、みんな事件のことを知らないのだ。
アパートに着くと、マリアが、不安そうな面持ちで迎えた。
ニュースでは、事件のことを繰り返し伝えている。
貿易センターの北ビルに飛行機が突っ込んだのは、八時四八分、南ビルは、九時六分だったらしい。
隆一は、テレビの音声を聞きながら、とりあえず本社にメールを送って、事件のことを報告した。しかし、自分の目の前で事件が起こったことが、今でも信じられなかった。
惨劇は、それだけでは終わらなかった。
十時頃には、今度は、ペンタゴンに飛行機が突っ込んだ、というニュースが飛びこんだ。九時四三分のことだったらしく、飛行機が突っ込んだばかりで、煙が立ちあがるペンタゴンの生々しい映像が飛びこんできた。
ふたりは、テレビの前に釘付けになった。
そのころ、駒田の乗った飛行機も、アラブ系と思しき男たちにハイジャックされていた。彼らはナイフなどで武装しており、客室乗務員を次々に刺し、爆弾だという赤い箱を手に、操縦室を占拠している。
乗客たちは最後尾の方に押しやられていた。駒田は、他の乗客三人と話し合い、犯人たちから飛行機を奪還する計画を立てた。その乗客たちの一人は、席が隣同士だったのだが、名前をジェレミーと言った。駒田たちと同じようなインターネット関連の会社で役員をしており、三十一歳だと言う。
乗客の何人かは、ハイジャックされた後、携帯電話で家族などに連絡を入れていたが、家族から貿易センターの惨劇を知らされており、自分たちも同じような運命を辿るものと覚悟を決めていた。
奪還計画を立てた後、ジェレミーは、同じように携帯電話で自宅に連絡をした。そして、妻と二十分ほど話して計画についても伝えた。妻は、それを聞いて、
「あなた、それをやらなければいけないわ」
ジェレミーは、二週間ほどの出張になるので、昨夜、娘のエミリも連れて、三人でレストランに食事に行った。
エミリは四歳で、とてもおしゃべりだ。才気煥発という言葉が似合っていて、ジェレミーにも、いろいろな質問をする。
食事の時も、エミリは思い出したように、
「パパのお仕事は、コンピュータのお仕事でしょ」
「そうだよ」
「ライアンがね、コンピュータを習ってるんだって」
ライアンというのは、近所に住む同じ四歳の男の子で、ジェレミーの家にもよく遊びに来ている。
「コンピュータって、難しい?」
「いや、そうでもないよ。エミリだったら、すぐ覚えるよ」
「じゃあ、パパに教えてもらおうかな。」
「それはいいけど、ママだってできるよ」
「あ、そうだね。ママも教えてくれるよね」
妻のリスベスは、急にエミリが振り向いて、自分に話しかけたので、飲みかけていたスープを、こぼしそうになってしまった。そして、三人で笑いあった。
飛行機奪還計画に参加したもう一人の男は、ナイジェルというイギリス人だった。ロンドンに住んでいるのだが、たまたまニューヨークに仕事で出張してきており、今回の事件に巻き込まれた。サンフランシスコの大学に娘が留学しており、出張のついでに訪問する予定だった。娘は、空港まで迎えに来てくれることになっている。
十年近く前に、ニューヨークの貿易センタービルが爆破された時にも、たまたま出張で来ており、すぐ近くを通りかかった。その時から、テロがあるたびに、許せない、という思いが湧いた。
この時も、隣の席に座っていた日本人らしい男と、アメリカ人らしい男が、奪還計画について話し合っているのを聞き、自ら志願して参加することにした。
ナイジェルは、先週、別れた妻と息子に会っていた。十年以上前に離婚したのだが、半年に一度は会っていた。娘は、ナイジェルと一緒に住んでいた。
息子は、十五歳になったばかりだ。二十歳になる娘が、離婚する時に父親と一緒に住みたい、と言ったので、母親と一緒に住むことになったが、父親にもなついていたので、半年に一度ナイジェルと会うのを心待ちにしていた。
その日は、ハイドパークで半日を過ごした。
駒田は、ジェレミーたちに合図を送ると、見張りに立っていたテロリストの男に襲いかかった。男はナイフを持っていたが、駒田がその男の腕を蹴り上げると、ナイフを落とした。続いてジェレミーが、その男の顔にパンチを食らわせると、へなへなと座り込んでしまった。ナイジェルは、持っていたロープで男を縛り上げた。
いよいよ次は、操縦室に乗りこむ番だ。
アラビア語を話せるナイジェルが、操縦室のドアをノックし、見張りをしていた男の声色を真似て、話しかけた。
ドアが開いて、控えていた駒田とジェレミーが一斉に飛びこんだ。ナイジェルともう一人の男性も、その後に続いた。
駒田とナイジェルが、ふたりのテロリストたちと揉み合っているうちに、ジェレミーが、操縦桿を握っている男の首に組みついた。
しばらくそうしているうちに、操縦していた男が、操縦桿を大きく左に動かした。機体が大きく傾いて左に旋回した。そして、飛行機は一挙に高度を落としていった。
テロリストの一人が、ナイジェルの腹にナイフを刺し、ナイジェルの腹は血まみれになった。そのテロリストは、もう一人の男性にも襲いかかり、男性が操縦室を出ていくのを追って、自分も操縦室を出た。
駒田は、飛行機が旋回して大きく揺れた直後に、もう一人のテロリストのナイフを取り上げると、その男に頭突きを食らわした。そして、その男の首に組みついて締め上げた。
飛行機はその間も高度を落とし続け、操縦室の前に小さな山が近づいてきた。
滝田隆一は、十一時ごろになって、その悲報をニュースで知った。十時半ごろのニュースで、ピッツバーグ郊外に飛行機が墜落した、と報じていたが、その飛行機が、ニューアーク発サンフランシスコ行きユナイテッド航空93便だと判明したのだ。
その便数を聞いた途端、隆一の頭の中が真っ白になった。
マリアは、そのニュースを聞いて、小さく声を発したまま動かなくなった隆一を見て、
「どうしたの」
それでも隆一は、しばらく動かないままだった。それで、マリアは、隆一の肩に手を触れて、
「ねえ、どうしたの」
隆一は、それでやっと我に返ったように、
「駒田が」
とだけ言った。そして、立ち上げって台所に行き、冷蔵庫から冷水の入った容器を出してコップに注ぎ、一気に飲み干した。
それで、やっと気を取り戻したように、
「駒田の乗った飛行機だ」
「ええっ」
マリアも思わず叫び声を上げた。
三週間後、滝田隆一のアパートを、仁科佳子が訪れた。
事件の後、マンハッタンは閉鎖され、猫の子一匹入れないようになった。全米の空港も閉鎖されて、国内を飛行機が飛ばない状態になった。厳戒体制が敷かれたのだ。国外からアメリカに向かっていた飛行機の中には、出発した空港に戻った飛行機もある。
翌日には空港の閉鎖は解かれ、仁科佳子も連絡を受けて、ニューヨークへと出発した。しかし、身元の確認はなかなか進まず、四日ほどで一旦帰国した。そして、先週になって漸く駒田の遺体が確認され、佳子は再度アメリカに向かった。駒田の遺体は現地で荼毘に付され、駒田の遺骨を持って、明日は帰国する、という日に、隆一のアパートを訪ねたのである。
「予感がしてたんです」
仁科佳子は、マリアの入れたコーヒーを一口飲んでから、呟くように言った。
「半年前にアメリカに出発するときも、一ヶ月前に帰国した時も、このまま彼が遠くへ行ってしまうんじゃないかって、不安な気持ちになったんです」
すでに泣き尽くして涙が涸れたのか、佳子は淡々と話した。
仁科佳子が帰国した後、アメリカがアフガニスタンを攻撃するという発表がなされた。ブッシュ大統領は、各国の元首の訪問を受け、その協力を取り付けた。
今回は、湾岸戦争のような連合国軍ではなく、米英が共同作戦を取り、各国がそれを支援する、という形になるらしい。日本の小泉首相も、自衛隊の派遣を発表した。
それらのニュースを聞きながら、滝田隆一は、いつかの朝、マリアと交わした会話を思い出していた。
そして、思った。これは、まさか、アメリカの軍産共同体の陰謀ではないだろう、と。
そして、また、思った。今度の土曜日は、以前マリアと話したように、ハドソン側のほとりを歩こう、と。
了