余命一年の宣告を受けてから、さしたる苦しみもなくその期が過ぎ、
さらに一年はなにもせず体力、気力を失ってすごしました。残る時間は思いを綴りながら力の尽きるのを待ちたいと思います。


2001年11月

ライムライト
 録画したビデオの中からチャップリンのライムライトを取りだして鑑賞しました。もう5回目くらいなので胸が熱くはなりましたが、涙ボロボロではありませんでした。

 最初にこの映画を見たのは、わたしの浪人時代でした。神戸大学受験不合格の結果を見た後だったか前だったか忘れましたが、涙もろい時期でしたので、暗い映画館の中では思いっきり涙を流しました。神戸市長田区の三流映画館でしたが、明るい商店街に出たときには、泣き跡を隠すのに困った思い出があります。

 じつは、入るときにも涙ながらの物語があります。姉家族の住む長田区の長屋で世話になって予備校に通ってしていましたが、お隣の方が当映画館の株主優待パスを貸してくださったので映画を見に行ったのでした。ところが入り口で「またあのパスを持ってきてはる!」と言われて、追い返されたのです。お金を払って入ればよいのに、長屋まで歩いて帰り、言い訳を教わり、教えられた通りにして入れてもらったのでした。こんなわたしでは大学にも入れてもらえませんね。

 わたしは今様の映画が嫌いで、ライムライトのような心温まる映画しか楽しめないのは、世代のせいでしょうかね。
2001年11月29日 20時03分10秒

フォスタープラン
 今日は二人のフォスターチャイルドに手紙を書こうと思っております。こういって公言しなければ書かないほどに、面倒くささを感じます。日本の国際貢献には日本人の顔が見えないというのが、この一事でもわかるような気がします。金を出すだけなら案外らくですが、実際に出てゆくとなると積極性と決心が必要なのです。

 フォスタープランは足長おじさんの役目のように見えますが、そうではなく、フォスターチャイルドに直接援助が届かないような仕掛けになっています。まわりの子どもたちに妬みをおこさせないために、その地域や家族にそっと援助する形をとっているからです。したがってフォスターチャイルドの方でもペアレントに援助してもらっているという感覚はないと思います。そんなわけで、このような関係でもきちんとお礼の書けるすぐれた子が選ばれているらしいのです。

 つまりペアレントもチャイルドも心のこもった文通ができないわけです。しかし援助とはこんなものでしょうから、わたしも書くことがなくても書く努力をします。
2001年11月28日 16時02分21秒

補助食品
 施設の事務所で昼休みを利用して、Mさんが大量のミキプルーン一式を小分けしていました。仲間に配るためです。彼女は十年来の熱心な愛用者なのでかなりの友人を仲間入りさせたようです。

 知人の強い薦めに負けて、わたしも半年ばかりミキプルーンやプロテインなどの世話になり、十万円分くらいは摂取したと思います。いろいろよいことばかり聞かされたので、ついその気になったのですが、腎臓病患者のわたしにはカリュームとタンパク質過剰とわかったのでやめました。

 妻が死の床にあったときも、妻の友人が熱心に奨めてくれました。誘いに従ってわたしが勉強会に出席しましたが、体験談を語る皆がその効能を喜んで泣き語るので耐えられなくなりました。子どものころに見た新興宗教の会合のようでした。

 肺がんのわたしにはアガリスク系の食品を推奨してくれる人がありました。しかし延命のために高価なそれらを買う気になれません。ケチなのかもしれません。それほどまでにして延命したいと思わないからかもしれません。

 あの勉強会以来、この種の食品は素直に受け入れられないのです。
2001年11月27日 19時39分52秒

ジェネレーションギャップ
 わが一族郎党の山中湖旅行がありました。一族の核はわが家の主婦の実家Sさんです。おじいさんおばあさん世代3名、お父さんお母さん世代6名、子どもたち世代6名の三世代15人でした。

 親子、祖父母孫と血のつながりのお陰で話はいろいろありますが、人気歌手の話などになると、世代を越えておじいちゃんは入れません。

 これが血のつながりがない世間一般となるとどうでしょう。
女性は暮らしむきの話が多いので、世代が異なっても話の種が尽きることはないようですが、わたしのような男性はジェネレーションギャップにあうと全く唖者になってしまいます。サラリーマン時代に上司の悪口を言って仲間と酒を飲んで、狭い人生を過ごしていたからです。

 わずか二十年ほどのジェネレーションギャップでもこのとおりです。もし江戸時代の人と同席したら、平安時代の人と話す機会が与えられたらいったい何を話すのでしょう。それはそれで互いに共通するものがなくて相手の話がおもしろいでしょうが、それを聞き終えたらどんな話の種があるのでしょうかね。

 このようなことを考えるほどに、一人暮らしの老人男性はさみしいのです。
2001年11月26日 15時30分42秒

だれの取り分
 真っ青な空です。葉を落としたMさんの柿の木に7個の熟した実が目にとまりました。先日収穫しておられたので、小鳥の取り分として残されたのでしょう。葡萄酒を樽詰めして熟成させるときに何割か減りますが、これを天使の取り分というそうです。また刈り入れ後の落ち穂は貧しい人のために残しておくそうですが、ミレーの落ち穂拾いはその貧しい人の姿でしょうかね。

 小さな思いやりがあれば、道路のポイ捨てや不法投棄などなくなるのでしょうにね。Mさんはときどき道路のゴミを拾っておられます。
2001年11月22日 18時56分58秒

ひろがり通信
 「ひろがり通信」はわたしが勤務していた会社の社友会(OB会)が発行している雑誌の一つです。年二回発行で、社友の動向を投稿してもらって会員に知らせるものです。この他にも「ひろがり」という雑誌を年二回発行していて、これは総会の記事や仲間の活動状況やインタビューを載せています。この他に展示会を年一回やるなど、これほどまでに社友のつながりを大事にする会社は少ないと思われます。これは会長のKさんに負うところが多いのですが、話が逸れていますのでまたの機会にします。

 仲間の記事を見ると、健康状態の報告・警告、旅行記、暮らし、雑感などですが、こんなことに気づきました。

 富士通から役員として出向してきた人の記事が、わたしのようなプロパー入社の人間のそれよりもスケールが大きいことです。たとえば、飛鳥で38日のグランドクルージングを楽しんだとか、イタリア旅行で各地に一ヶ所三四日から一週間滞在して美術を堪能して来たとか、毎週数回のビジターゴルフをやっているとか。・・・わたしも海外旅行はしましたが、ケチケチで、団体で走り巡って一週間といったようなものです。たしかに退職金も年金もわたしなどよりも多いのでしょうが、わたしでもやろうと思えば出来ないことではないので、ものの考え方のスケールが違うのかなとも思い、だから会社で業績を上げることが出来たのだろうとも思います。

 しかしよく話を聞いてみると、たいてい計画は奥様がなさるとのことだから、おばさんパワーがすごいのかも知れません。
わが家でもおばさんが生きていれば(肝のすわった人でしたから)、もう少し豪快な旅や老後があったかもしれません。
2001年11月21日 16時12分01秒

箒杉
 西丹沢にある箒杉は樹齢2000年だそうです。なぜこの杉一本だけこんなに生き延びたのでしょう。幸運だったからでしょうかね。

 長い長い命を保ってきた樹木には特別な力を感じます。近所を散歩するときにも、大きな欅などに出会うと側へ行って手を触れ、力をもらったような感覚に浸ります。

 箒杉のまわりは囲ってあって近づくことができません。近くのベンチに坐って全山の紅葉を眺めていると、数人のおばさんグループ(年齢はわたしと同じくらいでもおばあさんには見えません)が軽自動車で乗り付けました。なにやらおしゃべりをしながら箒杉のところに少し立ち寄り、すぐに次の観光に出発したようでした。ずいぶん楽しそうで、おばさんたちには箒杉以上のパワーを感じました。

 ひとり者の老人になったわたしは、悶々として生きています。あすの日本はおばさんたちの力で立たせてもらうべきだと思います。
2001年11月20日 15時38分04秒

バザー
 バザーのシーズンになりました。わが家でも昔からしまいっぱなしになっている結婚式の引き出物などを集めていました。
わが家は二代目なので提出物には困らないようです。

 幼稚園で働いていたとき、バザーに出すために買ってくる園児のお母さんがいたようです。適当な物がなくて出さない勇気が、かわいい子どものためには萎むのでしょうか。
 また反対に、ゴミにするにはもったいなくて捨てられなかった物を、これ幸いとバザーに出す人もいるようです。

 バザーはどのように考えればいいのでしょう。お金で売買するのだから神経を使わなくてもいいのでしょうかね。ともあれ、人に物を差し上げるときは、自分が惜しいと思うものでなければならない、とわたしは教わりましたが。
2001年11月19日 19時47分29秒

日本の秋
 世界中を知っているわけでもないのに、日本の自然は世界で一番美しいと思っています。

 16日の神奈川県は雲一つない快晴でしたので、南足柄市の友人の家から丹沢湖の奥へ日本の秋を堪能しに出かけました。

午前の鮮やかな光を受けて全山の紅葉が輝きます。モミジやナナカマドやウルシなど紅葉の代表選手は少なく、クヌギやコナラなどいわゆる雑木が多いのでしょうが、それでも暖色系を基調とした裾模様です。その中に杉や檜がいくつか緑の縞をつくっています。

 さらに奥へ林道が続いていますが、十月いっぱいでゲートは締め切り。紅葉の一番美しいときに締め切るとは意地悪なこと。ゲートのわきを通って少し進み、人が来ないのを幸いに天下の秋を満喫しながらの日光浴。友人はパンツ一枚になって一時間も長閑な陽光に肌をさらしました。

 一人だけ通りかかったおじさんもゲートのことを憤慨して行きした。何はともあれ林道にゴミを捨てに来る人が多いそうです。美しい日本を大事にしたいですね。
2001年11月17日 22時42分51秒

もう一つの寄付
 それは受取人のわからない寄付ことです。早くいえば、お金を落とした場合です。フォスタープランやunicefなどはしっかりした組織があるので、職員が寄付金を処理し、わたしの分など多くの額に埋もれたまま、計画に従って分配されてしまいます(フォスターチャイルドにも届きませんが、説明はまたの機会にします)。すべてが事務的でだれも喜んでくれません。ところがもう一つの寄付は拾っただれかがニンマリと喜んでくれているはずです。ある時からこれを寄付と思うことにしました。

 1978年1月28日のことです。わたしはオーストラリア出張中で、この日は休日を利用して観光バスでブルーマウンテンへ出かけました。あいにく雨になってしまいました。外の景色はすぐ近くしか見えません。運転手が英語でしゃべりながら案内をしてくれましたが、見えない上にオーストラリア英語では何もわかりませんでした。それでも何枚か写真を撮ったのでフィルムを買う必要が起こりました。ある休憩所の売店で1本だけ買ったのですが、それと引き替えに財布を置き忘れたらしいのです。わたしとしては大金の十万円を入れていました。それに気づいたのは旅行が終わる頃でした。運転手に話しても相手にしてもらえず、落とした場所は不確か、地理不案内、英語力不十分ではどうにもなりませんでした。しかし悔しくて悔しくてしかたがありませんでした。

 お金を燃したわけではない。だれかが拾ったはずだ。そこでわたしは拾った人に寄付したのだと思うことにしました。不思議に悔しさが消え、むしろ愉快になりました。
2001年11月14日 16時10分39秒

寄付のこと
 どうやってわたしの名前を調べるのか、日本unicefからアフガン難民のための寄付依頼が来ました。

 わたしは友人の薦めで1992年からフォスタープランのフォスターになり、毎月5,000円の寄付を続けておりましたが、1995年からは自分の定年を記念してもう一人フォスターチャイルドをふやして、毎月10,000円の寄付を続けています。彼と彼女が18歳になるまで継続することになっております。ところが現在のチャイルド以前に二人が消息を絶ち、その都度幼いチャイルドを推薦してもらったので、こんなことが今後も続くといつ寄付が終わるのかわかりません。それがなくても、わたしは肺がんなので、死ぬ前に息子に資金を渡して、彼らが成人するまで続けてもらわなくてはなりません。

 二人も面倒を見ているのだから、その他の寄付は断ることにしていますが、25万円もはたいてディジタルハイビジョンテレビを買う贅沢の罪滅ぼしと、テレビでアフガニスタンの人々の苦しみを毎日見せてもらっていることに対して、最低の5,000円だけ寄付する決心をしました。

 わたしの厚生年金は少ない額ですが、気の変わらぬうちにと、明日でも郵便局で払い込みましょう。
2001年11月13日 21時31分39秒

濡れ落ち葉
 冷たい雨の重みで枯れ葉がたくさん道に落ちました。花水木の葉っぱも柿の葉っぱも桜の葉っぱも艶やかに輝いて、黄色から紅へのグラデーションがみごとでした。ゆっくり眺めていると、こんな美しい自然の中に生きている幸せを感じました。しかしこれを人は濡れ落ち葉と称するのですね。

 道を掃き清めようとする人にとっては、たしかに濡れ落ち葉でしかありません。ところで、年老いた多くの男性たちも亦、道にへばりついた濡れ落ち葉のように、どこまでも妻にまつわりつくというのです。夫唱婦随といわれた夫婦がです。わたしの場合は「あなたが死んだら一年でわたしも死ぬ」と言っていた妻が先に逝ってしまったので、そのような幸せに出会うことはありませんでした。今もって悔しいです。

 ともあれ新しい落ち葉は美しいものです。あまりの素晴らしさに拾い上げて机に飾ったことがありましたが、三日もするとかさかさの落ち葉になってしまいました。 ああ、定年を迎えた男性の落ち葉たちよ、かさかさになる前に希望の人生を送るための発見をしなければなるまいよ。 
2001年11月12日 15時41分48秒

良寛さん
 横浜は晴れました。午前中は37歳の次男が両となりの男の子と孫娘に誘われて、大きな声を張り上げてカン蹴りをやっていました。午後からは鬼ごっこです。小さな路地のどこに隠れるのでしょう。

良寛さんは道元の『正法眼蔵』に心酔した、曹洞宗の偉いお坊さんのようですが、次男は毎日深夜まで働き、週の半分ほどしか家に帰らない忙しい、偉いとはいえないサラリーマンです。

 しかし子どもたちの叫び声を聞く限り、良寛さんが子どもたちと遊ぶ姿と変わりはないようですね。ほほえましい限りです。
2001年11月11日 23時11分56秒

写真で思うこと
 とりあえず退職後の写真だけでも、コンピュータに取り込んでCDにする作業に没頭しております。わたしは肺がん患者でしたね。

 写真を見て思うことは、よい写真などないことです。ピントは甘いし、色は出ていないし、アングルは悪い。ことに紅葉の鮮やかな輝きなど全く見られません。焼物に柿の色を出そうと苦労した柿右衛門の話が小学校の教科書にあったのを思い出します。ともあれ、我慢してスキャナーを走らせています。

 こんどはその数のことです。わたしは写真が少ない方だと思われますが、それでも7000枚以上になります。孫たちがわたしの年齢になったらその何倍にもなるでしょう。それにおびただしいビデオがあります。どう処理するのでしょうかね。

 現代人は情報に溺れていると言われます。後の世の人々は自分自身の情報にも溺れるのでしょうか。それでいて世を去るときは戒名だけを残す、なんてことはないでしょうね。それとも自分の過去の記録を見ることなどないのでしょうか。先のことなどわたしにはわかりません。
2001年11月10日 22時16分54秒

秋雨
 雨が降っています。花水木の並木の深紅が雨に煙ってなかなかいいです。と思っていると桂の黄色も美しい。見まわすとさつまいもや大根の葉っぱなどの緑も鮮やかです。雨に洗われたのですね。

 人の心も何かが洗ってくれれば、戦争などしなくてすんだかも知れないのにね。
2001年11月09日 16時35分29秒

行きはよいよい
 YAHOOのADSLに加入したのでDREAMNETの会員契約を解除しました。驚いたことに、入会に比べ退会が厄介なのです。解約のページを探し、メールすると解約手続きのアドレスが返信されます。それを期限内(三日?)に開いて、解約申込書をプリントアウトし、記入捺印の上返送しなければなりません。わたしは成功したかどうかわかりませんが、意地悪されているようにさえ思えました。

 さて、日本の大学はどうでしょうか。この話とは逆に、入りにくく出やすいといわれます。ボンクラなわたしは入るに一年よけいかかりましたが、追い出さるように卒業しました。その後はますます受験地獄とエスカレーター卒業が続きました。

 大学改革が検討されているようです。日本が技術立国であり続けるために、入りやすく出にくいといわれるほどに、学生が勉強してほしいと思います。
2001年11月08日 17時47分16秒

叱る
 昨日は息子たちを狂気の如く叱ったと書きましたので、そのお話をしましょう。なぜ叱ったかなど忘れました。なにしろ、些細なことで叱ったので、叱られた息子たちはなぜ親父が怒るのかわからなかったでしょうし、怒っている間に自分もなぜこうなったかを忘れるくらいでしたから。しかし情景だけはまだ覚えています。

 長男の場合は中学生の頃ですが、短波放送がたくさん聞ける高級ラジオを買ったばかりで喜んでいるときに、それを床に叩きつけて粉々にしました。次男の場合は高校生だったか、楽しんでいるエレキギターを割ってしまいました。その後も買ったばかりの数万円もする背広をずたずたに裂いたことがありました。三男は要領がよかったのか、わたしがだまされていたのかそんなことはなかったと思います。妻に対しても、怒りの余り台所の椅子を床に投げつけましたが、丈夫で壊れないので狂気のように壊しつづけたことがありました。

 ふとした言葉でカッとなったものです。しかし今はそんなことは起こりません。むしろ若い人には叱られないように気をつけ、かわいい年寄りになりたいと思いますが、なかなか難しいようです。
2001年11月07日 15時53分44秒

ほめる
 菊の花が香っております。文化の日には偉い人が勲章や褒章をもらって喜んでいました。偉くなっても、年を取っても、褒められるとうれしいんですね。 わたしは褒められたことが少ないので、孫娘には、できるかぎり褒めてやっております。息子たちには、狂気の如く叱ったことはあっても、褒めてやったことはないのに。

 わたしは中学生のころに作文で褒めてもらったことがありました。どんな本でもよいから、読後の感想文を書くという宿題でした。本など嫌いな少年でしたが、たしか月刊少年倶楽部を送本してもらっていたので、「草もえぬブアンの牧場」という物語を見つけて感想を書きした。ところが、先生は「感想文にはこんな書き方もあります」と言って、みんなの前で読まれたのです。褒めてもらったわけではなかったですね。

 わたしの言いたいのは、あれから50年も経っているのに、ちょっとうれしい言葉をかけられただけで、物語のタイトルを忘れないでいたということです。なるほど、わたしは今でも褒められることを待っているようです。そのくせ、他人のことを褒めるどころか、褒められた話をそばで聞くと羨ましく思うのです。

 あらゆる欲は年を取ると消えるが、名誉欲だけは残るといわれるのは本当のようですから、褒章制度はなかなか無くならないでしょうね。
2001年11月06日 19時21分30秒

悪夢
 このところ夜の頻尿のことを書きましたが、目覚める多くの場合に夢をみているのです。よい睡眠がとれないのとその後で寝付かれないのは我慢するとしても、酷な夢ばかりには困ります。

 一番多いのは、学校で時間割を間違えているのに気づく夢のようです。ランドセルを開いてみると今日使う教科書が見つからないのです。小学校ではそんな経験がないのに、どうしたことでしょうね。授業で悔しい思いをしたのはむしろ高校時代でした。

 わたしは国語が苦手でした。中国山脈の背骨のような山奥に生まれたわたしは、まったく田舎者の高校生でした。東京で教鞭をとったことのある東大出H先生の国語の授業は雑談が多く、たいてい都会の粋な話題だったので楽しかったのですが、田舎っぺのわれわれをバカにしたようなところがありました。そんな教室でわたしは小便の我慢ができなくなって、先生が講義しながらそばを通られたときに、小声で、「先生、便所にゆかせてください」と言うと、「こいつ、オシッコだって」と大声で笑われました。もちろんわたしは恥ずかしさのあまりスリッパも片足のままで教室を逃げ出しました。悔しさが忘れられません。でも、立派な先生でした。この授業で暗記させられた奥の細道など今でも頭に残っています。

 悪夢のことです。世界で最も繁栄したアメリカが最貧国のアフガニスタンをやっつけるのはどうなのでしょう。
2001年11月05日 16時23分10秒

大事の前の小事
 こんな言葉がありましたかしら。わたしの病気に関しては大事が肺がんです。これは小事とはいえないかも知れませんが、腎機能の不良(通常の3割程度の能力)のため蛋白尿と潜血があります。それにこのところ頻尿で夜分に4回もトイレに立ちます。でも、どうせ肺がんで逝くのだから前立腺がんの心配などしてもはじまらないと思ってしまいます。

 わたしの健康問題なら、世界の中では極微小事ですが、世相は大事の前の小事の様相を呈しているように思えます。アフガニスタン空爆はテロ撲滅のために大事でしょうが、そのために庶民が犠牲になるのは小事ではすまされないようです。

 世界のリーダーがわたしの健康観と同じになってもらっては困ります。
2001年11月03日 19時35分42秒

捨てる
 不景気解消には老人にお金を使わせるべきだとの意見に少しだけ協力して、ディジタルハイビジョンテレビを買うことにしました。さて、大きなテレビがわたしの部屋に入るとなれば、八畳足らずの部屋が書斎であり寝室でありますので、何か捨てねば入り切れません。とりあえず、アルバムの写真をCDに入れることにしてこれを捨てることにしました。

 捨てるについては、わたしが死ねば衣類はもちろん図書も書いた物や写真も捨てられてしまうでしょう。それは覚悟の上なので、日記や書簡や写真の一部はCDにして、三人の息子に一枚ずつ残すことにしました。ただし、プライバシーに配慮してわたしが100歳を越えてから開くよう注意書きして遺品としました。そのころには登場人物の多くはこの世にいないでしょうから。

 人が死ねば位牌と戒名しか残らないのは、子孫にとって気の毒だと思います。げんにわたしは、若くて死んだ祖父の生涯についてすらほとんど知らず、残念に思っております。そんな思いから妻の両親の姿をのこしてあげたいと考えました。三人の娘がそれぞれ長男に嫁いだため、両親の死とともに家が消えたからです。不動産は近くに住む次女が相続しましたが、文化的な遺産は長女の夫であるわたしが子孫のために書き残してあげたいと思い、二度ほど家を訪れて、物置に放り込まれていたそれらを整理しました。しかしその一部を文書にした段階で、三女の反対にあいました。また次女は古本屋を呼んで彼が価値を認める物だけは売り払い、その他は家と共に廃材として処分してしまいました。そのためわたしの思いは途切れ、戒名と位牌と墓石だけが子孫のために残りました。

 せっかく人生を生きたのですから、遺伝子を子孫として残すだけでなく、生き様の何かを形で残すのは間違いでしょうかね。歴史は為政者(歴史上の人物)と文化人(文士・芸術家など)だけのものではなく、庶民もいるから創られているのですから、切り捨てては可愛そうですね。
2001年11月02日 16時26分13秒

つつじの芽
 今年の夏は日照りが続きました。近くの県道に植えられた花水木並木の下のつつじが薪のように枯れた姿をさらしていました。わずかに土が見えるだけに狭せばめられたアスファルト舗道の植樹スペース、こんな過酷な環境では夏が越せないのだなと哀れに思っておりました。ところが最近になってそれが小さな芽を吹いたのです。枝先の部分は枯れたらしく黒々としていますが、根本に近い部分は緑でした。なにかしら復活を思わせます。

 イスラム過激派の連中はテロを聖戦といい、死ねばすばらしい国に行けると言うようですが、アブラハムの拝した神(アッラーは神というアラビヤ語の普通名詞)が、そのように言われたとコーランは教えるのでしょうか。彼らの復活はわたしにはわかりません。

 わたしたちの神もアブラハムの拝した神で、その名はヤーウェ(ユダヤ人は”神の名をみだりに唱えてはならない”というモーセの十戒を厳格に守ったので、ヘブライ文字で書かれた神の名を読めなくなったといわれます)です。神は死後のことはあまり語っておられないようです。しかしわたしは勝手に、復活の折りにはきっと妻との再会があると信じながら、その時を楽しみにしています。

 枯れた姿に新芽を見るとき復活を感じるのです。
2001年11月01日 16時40分02秒

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