余命一年の宣告を受けてから、さしたる苦しみもなくその期が過ぎ、
さらに一年はなにもせず体力、気力を失ってすごしました。残る時間は思いを綴りながら力の尽きるのを待ちたいと思います。


2001年9月


運動会
 一年生の孫の運動会なので、元気を出してのろのろ歩き、2キロほどある小学校まで行きました。

 運動会の風景や競技の種類はあまり変わりがないようでした。ただし、危険な棒倒はなく、騎馬戦も敵を引き落とすのでなく相手の帽子を取れば勝ちになっていました。また競争心を煽るようなリレーは少なくなっていました。とはいえ、曇り空の下でしたが、楽しい一日でした。

 はつらつとした少年少女よ、明日の日本をりっぱに築いてくれるよう、神のお恵みがありますように。
祈りつつ見守っていました。  
2001年09月30日 18時55分13秒

消えてくれぬ思い出
 九月十六日に「おかしな執着」を書きましたが、その執着によって今はT電機からもらった’88の手帳をギリシャ語の勉強ノートに使っています。七月あたりのページですから、まもなくこの手帳も使い切って、ゴミになります。

 T電機の字を見ると脳裏から消えてくれぬ思い出があります。三十年も昔になるでしょう。わたしの設計している特殊なフィルターの中にT電機の部品を使っていました。高電圧用のマイカコンデンサーですが、小さなT電気の売り上げの数パーセントに相当したでしょう。ある時期からマイカの入手が困難になったというので、油を充填するフィルムコンデンサーに変更承認しました。ところが部品変更したフィルターが電力会社に納入されると、次々に油漏れ事故が発生してしまいました。もちろんお客様への謝罪や取り替えにはわが社が回りましたが、T電機へは改善くれるよう何度も打ち合わせを行いました。

 その間われわれに対するT電機からの慰労などありませんでした。ところが、たまたま富士通(われわれの親会社)経由で納入したフィルターに油漏れが発生すると、富士通を含めてT電機と対策を協議する場をもたせました。協議が終わると、驚いたことに、T電機は盛大な接待をしてくれたのです。わが社は何年もT電機の面倒を見ていながら、一度も接待の声をかけてもらえなかったのに、親会社の富士通はただの一件でこんな扱いを受けたのです。

 子会社に働く者のひがみでしょうか、子会社の悲哀でしょうか。三十年経った今でも消えてくれない思い出になっているとは・・・。
2001年09月28日 22時24分41秒

テロとガン
 このガンは鉄砲でなく癌のつもりです。ふと、現在のテロ騒動とガンとの類似点を考えたのです。

 テロは1960年代に南北の経済格差が大きくなったころから問題になったようで、それが長い年月かけて重大になってきたといいます。ガンも発病までにはいろいろな悪い因子が重なっゆく長い潜伏期間があるようです。発病しても初期に発見されれば、外科的処置で完治することが多いといわれます。テロも地域的で小規模な段階なら絶滅できるかもしれません。しかし、ガンはこの時期を過ぎて進行ガンになる
と、体のどこに転移するかわからず大問題で、命に関わります。テロでいうとこの状態は世界にテロのネットワークができた状態に相当するのではないでしょうか。

 今ではテロのネットワークがずいぶん広がっていて、ニューヨークのテロ多発事件をきっかけに、これを絶滅するための戦いが始まるようです。、わたしの場合は今回の事件が肺ガンに相当し、進行ガンですから、完全なガンのネットワークはできています。すでに治療の手段もなく、今はガンとの共生状態にあって、気力体力ともにだんだん衰えています。

 もし、テロとガンが同じようなプロセスを辿るとしたら、テロ攻撃にどのような手段を選んでも、世界は破滅に向かう可能性があります。ガン患者のわたしという世界は破滅するでしょうが、青い地球に住む人類はいつまでも生き延びてほしいものです。
2001年09月27日 22時31分55秒

ことぶき花壇
 かつてのわたしの散歩コースの一つに「ことぶき花壇」がありました。妻と共に四季折々の花を楽しませてもらっておりました。この花壇は、旧い大きな農家が庭先の小さな畑を花壇用に提供し、近所のお年寄りが管理をしておられたようでした。ところが数年前に雑草だけになっていましたので、尋ねてみると、そのお年寄りが亡くなられたということでした。わたしにも悲しいことでした。

 数年前、わが家の近くの中原街道が拡幅され直線的に改善されました。昔の道との関係で新しい道のわきに小さな空き地ができました。役所はしばらくして木を植え、草花もあしらって小さ花壇にしてくれました。しかし年に二度しか手入れしないので、雑草が生い茂り、せっかくの花壇が荒れてしまい、道を通るたびにひとり嘆いていました。ポイ捨ての空き缶などをそっと拾ったことも何度かありました。

 ところが一年ほど前から、六十歳前後のご婦人が草抜きを始められました。日が経つにつれ、花が植えられ、日照りには水がまかれ、レンガなどで飾りができ、花も植え替えられて美しい花壇になりつつあります。まだ名はないでしょうが、わたしにとってはここもことぶき花壇です。

 世の中にはポイ捨てをやる奴から、凶悪な犯罪を何とも思わない奴まで悪いのがいっぱいいます。しかし心の美しい人もいつもいます。こんな人たちがバランスよくいるのが健全な社会なのでしょうか。善人ばかりの社会では、純粋種が環境の変化に耐えられないように滅亡してしまうでしょうから。

 とはいえ、暗いニュースが多い中にも、ことぶき花壇を見ることができるのはなんと慰みでしょう。
2001年09月26日 20時48分16秒

「ひとりごと」についてひとりごと
 すでに十回ほど書いたわけですが、それで気づいたことは、同じひとりごとばかり言っていたようだということです。新しい思いがわいてこないのです。

 感性が鈍いこともあるでしょう。日々新しい発見があるはずですから。とはいえ、終日家の中に閉じこもっている者にとって、新しく目に触れるものは少ないからかも知れません。福音書を少しずつ繰り返し読むこと、本を読むこと、テレビを見ることだけの生活ですから。

 そこで思うことは、忙しい忙しいと言いながら、せわしく働いているときこそ、子育てをしているときこそ、人生の夏こそ一番幸せなときだということです。ところが当事者はそれがわからなくて、早くのんびりしたいと考えます。これも失ってみなければわからない真理なのでしょう。

 神が天地を創造されたとき、六日働いて七日目に休まれたこと。そのように汗して働くことが人にとって一番自然で、幸いなように造られているのでしょうね。
2001年09月25日 19時18分12秒

満足
 孫たちにはオモチャや遊道具があふれています。次から次へと買ってもらっているようです。また、いろいろの所へも連れて行ってもらっています。わが家だけでなく、お隣の友達も孫以上に物持ちです。いや、今の子どもたちはみんなそうかもしれません。彼らは満足しているのでしょうかね。

 お母さんが働いているので、保育園暮らしをさせられたり、学童保育の世話になったり、いつも母親の愛情が受けられないのだから仕方がないのかな。親の考えに従って子育てをすればいいのだから、おじいちゃんの口を挟むことではないなと考えたりします。

 いやいや、子どもだけではありません。その親たちも、物に関する限り満ち足りていて、何を買うかを探しているのではないかとさえ思われます。世界中の難民キャンプでは多くの人たちが飢え死にしているというのに。

 この問題はわたしには答えが見いだせません。医者であったルカが書いた福音書によると、イエスは貧しい人たちが幸いだと言っておられます。その理由は神の国はその人たちのものとなるからとあります。神の国などどうでもよかったり、そんなものは信じないという人は、貧しくても幸せなどよりも、豊かさを追い求め続けるのかも知れません。つまり、満足は人生観と深く関わり合っているようです。

 さて、大人はともかく、物で一杯に満たされた中で育った日本の子どもたち、自分の国をいったいどんな姿にするのでしょう。豊かな人生観を育てることができるのでしょうか。
2001年09月24日 13時29分07秒

お彼岸
 今年のお彼岸はすばらしい秋晴れでした。わたしは60キロも離れた妻の墓参りに一人では出かけられません。せめて、かつていっしょに歩いた散歩道を少しばかり辿ってみようと考えて出かけました。

 わずか2キロメートルとぼとぼ歩いただけです。悲しいことに、一昔前のなつかしい日々を思い出すには時が経ち過ぎ、ただ息が切れるばかり、頭は働かないのです。
散歩の老夫婦が一組、元気よくわたしを追い越してゆきました。わたしの頭はうなだれます。

 苦しくなると頭が働かないのでしょうか。そんなことはないはずです。難病で入院中の妻が呼吸困難に陥り、人工呼吸器をつけてICUで処置を受けていたとき、苦しい息の中で、多くの筆談記録を残しました。その中に(文字は漢字にしました)----
 今(一昨日の前ごろから)「・・・二尺伸びたるバラの芽の針やわらかに春雨の降る」の前の五文字がわからない。一生けん命思い出そうとしています。 Do you know ?(茂吉か漱石か?) 教科書にある。しかし作者がどちらにしても血を吐きながらあんなに wonderful な歌をよめるのはいいなと思う。私など人のかいたものも思い出せない。今日はただ涙が流れて目がすごく痛いの。  ----というのがあります。わたしたちはようやく誰の歌かを調べ、「紅の 二尺伸びたる ばらの芽の 針やわらかに 春雨の降る」という正岡子規の歌だと教えてやったのでした。

 頭の中の働きはなかなか衰えないもののようです。ああ、あの喜びも悲しみも共にした日が遠くなったのです。健忘の恩恵のうちに、またお彼岸を迎えたのです。
2001年09月23日 23時10分08秒

おいしい新米
 今年も新米の季節になりました。そして今年も筑波山の野の新米を元会社で友人のFさんが送ってくれました。食欲のない今のわたしにも美味しく、うれしく、いただけました。この恩恵は十五年ちかくも毎年続いており、わたしが会社を辞めてからも十年になります。

 その昔、わたしは技術部で通信機器の設計を担当していました。三十四歳で入社しましたので、いい歳をしていても会社になじめないでいました。自分たちの設計した図面が工場に渡っても、どのように製造されてゆくのかさえよく知らなかったころのことです。

 工場の中ではきびしFさんでしたが、なぜかわたしにはやさしく、親切でした。彼は「技術部の連中が設計してくれなくては、工場はものを造れないのだ」と言い聞かせていたからでしょうか。しかし当時のわが社は富士通の子会社であり、富士通で営業価値の少なくなったような機種の製造が主体でしたから、小さな技術部など、工場からも他部門からもバカにされていた時代でした。そんな中でわたしたちの拙い設計でもバカにされることなく工場に流れたのは、まったく彼のお陰でした。わたしには
Fさんに感謝感謝しか返すものがありませんでした。

 そんなことが十年近くも続いたでしょうか。彼は新米が穫れると早速送ってくれるようになったのです。毎年のことです。さらに年末には餅を送ってくれました。わたしが彼に送ったのは感謝の気持ちだけだったのです。それしかできなかったのです。

 人間のFさんがこんなにしてくれるのです。ましてや、父なる神は感謝しかできないでいるわれわれに、どんなによいものを送ってくださることでしょうか。かつて青年イエスは、彼にすがることしかできなかった罪の女や、税金取りを救われましたが、神の前に善行をしていると胸を張るユダヤの学者や宗教家に対して、偽善者と言って罵倒されました。

 おいしい新米は感謝をあふれさせてくれます。
2001年09月22日 20時38分10秒

黄色い彼岸花
 この春は孫娘が小学校に入学しました。なぜか息子たちの入学のときよりもうれしい気分になりました。そして小さな楽しみを見つけました。

 彼女は毎朝七時四十五分ごろに家を出て、五十メートルほど先の道で集団登校の列を待ちます。わたしも毎朝出かけて、彼女が十数名のグループに合流するのを見送るのです。育ち盛りの子どもたちが賑やかに坂道を下って来るのを見るのは、なんともいえず爽やかで、それが楽しいのです。リーダーの班長さんに「おはようございます」と挨拶すると、単純なわたしの一日が始まります。

 合流点近くの家の垣根に黄色い彼岸花が二輪咲いていました。季節はめぐって、道端にたくさん咲いた雀の帷子の花を踏みつけた最初の日からもう半年近くなります。
世の中は新しい戦争の話題で騒々しいですが、わたしの小さな楽しみが今も続いています。
2001年09月21日 16時11分18秒

ベターハーフ
 老年の男たちがベターハーフを失った後まったく意気消沈して、仏壇に話しかけたり、墓地通いをしている姿などをテレビなどでよくみます。わたしもその男たちの例に漏れませんでした。

 十年あまり前に妻が昇天しましたが、クリスチャンのわたしは仏壇をもたず、数年は墓も造っていなかったので、一年余りの間、毎日彼女に手紙を書きました。天国まで配達してくれるものがないので、手紙はワープロの中に溜まりました。それらは悔恨とため息と泣き言でした。なぜ老いた男はこんなに弱虫なのでしょうか。さすがに今では手紙を書くことはやめています。

 肺がんと余命一年とを宣告されたとき、驚きはしましたがあまり悲しみを感じなかったのは、ああ、これで彼女に会える日も遠くないと思ったからでした。彼女が去ってからは楽しみを失っていまいました。何を見てもやっても楽しまないのです。
 だから再会のとき、かつての楽しみには比べられないほどの楽しみがあるはずです。
長い間待ち続けたからです。再会は肉の姿が消えてから、数億年という長い長い眠りの後かも知れません。それでも復活を信じて眠り続ける喜びがあります。

 ベターハーフに対しては、ハーフが二つあったとき、わたしも旧い世の男性の一人の如く威張り、「妻は空気のようであるべきだ」などと何度言ったことでしょう。そのくせ、いつも妻が側にいなければ安心できない弱虫でした。家族旅行をしたことは数回しかなく、ただ家の周りの散歩に引き出し、手をつながれると照れて逃げている平凡な一対でした。

 ベターハーフは不思議です。まったくの赤の他人がこのようになってしまうのですから。ハーフが一つになる日を待ち焦がれながら、わたしは衰えてゆきます。
2001年09月20日 18時46分09秒

祈り
 わたしはクリスチャンですので毎朝祈りますが、それが祈りといえるかどうかわかりません。いつも祈るべきですが、なかなか祈りません。祈れないのでなく祈らないのです。クリスチャンと自称すべきでないかもしれません。

 田舎で育った頃はわたしの家にも、神棚があり、仏壇があり、床には天照皇大神宮の掛け軸が下がっていました。祖母と母は毎日神棚に手を合わせ、仏壇に飯や水を供えてチーンを鳴らしていましたが、何を祈っていたのか尋ねたことはありませんでした。祖母が亡くなったころには、母の後ろで意味もわからずに読経をまねたこともありました。

 その後には、寺院や教会で祈りを見たり、音楽で乙女の祈りやアベマリアを聞いたり、神前結婚の祈りにも同席などして、多くの祈りの機会に接しましたが、祈りを特別なものとは感じませんでした。

 聖書を教えてもらってから、わたしも聖書勉強のときや、仲間の結婚式や、食事のときや、その他いろいろな機会に勝手な祈りをしました。しかし、聖書を教えていただいた先生に絶交されてから、祈りが少なくなり、忘れる日も多くなりました。それでも「天のお父様、今日も先生をお守りください」とだけは祈ったように思います。

 イエスは祈りを教えてくださいました。・・・
 「わたしたちの天のお父様、お名前がきよまりますように。 お国がきますように。お心が行われますように、天と同じに、地の上でも。 その日の食べ物をきょうも、わたしたちに戴かせてください。 罪を赦してください、わたしたちも罪を犯した人を赦しましたから。 わたしたちを試みにあわせないで、悪から守ってください。」

 今はこの祈りだけになりました。先生を守っていただくことと、今こそ聖書を学んだ兄弟がよい働きをしてくれるようにとの祈りを付け加えています。

 前置きが少し長くなりました。・・・言いたいことは、世の中が豊かになるにつれて、世界中どこでも祈りがなくなってゆくことです。どの神に向かって何を祈るかは大問題ですが、それはまた書くことにします。祈りがなくなることは衰退を意味します。人類の歴史をよく見るとそうなっているはずです。だから、祈りが生活の中心になっているイスラムの世界が繁栄し、先進国とうぬぼれて祈りを忘れつつあるキリスト教国が衰退する時代が千年を待たずに来るように思えてならないのです。
2001年09月19日 17時00分07秒

食欲
 食欲も失ってみないとその有り難さがわかりません。わたしは今、そのことを痛感させられています。いつも気持ちが悪い上に、食事の時間が近くなると、食事を逃れたいという何かが頭の中で働いているのです。それでも食べなければ死ぬと言い聞かせて、毎回食事をとっています。

 元気なときは食事を見るなり犬のようにガツツイテ食べました。食卓に自分の分が少なくなって行くのが悲しかったものです。・・・日々の糧をいただく感謝がなければ、人間の食事ではありませんね。

 クリスチャンでありながら、健康なときは感謝の祈りを忘れて食べていました。食欲が衰えてはじめて祈りのことを思い出しました。せめて食事の前くらいは祈ろう、感謝を捧げようとしたときには、もうた食べ物の味がよくわからなくなっていたのです。おいしくいただけないのです。犬から人間に還ろうとしたときには、人間の機能を失い始めていたのです。

 悲しいことです。しかし命を失ってみなければ神様の愛がわからないことほど悲しいことはありません。
2001年09月18日 17時04分23秒

天国の言語
天国ではいったいどんな言葉が使われているのでしょう。おそらく日本語も通じるのでしょうね。

 有名な指揮者の小沢征爾氏の師事した故斉藤秀雄氏のお父上は超人的な英語学者で、日本最初の本格的な和英大辞典を一人で編纂された方ですが、天国の言葉についてきっぱりと「それは英語だよ」と言われたそうです。世界大百科事典によると、・・・ 明治中期には,神田乃武(ないぶ),斎藤秀三郎,外山正一らによって,発音・会話と直読直解を重視する正則英語教育が唱えられ,正則英語学校の開設(1896)・・・とあり、英語教育の開拓者ですから、「さもありなん」と思います。

 ところで、わたしは最近になって、天国ではギリシャ語も使われているかも知れないと思うようになりました。新約聖書がアレキサンダー大王のころのギリシャ語(コイネーギリシャ語)で書かれているからです。わたしは大学生のころ聖書を教えられてから、ギリシャ語も怠けながら勉強しましたので少し読めますが、天国に行く前にまじめに勉強しようと考えました。

 仕事を全部やめると、一日の時間があり余ります。しかしわたしには限られた日の時間しかないので、この先に役に立つことがしたいのです。そのくせテレビを見る時間が多く情けないのですが、わずかにギリシャ語に夢をもっています。
2001年09月17日 14時25分07秒

おかしな執着
 執着心の薄いわたしですが、年老いてからおかしな執着をささやかに楽しんでおります。だれでも多くの衣服をもっていて、古くなると処分に困り洋服ダンスを一杯にし、衣装箱を買って詰めかえ、何を入れたのかも忘れているでしょう。わたしは幸い、長い間洋服は夏冬各一着、ネクタイは一本の生活でしたので、そんな苦労は少ないのですが、それでも息子たちからプレゼントされる歳になると、少しは溜まりました。

 さて、自分も老いたと感ずるようになってから、プレゼントはうれしいけれど重荷に感ずるようにもなりました。自分の肉体が消えるときには、わたしを暖かく包んでくれた衣服も共になくなっていてほしいと思うようになったからです。一つまた一つ着古してゴミに出すにつけ、感謝の気持ちと少しのうれしさを感じて別れました。

 また、戸棚を整理していて古い手帳をたくさん見つけました。1966年のものもありました。日記風のものなので捨てればいいのですが、それではかわいそうなのでギリシャ語の勉強ノートにし、白いページがなくなると、最後のページにお別れの言葉を書き込み、ようやく一冊をゴミに出すことができました。

 こうしておかしな執着を楽しんでおりますが、この肉体がだんだんと機能をうしなってゆくにつけても、身軽で天国に踊り込めるような喜びをもてたら、どんなに愉快でしょう。
2001年09月16日 17時01分25秒

人生の階段
 わがやのトイレには今年になって日めくり型の金言集がおいてあります。用意したのも、めくっているのも孫のお母さんのようです。このところ「つらくても 登っている方がいい 人生の階段」で留まっています。

 わたしは会社を辞めて九年になりますが、人生の階段についてたびたび考えました。人生の階段は下りが苦しいと痛切に感じたからです。登りはいつまでだったのでしょう。受験勉強も辛かったし、大学の助手をしながら研究成果が出ないのも、会社の仕事がうまく行かないのも苦しい過程でした。人生の階段を登っていたのでしょうか。それでも世間の目からすれば、わたしの階段なんて段差の小さい、低ものだったかも知れません。なるほど高みに立った実績も実感もありませんから。それでもわたしには苦しかったのでした。

 しかし、下りにかかってみると大変でした。息子たちは大学を出れば独立です。楽しい家族が小さくなりました。そして会社でも五十歳を過ぎた頃には窓際族になっていました。新横浜技術センターの六階の窓から、すぐ前のラブホテルに入って行く車を眺めたり、遠くの空を見ながら、ため息をもらす日々でした。部下をみんなもってゆかれて、仕事もなくなったからです。そこで小さな名古屋営業所に転勤させてもらって、飛び込み営業を試みましたが、息子のような年齢の相手にあしらわれました。実績も上がらず悶々とした日々を送っているうちに妻が召され、とうとう家族を失いました。気力も失せて辞職しました。独りぼっちになりました。しかたなくボランティアに精を出し、寂しさを忘れるために七年頑張りましたが、今度は健康を取り上げられました。そしてこの二年間に徐々に体力気力を失って、数百メートル歩くのが精一杯になりました。

 見方によれば登り階段で得た物は、階段を下るうちに大部分を失ってしまったのでしょう。なんでも、失うことは悲しく、悔しいです。 しかし、冷静に考えてみれば、人生は悲しい終わりを迎えるためにあるはずがありません。今は個の完成に向かっているのです。静かに人生を振り返り、過ぎてきた日々の恩恵を感謝しながら昇天の日を迎えるのです。
2001年09月15日 21時57分35秒

組織と個人
人はいろいろな組織に属さなければ生きてゆけません。しかし組織はやっかいなものです。時が過ぎると、いつの間にか組織本来の高貴な目的を忘れ、組織を守ることだけに努力するようになるからです。

 その例をあげればきりがありません。いま関心の特殊法人もそうでしょう。キリスト教もその例外ではありません。イエス・キリストよりもイエスの母マリヤ様や弟子のペテロの後継者という法王様の方がだいじな存在になってしまっています。イエスや聖書が中心になると、神と個人との関係が強くなり、組織は崩れるからです。教職者たちも失業するからです。世界を震撼させているイスラム原理主義の戦士たちはどうなのでしょうか。

 他人の話はともかく、わたしにも経験があります。学生時代にH先生から聖書を教えていただき、いつの日からか毎日曜日の先生の聖書勉強会に休まず通い、先生に惚れ込み傾倒しました。先生の弟子になって二十年間、盲目的に先生に仕えました。親の言うことはもちろん、勤務した大学の主任教授の言葉よりも、妻よりも先生の言葉は絶対的でした。神を恐れよといわれるイエスの言葉は怖くありませんでしたが、先生は恐ろしい存在となりました。いつも心を占領していたのは「こんなことをしたら先生に叱られのでは・・・」でした。家族のことも、親のことも忘れました。転職して会社に勤務してからは、わたしが設計した機器に不具合を生じ、納期も迫って仲間が日曜出勤して対応してくれた緊急の時も、わたしは先生の聖書勉強会に会社を休んで出席するありさまでした。いつのまにか先生の聖書勉強会の小さな組織が目的を越えたようでした。

 オーム真理教の教祖と組織と弟子たちの関係がよくわかります。わたしたちに幸いだったことは、わたしたちが学んでいたことがオーム真理でなくて福音だったことがその第一です。第二は先生が弟子たちを叩き出し始められたことでした。わたしがその日を迎えたのは、弟子になって二十年後の四十歳の時でした。その原因は小さな問題でした。その後に多くの弟子たちも全員、小さな事が原因で先生から絶交されてしまったようでした。先生は組織を自ら壊してしまわれました。先生と組織を失った弟子たちは、ただ聖書に向かうしかありませんでした。イエスが本当の先生になりました。

 目的を忘れて組織をまもることに汲々としている多くの団体を見ます。改革がいつも必要ですが、なかなかそれはむずかしいようです。聖書に「古い酒を飲んだものは新しいのをほしがらない。古い方が旨いと言って」とあります。

 ああ疲れました。こんな事を言っているうちはまだ死なないのでしょうか。
2001年09月14日 19時20分52秒

生きもの
わたしは月曜日夜8:00からのNHKテレビ番組「生きもの地球紀行」が大好きでした。今は「地球・ふしぎ大自然」を楽しみに見ています。そしていつも思うことがあります。生きものが子どもをいかに大事に育てるかということです。もちろん子どもを大事に育てない種は絶滅しますから、こうなるのは当然かも知れません。してみると出生率をだんだん下げている日本人は絶滅危惧種の一つかも知れませんね。

 人間も生きものの仲間ですが、彼らとの決定的な違いがあります。彼らは老いたり
傷ついたりするものを見捨てます。種を保存するために必要な掟なのでしょう。しかし人間はこの自然の掟に背いて親を敬い、大事にします。これが人間の人間たる特権かも知れません。ところが、社会が豊かになるに従ってこの人間性が崩れているように思われてなりません。大家族からだんだん最小単位の核家族になってゆくからです。

 わたしは息子の四人家族の中に加わって暮らしています。数年間一人暮らしをしたことがありましたが、いつも恐れたことは、突然死したら腐敗するまで気づかれないのではないかということでした。そのためわたしのマンションは、留守以外には鍵を掛けないままにしました。そんなことから家を改築したときから息子家族と共にくらすようにしたのでした。

 小さい一軒の家に住みながら、わたしは息子家族から距離をおいて暮らしています。息子たちは一つの家族なのだから、できるだけそっとしてあげたいと思うからです。食事や洗濯やもろもろの世話になりながらもそのように考えるのです。

 しかし人間らしさの思想からすると、これはいただけません。家族の中にあってにぎやかに暮らし、尊敬され、大事にされることを願うべきです。・・・今のわたしはすっかり物質文明に毒されてしまっているのでしょうか。そんなことを思いながら動物たちの暮らしをテレビで見ています。
2001年09月13日 19時18分15秒

不易流行
広辞苑によると・・・(芭蕉の俳諧用語) 不易は詩的生命の基本的永遠性を有する体。流行は詩における流転の相で、その時々の新風の体。この二体は共に風雅の誠から出るものであるから、根元においては一に帰すべきものであるという。・・・とあります。

 不易は永遠性、流行は最新性をあらわしているようです。わたしは幸いにも学生の時代に、不易の聖書を教えてもらいました。
教会には行ったことがありませんが、今日まで怠けながら聖書を読んでいます。流行については一応技術畑を歩んできたので、いやというほどこれに泣かされました。今は仕事がなくなったので、時事問題に関心をもってテレビや新聞を見ています。最近は改革に心惹かれます。

 わたしは今、気持が悪いのかあるいは息苦しいのか、全く元気を失っていて、おそらく余命は長くないように思われます。今は命のことを心配して聖書に埋没してもよいように思いますが、まだそうはなっていません。不易流行病なのでしょうか。

 今、米国では大変な事態に至っています。大統領のメッセージに世界の人が聞き耳
を立てています。大統領の言葉の最後に「神のご加護を!」がありました。不易が聞こえてきます。さて、日本の指導者はどうなのでしょうか。
2001年09月13日 14時16分59秒

自己紹介
学校を出てから大学の助手を八年、中堅会社に二十四年勤めました。
五十七歳のとき妻に先立たれましたので、意気消沈し、一年後に会社を辞めました。
さて、やることがない。そこでボランティアに生き甲斐を求め、七年頑張ってみました。
ところが肺癌のため余命一年の宣告です。もちろん一切の活動をやめました。
 わたしは腎臓障害があるので、抗癌剤も思うように使えませんでした。イリノテカンを十五回ばかり点滴しました。一年経っても癌の縮小は認められず、点滴も中断になりました。ガンの成長はゆっくりと続いているようです。

 不思議なもので、癌の宣告を受ける前一年ほど、胸の痛みが起こるたびに、「もしかすると癌ではないだろか」と落ち込んでいました。しかし宣告を受けてからは、開き直ったと言うべきか、気持がすっきりしました。もう癌患者なのですから。とはいえ、しばらくは動転したらしく血圧が200近くまで上がっていました。

 さてつぎは、いつまで生きるかです。わたしには、なんとか少しでも長く生きる延びたいという執着がありません。なぜでしょうか。
そんなわたしについては、ひとりごとを言っているうちに明らかになるかもしれませんね。
2001年09月11日 14時09分12秒

私のホームページへ