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さらに一年はなにもせず体力、気力を失ってすごしました。 残る時間は思いを綴りながら力の尽きるのを待ちたいと思います。 |
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死期に向かっている患者が贅沢はいえませんが、足のしびれが辛いです。先日ペットボトルの湯たんぽの話を書きましたが、詰め替えの熱い湯が口元にかかったらしく、漏れて布団を濡らしてしまいました。お奨めできませんね。ともあれ、暖めても暖めなくてもしびれが辛いのです。 25日の妻の日にいただいたカサブランカの香りが今も部屋中に漂っています。どんなに辛くても生きているのですから我慢しましょう。 |
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2002年05月31日 19時23分36秒
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背広のポケットに入りそうな小さなスタンドを十年ほど前に買いました。施設のバザーで売れ残っていて200円ほどだったと思います。可愛いので机の周りや、部屋のあちこちに置いてみましたが、照度や高さの不足で役立たず、ついに邪魔者になってしまいました。 しかし彼に機会が巡ってきました。わたしは机に着くと足がむくむので、窓の枠からベッドの上に板を伸ばして小さな机にし、その上で写経をやっています。ところが手暗がりでした。 そんなとき彼がこれを助けてくれたのです。 何でも、誰でも役に立つときが来るのですね。 |
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2002年05月30日 20時02分05秒
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最近はやることがないから、手ぶらのことが多いせいかも知れません。気が付くと手を握りしめているのです。そんなことが何度も何度も起こります。 赤ちゃんが産まれてくるとき、しっかり手を握りしめているのと関係があるのでしょうか。わたしは次々と機能を失って赤ちゃんに近づいているように思えます。 |
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2002年05月29日 20時15分46秒
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わたしの右足の水虫はいつからでしょう。すくなくとも20年は共生状態です。その間何回か殺戮を試みましたが、根気がないのと、水虫が乾燥性であまりかゆみがないのとが災いして彼らの繁栄に任せてしまいました。ついには右足全ての爪の中まで侵入され安閑とさせています。 数ヶ月前から、わたしの彼らに対する気持が攻撃に変わりました。毎日怠ることなく水性の薬を塗っております。しかし爪の中は始末におえません。昨日は入浴後に爪が柔らかくなったのを機に、犯された部分の爪を切り取りました。まだ不完全ですが、爪の半分くらいはなくなって薬もいくらか行き渡るようになりました。 ところで、なぜ今ごろ水虫の治療など始めたのでしょう。数ヶ月後には火葬場で煙になってしまうはずの個体(わたし)に住む水虫を今ごろ殺戮してみても空しい話です。でも、毎日薬を塗っているのです。 |
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2002年05月28日 19時17分48秒
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毎日1キロほど歩いて東やまた工房(精神薄弱者更正施設)まで出かけていましたが、歩くのが辛いのと、おじいさんの瀕死の病人姿をこれ以上晒したくないので、行くことをやめました。ここでボランティアを始めてから十年になります。 わが家でも机に着いていると、痺れる足(膝小僧から先)がパンパンにむくんできます。長い時間は無理です。ベッドで横になってむくみを引かせなければなりません。これでは唯一の写経作業が進みません。 ああ、わたしの自由な世界が一つ一つ消えてゆきます。これが人生の終焉期というものでしょうか。 |
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2002年05月27日 23時21分51秒
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「立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は百合の花」という言葉は小さい頃から知っていましたが、美しい芍薬には出会ったことがありませんでした。 25日は妻の命日ですので、妹のA子さんが6種類の切り花を届けてくれました。長男の義父母様からはカサブランカが今年も届けられ、もう11回になったはずです。 白い花びらが火山の噴火のように顎の上に広がった芍薬を見せてもらいました。初めて出会った美しさに満足し、長生きさせてもらった幸福を感じました。その上にカサブランカが芳香を部屋中に漂わせています。 妻に関する物はわずかの写真とその父親が描いた娘のデッサンしかありませんが、ともに喜びをかみしめています。 |
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2002年05月24日 19時36分11秒
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春頃から目がかすんできました。病気のせいだと諦めていましたが、どうやらメガネの度が合わなくなってきたようです。 あと2ヶ月の命ならメガネを変えることもないといえますが、少しの命しかないのならしっかり自然を見ておくべきだとも考えられます。しかしそれとは別に、わたしがメガネを変えることが許されるかどうか悔恨にかられます。 十一年前、妻が名古屋市立病院の個室にあって酸素吸入をしながら辛うじて命を保っていたとき、とつぜん「メガネを変えたいわ」と言いました。たいていの人なら「すばらしいメガネを買ってあげるからね」と答えるでしょう。わたしは無言でした。メガネを変えてももう自然を見ることなどないのにと、心の中で思ったからです。 彼女のメガネはわたしが買ってあげたようです。24年前彼女の母が肺がん末期で大阪関電病院に入院していたとき、彼女は介護に通いました。ある時新幹線にメガネを置き忘れたので、早速東京駅長室に「そのメガネは主人の買ってくれた大事な記念品です」と電話しました。駅長さんはていねいに対応してくださり、間もなくメガネは戻ってきたと言っていました。 彼女はメガネを一度も変えていませんでしたから、とうの昔に目に合わなくなっていたでしょう。ともあれ、今わたしがメガネを変えるについては、彼女の言葉が頭を離れません。 |
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2002年05月23日 19時53分48秒
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足のしびれが酷いのです。空しいのですが、暖めて少しでも緩和しようとしています。ベッドの中へは入れば次第に暖まりますが、足もとはそれまで待ち切れません。湯たんぽを入れることにしました。 わたしの湯たんぽは、六甲の水のペットボトル(2リットル)です。最初の頃は給湯が40度になるのを待って、ボトルにつめましたが、数リットルの水を流してからやっと採湯なのでもったいない! そこで、ボトルの冷えた水の半分をやかんにかけて熱してからボトルに返します。ちょうど40度くらいになります。 いくらでもあるから邪魔物になりますが、ペットボトルは便利です。こんな例が世の中にはいっぱいあるでしょうが思いつきません。30年ほど前ラオスに出張したとき、田舎の市場ではビール瓶を切ってコップにし、飲み物を売っていました。 |
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2002年05月22日 20時32分43秒
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わが家から最も近い店は、100メートルほどの所にある青木商店です。わが家ではカモメパンと呼んでいます。そんなメーカーのパンを置いていたからですが、20年この方業態はほとんどかわらず、菓子類とインスタントラーメン、たばこ、切手をおばあさんが売っていました。おばあさんの姿も変わりがなかったように思います。たばこは表の自動販売機がおばあさんから仕事を奪いました。わたしは切手しか買いませんでしたが、この店が今月いっぱいで消えます。 数年前まではわが家から50メートルほどの所にお米屋さんがあり、わが家でもお世話になった時代がありました。道路の拡幅に伴って、近くの山本記念病院のそばに移転して商売を続けていましたが、最近になって閉店してしまいました。 わが家から300メートルほどの所にコンビニが二軒できています。昔ながらの小さな店は近所からほとんど消えました。 懐かしいけれども、不便な古い店は消えてゆきます。宮崎駿さんがアニメにでも残ってくれるといいなと思います。だそくですが、孫たちは「となりのトトロ」の大ファンで、鴻太は数十回、はるなも十回以上見ているでしょう。じつはわたしも大ファンです。 |
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2002年05月21日 17時49分18秒
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病院からの帰りにOKストアへ連れて行ってもらいました。 一階が売り場で二階、三階は駐車場です。建物の大半を売り場関係の目的に使うと、その費用が全部商品に上乗せされるでしょう。消費者のためでなく、安い商品を大量に仕入れ経営を成り立たせるのではないでしょうか。食材においてもしかりでしょう。 冷蔵庫のなかった時代、市場がありました。わたしは神戸市長田区の市場の近くで居候をしましたので、市場にもよく行きました。主婦は毎日毎日たいへんですが、買い物に通い新鮮な食材を手に入れました。 食文化。どちらが贅沢な食を享受しているのでしょう。グローバル化は悲しいですね。本物が食べられない。 |
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2002年05月20日 20時23分57秒
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健康な人にはつまらないことで、体のバランスを失った病人の話です。 最近まで何を食べても嫌な味が口中に残って、四六時中苦しい思いをしていたのに、それが消えたようなのです。それの上、味覚も少し戻ってきたらしいのです。 動物は食べることが生きることですが、かれらの仲間から進化した人間も食に関する欲や味覚を失うことは一大事です。それは失ってみなければわからないですが、ふたたびもどってきたときはなんともうれしいのです。 その絶頂は死んだ者が生き返る復活でしょう。これを楽しみにしないとは勿体ない限りです。 |
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2002年05月19日 19時34分53秒
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会社の先輩Sさんからお見舞いの電話がありました。Sさんの会話は笑い声の連続です。昔から笑顔一杯の人で、お客様の前でも扇子を使いながらなごやかに話されるような営業部長さんでした。 定年前に会社を辞めて神学校に入り、しばらく牧師を勤められました。80歳の今はただの教会員のようです。 Sさんの人生は喜びいっぱいだそうですが、クリスチャンはそうなのでしょうか。わたしには福音書からイエスの笑い声が聞こえてきません。 |
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2002年05月18日 19時58分38秒
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孫のはるなのことです。ピアノを始めてから一年半くらいになるでしょうか。始めるに当たってはわたしも提案者でした。 最初の一年くらいは、毎週一回のレッスンの前に5分ほど練習してから教室に行きました。これではだめだと思いましたが、彼女の父も母ももっと練習をしなさいとは言いませんでした。 二年生になる少し前に、学校から帰るとカバンを机に持って行くことと、その後ピアノを5回練習することとを、おじいちゃんが命令しました。はるなは実行しています。友達が部屋で遊んでいても5回の練習はやります。学校から帰るのが遅くなっても、ちゃんと練習をします。 そんなはるなを見ると可愛くてしようがありません。なにか買ってあげたいと思います。しかし、遊具もスポーツ用品も最新のものをみんな持っています。父と母がふんだんに買い与えるからです。 わたしたちの子どもの頃は何もありませんでしたが、はるなのお父さんの子どもの時代はかなりの子供用品がありました。 しかしわたしは買い与えませんでした。子どもたちはほしいものを買ってくれるのを待ち続けました。待つことの楽しさと忍耐です。 はるなに買ってあげるものはありません。残念ですが、「はるなはえらい」と言葉をかけるだけにしています。 |
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2002年05月16日 20時15分00秒
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写経は一般に、サンスクリット語で書かれた仏教を漢語に翻訳したお経を祈りの心をもって写すことです。日本の写経で有名なのは平家納経です。1164年9月、平氏一族32人が1人1品を厳島神社に奉納しましたが、棟りょうの平清盛が一族の栄達を願って納めたのは般若心経でした。豪華な下絵、装丁、国宝中の国宝です。 高貴な写経はともかく、古今東西多くの人が写経します。お経を唱えるのと同じ心になるからでしょう。お隣さんも写経に励んでおられるようです。 ところで、わたしの写経です。福音書の原文(ギリシャ語)からの写経というわけですが、会社で使わなかった手帳に写しているのです。手帳が一杯になると捨てます。もう10冊ほど捨てました。手帳がなくなると、古いノートに書き写し、次々と捨てる予定です。手帳やノートを書き尽くさないで捨てるのは勿体ないからです。では何のための写経でしょう。 平清盛とは正反対で、残すためではありません。福音書を少しでも原文通りに覚えたいのです。こんな気持で写経だけの生活をしています。 |
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2002年05月15日 17時52分10秒
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道路脇の小さな公園に石竹が輝いて咲いています。見つめると目が痛いような鮮やかさです。丈は10センチほどでしょうか。 わたしの最初の写真は4、5歳ころのもので、石竹の花が背景です。わたしの背丈ほどもにも写っています。白黒写真ですので花の色はわかりません。 近年花も、果樹も、人間の都合で大きさを変えたり、色や形を変えています。それもいいですが、自然のままの花や果樹はもっとすばらしいように思います。自然の恵みのトマトや茄子やキウリの味も忘れてしまいました。 |
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2002年05月14日 19時46分39秒
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遠くから見る故郷の山川は変わりがなく、新緑には圧倒されるばかりでした。 しかし川は護岸工事のために淵がなくなり、子どもの頃に泳いだ淵はは二つとも浅瀬になっていました。山も大きく変わったそうです。杉の植林はだれも手入れしないので荒れるにまかせてあります。手を掛けても木の売値が手入れの費用をカバーできないからです。雑木林もほったらかしです。便利なプロパンガスのおかげで、薪も炭も必要ないから雑木を切ってそれらを作る人がないのです。 こうして山や林が自然に還ってゆくにつれて、猪や鹿が増えてきたそうです。わたしが郷里に滞在した日にも、猪の侵入を防ぐ防護柵(電気を流す)を集落の田畑の周りに設置する作業をしていました。 米作りが至上善であった時代、先祖たちが命がけで谷川沿いに奥の奥まで、猫の額のような土地まで田圃にしたその土地が見捨てられ、奥から徐々に下流へと荒れ地と化しています。米を作っても金にならないし、老いた人たちには耕作できなくなったのです。 米作りの忙しい時期には農協などに作業を頼むそうです。そんな費用や肥料や農薬などへの出費は生産した米の売値に近いそうですから、今や米作りは田圃を荒らさないために続けているだけといいます。 山深い郷里は遠からずして人の住むところでなく、原生林と野生動物の生息する里となるのでしょうか。 |
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2002年05月13日 16時45分44秒
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歩くスピードをコントロールできない経験がありますか。 わたしは東やまた工房まで、ほぼ1キロをできるだけ毎日歩くようにしていますが、最近は歩くスピードをコントロールできなくなりました。 行きは下りですのでコトコト歩きます。早くも出来ず駆けることなど考えも及びません。帰りはわずかの上りですが、これがだんだん急坂に見えてきました。今の能力は「哲学者の歩み」です。後ろ手に組んで、頭を垂れ、考えを展開しながら歩くそれに似ています。もちろんわたしの頭の中は、あそこまで歩く、次はあそこまで頑張るとそんなことしかありません。 自由に歩けないことは悲しいことです。たしかに、自由は失ってはじめてその有り難さがわかります。 |
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2002年05月10日 20時34分10秒
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これからどれくらい生きられるかを表すグラフを作るとしたらどんなものを描くでしょうか。 縦軸は健康度とし、横軸はこれから生きられる期間としましょう。適当な大きさのグラフとするため、多くの人の横軸は10年単位ないし年単位でしょう。縦軸は70%以上の健康度が平均年齢の近くまで続くでしょうか。さてわたしはどうでしょう。横軸を月単位にすると5,6,7,8月まで、縦軸の健康度については20%程度から下降線になるでしょうか。 こんな中で生きるのは複雑な気持ちです。なにも考えません。写経に相当するのでしょうか、聖書の原文を写すことだけに時を費やしています。 |
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2002年05月09日 16時49分13秒
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このところひとりごとを言わなくなりました。病気を受け入れて無気力になっているようです。衰えということでしょうか。 大型連休も終わりました。これからワールドカップの始まるまでを何の時期といえばいいのでしょう。日本中忍耐の時というべきでしょうか。 ひとりごとを言えるようになりたいです。 |
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2002年05月08日 18時31分07秒
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五月が始まりましたが、鬱陶しいスタートになりました。多くの五月の花が四月に咲いて少しさみしい月になりそうです。 それに妻との別れの月であり、11年間うなだれて過ごしたように思います。 この月、わたしはどこまで耐えられるでしょう。日本中が耐えているのだから、わたしもなるがままに。 |
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2002年05月01日 20時21分18秒
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