
晋平メロディーを育んだ美しいふるさとの自然晋平が日野村新野(現中野市新野)で生まれたのは明治20年(1887)。鹿鳴館で華やかな舞踏会が毎夜繰り広げられていた頃のことです。
晋平は6歳で父を亡くしましたが、新野ののどかな雰囲気のなかで、のびのびとした子ども時代を送りました。音楽との縁は、尋常小学校時代のことで、学校にベビーオルガンが備えつけられたことがきっかけだといわれています。一時は奉公に出るなど家計を助けるために苦労しましたが、学業は優秀で、近くの神社に伝わる式三番叟の笛役を務めるなど音楽でもその才能を発揮しました。 高等小学校卒業後は、代用教員になり、子どもたちの音楽教育に情熱を傾けましたが、学問への志を絶ちがたく上京。新劇界のリーダーであった島村抱月のもとで書生をしながら、東京音楽大学(現在の東京芸術大学)へ進学します。
歌のこころはつねに大衆とともに島村抱月との出会いは、晋平のその後の人生に大きな影響を与えました。
当時、抱月は芸術座を結成し、わが国に新しい演劇の道を切り拓こうとしていました。晋平は、恩師のために「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲。これが、カチューシャ役の松井須磨子とともに大ヒットをおさめ、晋平は作曲家として華々しいデビューをはたします。
その後も「ゴンドラの唄」「さすらいの唄」などの流行歌を次々と作曲し、ヒットメーカーとしての地位を不動のものとしました。晋平の歌は、日本独特の旋律を生かした口ずさみやすいメロディーが特徴です。
尊敬する恩師、抱月は「大衆なくして芸術はない」を信条としていました。弟子である晋平もまた、大衆に愛される歌を終生作り続けたのでした。
永遠に歌い継がれてほしい珠玉の童謡
歌謡界でヒットを飛ばす一方で、晋平は、北原白秋や野口雨情、西条八十ら詩人とともに童謡運動に参加し、「しゃぼん玉」「あの町この町」「背くらべ」など子どものための童謡を800曲余り作りました。
それまで学校で歌われた唱歌が軍歌調だったのに対して、晋平の歌は平易で親しみやすく、昭和27年(1952)に死去した後も、多くの人々に愛唱されている歌がたくさんあります。
作曲家、中山晋平の業績は、中野市民の大きな誇りです。永遠に歌い継がれてほしい―そんな願いを込めて中野市では、生誕100年の昭和62年に、中山晋平記念館を建設し、作品集や書簡、愛用品などの所蔵・展示をしています。また昭和39年から始まった中山晋平記念音楽賞は、わが国の創作音楽の発展に寄与する活動として高い評価を得ています。生誕110年には、全国童謡・唱歌サミットの開催地にもなりました。
私たちの周りでは、たくさんの歌が流行し、そして消えていきます。そのなかで晋平のように時代を超えて愛される歌は貴重な存在です。晋平の音楽と気さくで謙虚だった晋平の生き方は、中野市のこれからの人づくり、まちづくりのなかでしっかりと生かしていきたいものです。
長野県中野市公式ホームページより
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