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◎ よか研究会とは
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よか研究会は、長崎の自然・文化・歴史などを、『気の置けない』、『好い女と好い男』が『肩
書や年齢や分野を忘れ』集い、『気楽に、和気あいあい』と語り合うためにつくられたものです。
よか研究会の名前は、長崎弁の横綱『ヨカッ!』、『ヨカケン!』や、『余暇』―に由来させたも
のです。略称は『よか研』といっています。
よか研究会の会員資格は、余暇時間を利用して、目的を達成すべく長崎のことを、自ら良く
学び、よく遊ぼうとするものですので、出席できることが資格要件となります。
5回連続して出席できないような忙しい方は、資格無しと認定しています。
運営の仕方も、事務局の負担等を考慮して、できるだけアバウトで融通無碍なものとしてい
ます。 浜 民夫 編集長
すなわち、よか研は和を最も大切にし、長崎の和華蘭・チャンポン文化の勉強をします。
”異文化”をキャリアとした、”異業種”からの老若男女の”異人”たちの交流と情報交換の場で
す。
地元長崎の人達と東京などからの転勤族が半々に混ざりあったあつまりです。これからも長
崎を楽しみ長崎からの情報発信をします。
○ 先日、TBSの朝の人気番組「はなまるマーケット」の取材を受けました。長崎の食文化の
中のチャンポン文化の庶民版として息づいている「トルコライス」がテーマでした。
15年8月15日に放送されます。
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番組ディレクター 長崎大学生協販売の 地元NBCの徳永キャスター
山本さん トルコライスを目の前にして
チャンポン文化を語る
◎ 長崎、Nagasaki、嗚呼ながさき!!
私だけでなくよか研究会の会員は、先人が残した長崎の財産、自然、歴史文化、川と港を大
切にしたいと願っています。
《守りたい、美しい長崎の海と島》
我々に残されている自然環境は、将来に向かって、是非とも大事に守りたいものです。長崎
の多くの島とその周辺の海の環境が守られているのは、島の開発の遅れが幸運をもたらした といえます。
逆転の発想で、森と海と森の動物や海の動物との自然の生態系を大切にしながら、自然と
調和のとれた経済発展を考えたいですね。
(長崎県の地図は三角形)
長崎県の地図を、壱岐、対馬を含めて描くとその形状は三角形になります。
頂点の辺りは対馬、壱岐になりますが、福岡県より遥か北に位置します。右辺にあたるの
が、佐世保や大村、諫早、島原、長崎あたりになり、左辺が五島列島になります。底辺は海で 三角形の中は海原です。長崎は海の県なのです。
(自然の宝庫)
長崎県には、湖沼のような大村湾や有明海、橘湾や天草灘があり、東シナ海や太平洋から
大海原に、そして大陸につながっていきます。このため長崎県の海岸線は、北海道に次いで 全国第二位の長さです。四千百六十五kmに達しています。
このように海岸線が長いのは、半島や岬、入江や湾が多いためです。そして島の数が圧倒
的に多いことが原因しています。全部で五百九十六、有人の島が七十五もあります。こうした 自然の条件は、素晴らしい海の美しさをもたらします。
珊瑚の海と透明度の高い海、真珠の養殖をも可能にし、漁獲高全国第二位と、豊かな海洋
資源、漁業資源の宝庫となっています。
自然環境の良さは、県内には日本で最初の国立公園「雲仙・天草国立公園」を指定させ、五
島を中心とする「西海国立公園」も指定されています。ほかにも、国定公園として「壱岐・対 馬」、「玄海」の両国定公園があります。
《長崎歴史ロマン館》の必要性
長崎は、異国文化と独自の文化を持っています。異国文化の風と匂いの中で生まれた、長
崎独自の歴史、文化があります。
長崎には、日本古来の文化と異国文化を上手く混ぜ合わせた、独自の文化と歴史がありま
す。年中行事、食文化、気質、習慣、町づくりに、それが現れています。
このような文化を、総合的に解説、展示する総合博物館「長崎歴史ロマン館」のようなものが
必要ですね。
東京の両国にできた「江戸東京博物館」や福岡の「福岡市博物館」のようなものが欲しいで
すね。長崎に観光で来た人が、長崎のことを正しく知るための、総合的オリエンテーションのた めの施設にもなります。
(大陸との交流コース)
壱岐は、その昔から大陸との海上交通の要所と考えられていますが、今、「原の辻(はるの
つじ)」遺跡の発掘で沸いています。
中国の歴史書「魏志倭人伝」に「一支国(いきこく)」として表されています。その王都が原の
辻遺跡の辺りでは、といわれています。主に弥生時代前期(BC三百年)から後期(AD三百年) にかけての大規模な多重濠集落跡のようです。
既に、原の辻遺跡は、国の史跡に指定されました。今後のさらなる発掘と大陸との交流の歴
史などの解明が期待されています。
大和朝廷は、唐との交流を深め、様々な文化や学問や技術などを導入するため、遣唐使を
派遣しました。最初のルートは、博多から朝鮮半島を経由する北回りでした。
しかし、このルートは、新羅に攻められるようになったので、途中から、中国大陸に直接向か
う南回りルートに変更されました。
第十四回遣唐使師船(七百七十六年)から廃止(八百九十四年)までの間は、日本最後の地
として、五島の福江島の「岐宿・三井楽」に宿泊し風待ちをしたということです。
朝鮮通信使は、徳川幕府の鎖国政策の中、江戸の入ることのできた唯一の外交使節でし
た。千六百七年から千八百十一年までの二百四年の間に、十二回の使節が朝鮮から、やって 来ました。朝鮮通信使を世話したのが、対馬藩の宗家の人々でした。
毎年、当時の民族衣装を付けて、アリラン祭りが行われています。
(ポルトガルとの交易、キリスト教の布教、南蛮文化の渡来、長崎開港コース)
千五百五十年ポルトガル船が平戸に入港してきます。フランシスコ・ザビエルも同年に布教
のため平戸に入ります。千五百四十三年に種子島に難破船が漂着してから七年目のことで す。
ときの支配者、大村純忠は、南蛮(ポルトガルのこと)と貿易したいため、千五百六十二年
に、横瀬浦を開港し、ポルトガル船を入港させます。翌年、純忠は洗礼を受けます。洗礼名ド ン・バルトロメとなります。
しかし、横瀬浦港は間も無く、焼き討ちされ、代わりに、福田港が開港されます。
ルイス・アルメイダは、千五百六十七年に長崎で布教を始めます。
純忠は、ポルトガルとの交易の独占と拡大を図るため、天然の良港である長崎の森崎の鼻
に六ヶ町をつくり、長崎を開港します。
それは元亀二年、千五百七十一年の事です。
こうして長崎は国際都市になります。
南蛮貿易の拡大によりポルトガル人が長崎の町に増え、加えてキリシタンが長崎に移住して
きたことなどから、長崎の町は高度成長を遂げ、急速に発展していきます。
南蛮風俗を初め、文化、芸術などあらゆる分野の南蛮文明、文化が長崎に入り、日本全国
に影響を与えていきます。
純忠は千五百八十年に長崎と茂木を、有馬晴信は千五百八十四年に浦上を、それぞれ、イ
エズス会に寄贈します。
千五百八十七年、キリスト教の影響やキリシタンの増大に危惧感を抱いた秀吉は、まず禁教
令を出し、教会領を没収するなど次第に弾圧を強めていきます。
キリシタン弾圧が強まり、ついには、千五百九十七年に二十六聖人が長崎の西坂の地で殉
教することとなります。
千六百三年に江戸に幕府を開いた家康も、神社仏閣を奨励し、千六百十三年にキリシタン
禁止令を出します。
この後も幕府は、キリシタン弾圧政策を強め、出島の築造に着手し、千六百三十六年の完
成を待って、長崎市内に居住していたポルトガル人をここに押し込めます。同時に、長崎で出 生した、ポルトガル人と日本人との混血児は、全てマカオに追放します。
千六百三十七年の島原の乱、そして千六百三十九年になると、ポルトガル人の入国は禁止
され、全て国外追放されます。
ポルトガル人が千五百七十一年に長崎に来航して、南蛮文化を長崎から日本にもたらして
から六十八年目のことです。
(オランダ貿易の窓口、出島コース)
千六百二年、オランダは連合東インド会社を設立し、千六百十九年には、本拠地バタビア市
の建設を終えます。
オランダは、ポルトガルが日本から追放された千六百三十九年には、平戸に商館を置き、日
本との貿易が許されていました。
千六百四十一年になって、オランダ商館が平戸から出島に移されます。
徳川幕府は、千八百五十四年にペリーと日米和親条約を結び、日本を開国するまで鎖国政
策を取り続けますが、この二百十五年間の鎖国の間、日本人の外国との窓口が出島であった わけです。この時代が、出島を中心とした。国際貿易の町として長崎が輝いた第二期黄金時 代といえるでしょう。
オランダ東インド会社から輸入している主な品物は、生糸、絹織物、更紗などの木綿類、毛
織物、砂糖、胡麻、香類、薬種、うるし、珊瑚、琥珀、べっ甲、鉱物、各種書籍類、医療機器、 測定具、兵器類などでした。
オランダ商館員であるツェンペリー、シーボルト、ポンペらは、日本のあらゆる分野に大きな
影響を与えていきます。
(明治維新とイギリスのグラバーさんコース)
日本は、ペリーの来航により、遂に千八百五十四年に開国します。そして、オランダ商館は、
四年後の千八百五十八年に廃止されることになり、領事館になります。
千八百五十九年、長崎にイギリス領事館が開設されます。同じ年にイギリス人貿易商、トー
マス・グラバーが長崎にやって来ます。そして、千八百六十三年に南山手が外国人居留地とな り、グラバー邸など洋館が建てられます。
グラバーは、長崎に来た長州の高杉晋作や伊藤俊輔に会い、新しい日本について説いた
り、当時の国禁を犯して、伊藤ら五人の長州藩士のイギリス渡航に手を貸したり、薩摩藩士の イギリス渡航にも協力したりします。また、科学技術面でも日本の近代化に貢献します。日本 発の蒸気機関車を大浦まで走らせたり、小菅に修船場、通称ソロバン・ドックを造ったり、採炭 用機器を導入して、近代的炭鉱として高島炭鉱を開発します。
そして、世界中から長崎に貿易商が来て、長崎は再び繁栄する町になります。
《長崎の川と港の利用の多様化》
長崎市内を流れる。浦上川、中島川の多様な利用を考える時期に来ていると思います。松
山の野球場の辺りや中央橋、眼鏡橋辺りに船着場を造り、浦上川、長崎港、中島川を、水上 バスや水上タクシー、屋形船を走らせることができると、素晴らしい観光名所になり、交通渋滞 も避けることもできますね。そのためには、河川や、長崎港の水質浄化などの環境対策が急 がれます。環境ビジネスの発展が必要です。
先日、浦上川で子供たちのペーロンの体験レッスンが行われているのを、たまたま散歩の途
中で見ましたが、とても良いものでした。川と港を繋いだ多様な利用の形態を考えたいです ね。水辺から見る長崎の町は、きっと格別のものがあると思います。
(浦上川・中島川の再生)
今、東京の隅田川は甦り、鮎ものぼるような綺麗な川に成っています。工場の移転や環境規
制の強化によって、工場廃水の大幅削減と生活汚水の減少効果によるものです。
長崎でも工場廃水の削減や下水道の普及率を上げ川や海のヘドロを取ったりして、浦上川
や中島川を歌に唄われているような綺麗な川に甦らせることは、出来ることだと思います。東 京でも出来たことですから。
(観光名所)
川と港を利用して納涼船や屋形船を浮かべて、夜景を見ながら、魚料理をつついたり、海上
バス、海上タクシーを走らせれば、新しい観光名所になるでしょう。船着場を造り、一定の水深 の確保ができさえすれば、運行の可能性は高まると思われます。
交通渋滞の解消にもなります。
《人が行き交う長崎県への転換》
長崎県の大きな課題の一つは、人口の流出、人口の減少問題です。
人口は経済社会が成立するために、最も基礎的で最大の条件です。
定住対策も大事ですが、国内外との交流による、短期、長期の滞在対策は、定住対策に負
けず劣らずに大切なことです。リピート効果もありますし、人が人を呼ぶ効果もありますし、結 果的に長崎県に定住することに繋がることもありましょう。
旅行者、休暇で来る人、退職後の長期滞在型で来る人、Iターン、JターンUターンで長崎に
来る人たち、研究や調査のために来る学者や研究者、いろいろな目的で人々は長崎にやって 来るでしょう。
そのために、リゾート施設、ホテル、ペンション、滞在型住宅などの宿泊設備の整備、研究の
ための施設や雇用の場などの環境整備を行えば、世界から、日本中から長崎に人が訪れる ことでしょう。そして長崎を中心に交流が盛んに行われるでしょう。
鎖国という規制の中で、長崎に人、物が集まって来た時代から、自らの努力と英知により人
が集まるようにすることが大切です。
さきに三つの提案をしましたが、離島や半島の自然の素晴らしさはそれだけで立派な観光資
源ですし、この財産と農業、漁業を結びつけて知恵を出せば、一次産業の活路も見出せるも のと思います。
人が集まるような町や村から、人が出ていくことも少なくなるでしょう。
自然と経済も発展、成長することになります。
(長崎大学環境科学部教授 浜 民夫)
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