『神とひとつになること』より
(サンマーク出版、ニール・ドナルド・ウォルシュ著)

人を縛ってきた10の幻想

すべての出来事は神が選んだことであり どんな出来事も神を不幸にすることは何もない
そしてあなたがたもそのように生きられる
神とはあなたがたという存在であり あなたがたは神という存在なのだから

※下記の文章は、サンマーク出版の「神とひとつになること」より抜粋し、私なりに並べ変えたりして、
自分なりのまとめ方をしてあります。実際の著書とニュアンスが異なったり、見解の相違のある部分があるかと思いますが、
できれば「神とひとつになること」の実際の本をお読みになることをお薦めします。


第1の幻想=必要性が存在する

自分の人生を見つめれば、次の瞬間に達するために必要なもの、そして、
今ここにいるあなたに到達するために必要だったものすべては、
いつも持っていたと解るだろう。
その証拠は、今、ここにあなたがいることだ。
他に何も必要でなかったことは明らかだ。
あなたの必要は常に満たされていた。
このことが解らず、幻想を現実と信じてしまうと
求めても得られないことが 苦しみに変わり、不安になり、所有欲になり、強迫観念になり、
あなたは執着の罠におちいる。
あるいは手に入れたものを失うまいとして、用心が不安になり、
愛が所有になり、強迫観念になり、執着の罠に落ちる。
こうして幻想の中で迷子になる。
すると本当に道を見失ってしまう。
真のあなたは何も必要としないのに、その自分を見失ってしまう。
「どうして私は、この人を、場所を、ものを必要だと思うのだろう?」
という疑問の答えを見つけられるのは、あなたの内側でだけだ。
何も必要とせず、すべての必要性が満たされている聖なる存在としての自分を体験する。
この真実に目覚めれば、あなたは日々の生命をもっと豊かに体験できる。
本当の自分自身になれる。

第2の幻想=失敗が存在する

あなたが体験したいのは真の自分だ。
自分でないものが相対的に存在しなければ、真の自分を体験できない。
だから、自分でないものを体験しているときは体験に失敗しているのではなく、
真の自分を体験する途中なのだと理解しなさい。
あなたのすることに失敗はなく、すべては達成したいと思うことを達成し、
体験したいことを体験するためのプロセスにすぎない。
失敗という幻想から離れるためには、
すべてを成功の一部だと見ればいい。
すべては成功を体験するためのプロセスの一部だ。
失敗は、「この道は私の道ではない」と教えてくれる。
すると、成功への道に一歩近づく。
そう考えれば失敗は成功のプロセスであることが解る。
失敗という幻想は成功の喜びを体験するために必要なのだ。
この単純な見方がすべてを変える。
人生のすべての「失敗」に対する感謝、
そして与えられた宝物にきづく。

第3の幻想=分裂が存在する

なにかとの結びつきが長くなると、個々の自分という
アイデンティティが失われはじめる。
ひとつであること(一体性)の歓喜と素晴らしさが消えてしまう。
人生はすべて、一体化と分離を繰り返し経験するプロセスである。
離ればなれでいるという、苦しみ、悲しみの幻想があるからこそ
一体性の喜びを体験できる。
しかし、本当に離れることはなく、離れているように見えても、
単に一部になっただけだ。
私たちの本質である一体性は、
思い出したときに再び経験される。
誰からであれ、何からであれ、真に離れることは不可能だから。
分裂という幻想を使い、全的な一体性の経験をつくりあげ、
その経験を何度も繰り返して創造しなさい。
そして一体感が強くなれば、人生の苦痛や失望は消える。

第4の幻想=不足が存在する

あらゆるものを持っていても、持っていることを知らなければ何の意味もない。
そこで不足という幻想が登場する。
この幻想から抜け出るには、自分の外側に不足を見つけたら、
それを満たしてやりなさい。
どんなに少ししか持っていなくても、必ずあなたより貧しい人が見つかる。
なにかの受け手になろうとするのではなく、源になりなさい。
そうすれば、自分はいつでも持っていたのだと思い出すだろう。
自分にして欲しいと思うように人にしてやりなさい。
与えれば、あなたはそのものになれる。

第5の幻想=課題が存在する

人が何かをする「理由」は、自分が選んだ真の自分の表現だからするので、
これにより「行為と存在」が逆転する。
人は何者かであり、だから何かをする。
何かをしたから何者かになるのではない。
すべてが一体であり、唯一の神が存在するだけなのに、
誰が何を要求するのか。
この幻想を「必要なことは何もない」と気付くために使いなさい。
あなたがたの真の性質は「自由」そのものであり、「愛」そのものである。
そして「愛」は何も要求しない。

第6の幻想=裁きが存在する

他人に裁かれたとき、人の魂は深いきずを受け切り裂かれる。
そのとき、裁きは決して愛の産物ではなく、愛に支えられていないと知る。
神の目には罪人など誰もいないし、誰でも永遠に無垢である。
本人の世界観にてらせば、不適切なことをする者は誰もいない。
なぜ、ひとつである存在が自らを裁き傷つけるだろうか。
裁きとは結論を出すことだ。
あなたがたは日々自分を創造し続けている。
決して創造を終えることがないから完了していない。
あなたは常に無限の可能性の場で、瞬間瞬間に 自分を新たに再創造している。
あなたは常に生まれ変わっている。 裁かれた者は、裁いているときにはもう存在しない。
この幻想で、このことを理解すれば、
自分を裁くことも、他人を裁くことも無意味だと解る。
愛は決して裁かない。

第7の幻想=罪の宣告が存在する

この幻想が作り出す相対的な関係性のある場で、
あなたがたは赦し、共感、慈悲など、存在の様々な側面を経験できる。
赦しは愛の表現のひとつだ。愛は決して罪の宣告をしたりしない。
だが本来、赦しは決して必要ではない。
何故なら「聖なる存在自体」が罪を犯したり、
犯されたりすることはあり得ない。
存在するすべてが聖なる存在なのだから。

第8の幻想=条件が存在する
この幻想から相対性がつくり出された。
本当は対立はなく、同じものの別の状態だ。
存在するのはひとつのエネルギーで、このエネルギーの個別の
具体的な振動をあなたは条件という。
ある条件ではあることが起こり、それが真実のように見える。
条件が変化すれば、真実も変化する。
真実とは「今、そうである」ということにすぎない。
それは常に変化している。
生命のプロセスは変化だ。
生命とは変化であり、したがって神はプロセスであり、変化である。
神は進化するエネルギーであり、なりゆく者である。
生命はただなるようになる。なりゆく者に特別の条件は必要がない。
あなたがおかれたと思った条件はあなたではない。
あなたは条件のすべてを合わせたよりも大きい。
人生の様々な条件を祝福し、贈り物としなさい。
あらゆる条件を感じとって判断するのは、常に自分自身だとわかるから。
こうしてあなたは、すべての条件の創造者としての自分を経験する。

第9の幻想=優越が存在する

私たちは一体である。人も生命のすべてもひとつの場だ。
したがって、他より優越している者は何もないし、あなたより優れている者も何もない。
どれひとつ同じもののない雪の結晶
それぞれが驚くべき美しさを生み出している。
そしてお互いが溶け合ってひとつになる。
だが決して無くなりはしない消えはしない。
ただ、形が変わるだけだ。何度も何度も
固体から液体に、液体から気体に、見えるものから見えないものに
何度も変化して戻り、何度も新たな美と驚異を展開する。
これが生命であり、これがあなただ。
ふれあうすべての生命に美と驚異を見ることだ。
それぞれが素晴らしく、それでいて、他のもの以上に素晴らしいものはない。
あなたがたはいつの日かひとつに溶け合い
ひとつの流れをかたちづくっていることを知るだろう。

第10の幻想=無知が存在する

「知らない」というのは役にたつ素晴らしい幻想だ。
そのおかげであなたがたはもう一度知ること、もう一度学ぶこと
もう一度思い出すことができる。
そのおかげであなたがたは循環を再び経験できる。
もう一度ひとひらの雪になれる。