わたしが子供のときに住んでいたアパートは、鉄筋コンクリートで(わたしは子供のときテッコンキンクリートといっていたようです。)、当時としては珍しく、どっしりしていました。今はかなり古ぼけて見えますが、わたしたち家族が住んでいたとき、外壁全体を塗り替えたことがあり、その時はピカピカでした。当時は市営だったと思います。
アパートの中は玄関、台所、3部屋(6畳、4畳半、2畳)、水洗トイレ、ベランダとなっていました。お風呂はありませんでした。(お風呂は近くの銭湯に、一家で一日おきに行っていました。)四畳半が居間でベランダに面し、6畳の部屋はあまり使っていませんでしたが、わたしが小さい頃はそこで寝ていました。大きくなってからは2畳の部屋が私の寝室と勉強部屋を兼ねるようになって、机と椅子と布団を置くと部屋がいっぱいでした。布団を敷くと椅子が机の下から出せませんでした。この部屋には作り付けのタンスがありました。
台所と居間の間の壁には小さな窓が付いていて、できた食事を居間に出す時のためにあったのでしょうが、台所側に食器棚が置いてあって、窓をさえぎっていたので使っていませんでした。窓の隣がすぐ居間への入り口でだったので必要ありませんでした。
台所が狭かったので、冷蔵庫は玄関の板場に置いてありました。入り口のドアを開けると冷蔵庫と対面です。他のお家もそうしていたような気がします。居間から玄関に通じる戸があったのですが、これも冷蔵庫に邪魔されて使っていませんでした。冷蔵庫と台所の間(玄関の一部)に洗面台が付いていて、これも玄関に入ったとたんに見えます。トイレの入り口はその洗面台の正面にありました。
このアパートは入居希望者が多かったようで、母がくじで当てました。くじ運は悪く、それまで何も当たった事はないけれども、神頼みで拝んだら当たったそうです。
赤飯も最近は真空パック。便利になりました。でも少し寂しい。というのも、昔はうちの母が、手間暇かけて作っていたからです。学校が終わって家へ帰ってくる頃には、もう支度が始まっていて、家に入ると同時に、あずきを炊いた匂いに気が付きます。(家とは言っても小さなアパートのことで、アパート中匂いがしていました。)あずきを炊いて赤くなったお湯は捨てないで餅米を炊くのに使います。それでご飯の部分も赤くなります。母がまだ熱いあずきをザルにあげて、お湯と分けているのを思い出します。湯気がたくさん上がって、むせ返るようなあずきの匂いが一段と強くなります。そんなにいい匂いではないけれど懐かしい匂い。電子レンジから出てくる赤飯は、やはり寂しい。
小学生のとき、岡山に住む父方のおばあちゃんを水彩で描きました。おばあちゃんが糸つむぎをしている光景です。左手で糸車の輪の部分を回しながら、右手の指先で毛をよって糸にしていきます。おばあちゃんは、絵の中では手ぬぐいを頭に巻いていたと思います。当時、田舎には夏休みと冬休みに帰っていましたが、その絵を母が郵送したのでしょうか、次に田舎へ帰ったときには額縁に入って壁に掛かっていました。
学校では絵が得意だったので、よく教室の後ろとか廊下に絵を貼られた事はありましたが、額に入れてもらった事はなかったので、多少ショックで嬉しかった事を覚えています。それから何度も田舎へ帰るたびに、その絵を見る事ができました。
そのおばあちゃんは今でも健在で、当時糸つむぎをしていた同じ場所に最近新築された家で、息子夫婦、孫夫婦、ひ孫と一緒に暮らしています。
ある日、同じアパートに住んでいるおばちゃんの所に母と遊びに行きました。ジュースを出してくれたのですが、ジュースをかき混ぜるのに使う、例のプラスティックの棒の色のことを、おばちゃんと母が台所で小声で話しているのが聞こえました。母はあの子は青が好きだから選ばせたら絶対に青を取るよと言っていました。その直後にもちろん、おばちゃんと母の前で棒を選ぶ事になったのですが、わたしとしては二人を失望させたくないと思って、「聞こえてたよ」などとは言わず、青を選びました。おばちゃんと母は顔を見合せて笑っていたと思います。結構、子供だって気を使ってるんですよね。
昔は、いろんな人たちと友だちになれたから面白かったですね。わたしも、看板屋さん、材木屋さん、畳屋さん、タイル屋さんとかの子供さんと一緒に遊びました。
そういえば、昔は映画館の絵とかも誰かが描いたものだったし、車の横にある会社名も手で書いたんですね。学芸会で私は狐だったのですが、子供達が頭につけた動物の絵は、看板屋のお友達のお父さんが描かれた物だと思います。その時、頭につけるベルトのようになった所を、ホッチキスでとめるようにと借りて来たのに、母と近所のおばさんは、初めて手にして使い方がわからなかったのを覚えています。
学校で石炭ストーブに火をつける時に、新聞紙と木切れを使っていましたが、それがもちろん材木屋のお友達の家では屑としていくらでもあるので、彼女はいつもストーブを使う時になると、家から木切れ(屑といっても、ちゃんと細くまっすぐに切ってある)を束にしたのを持って来てくれました。
石炭ストーブを覚えていらっしゃいますか?これもまた古い話ですね。主人に話したら、呆れ返っていました。
母も疎開組で、場所は釜山でした。当時、家族はお金持ちで、お兄さんはハンググライダーに乗ったり、空手用の部屋を作ってもらったりしたそうです。日本に帰るときにみんな失ったようですけど。父も母も岡山の農家の出身です。父方も一時景気がよく、父は若い頃、絵でも描きながら遊んで暮らそうと思っていたそうですが、父の祖父が株でお金をすってしまって、予定が変わったようです。
893といえば(ヤクザですよね?)、山口組の家が、住んでいたアパートの近くにあったのを思い出しました。よく腹巻き姿のお兄さん達を見かけました。近くとはいえ、私たちの住んでいたあたりには来ませんでした。「仁義なき戦い」という古い映画を見たことがありますか?本当はヤクザの殺し合いの話ですが、呉弁が可笑しくて笑い転げてしまいました。
わたしが学校帰りに行ったのは、住んでいたアパートから見える所にあった「豊田」というお好み焼き屋さんでした。わたしが呉を離れたころ(中学校の半ば)にはまだ建物は残っていましたが、営業はしていませんでした。今は何になっているか・・・見たら涙が出てしまうでしょう。隣がお店になっていて、毎日、母から10円もらって駄菓子を買いに行きました。この駄菓子も大手の会社が作ったのではないので、今だにあるのかないのか。たまに友達と行って、お好み焼き、焼そば、焼うどんを目の前で焼いてもらって食べました。お好み焼きは例の広島流の薄いやつで、東京や千葉でお好み焼きを何回か食べましたが、同じではないです。アメリカでもまだ広島流のは食べたことないです。
山本さんの学校はすばらしい環境ですね。(前回のメールにあった、山本さんの行った小学校と中学校の写真を見て。)最近、引っ越しをしようとしていて、娘のために学校を何か所か見ましたが、とうていかないません。私の通った本通小学校は校庭が広く、桜の木がふちに並んでいてよかったのですが、校舎は当時80周年を迎えただけあって、木造で古く、ダニもいたりして、誰か火でもつけて全焼にならないかなとよく考えていました。
残念ながら、電気屋さんは覚えていませんが、映画館は「サン劇」だったんでしょうか?友達3、4人とお母さんたちも含めて、「101ぴきわんちゃん」や「チキチキバンバン」(ディック・バンダイク出演のミュージカル)を見に行ったのを覚えています。「101ぴきワンちゃん」の時はみんな2回見る事に同意して、2回目が終わって映画館の外に出たら、もう暗くなりかけていて、ショックを受けたのを思い出します。
町なかでは、ちくわを作っている、工場というほど大きくもない所を覚えているのですが、映画館の近くではないはず。いい匂いがしていたのと(近所の人たちには迷惑だったと思います)、大きな前掛けと長靴を履いた人たちを覚えています。一般の人にも売っていたようで、母と一緒にまあだ暖かいちくわを食べたら、ちくわじゃないくらい美味しかったです。やはり食物の思い出は忘れないですね?
外食と和庄中学校 2002年10月28日 (山本さんへの手紙)
うちの父は外食が嫌いだったので、それこそ町に出るのは、母が買い物に連れていってくれる時くらいで、喫茶店などという所には行った記憶がなく、残念ながら「琥珀」は知りません。私は中学校の半ばで呉を離れたので、喫茶店は少し早いですよね?最近の子供はどうか知りませんが・・・。
一回、家族全員(といっても三人ですが)で、ざるそばを食べたお店は、全体は暗いけれども、一ケ所だけ変な緑色の照明が、お店の角に置いてある岩だったか何かにあたっていて、無気味な感じがありました。お店の名前は覚えていません。
母と外出すると、よく「とうわえん」(東和園かな?)という中華屋さんへ連れていってもらってラーメンを食べました。随分おいしかったような気がします。三階建てだったと思うんですが、一階からラーメンができてくると、ウエイトレスの人が、ロープを引っ張ってリフトを動かし(食べ物用の小さなエレベーターがあったのですが表現しにくいです。)、ラーメンを棚から取った後、テーブルまで運んでくれました。行ったことがありますか?
最近よく掲示板などを読んでいますが、色々なニックネームがあって、どうしてあんな名前になるのかという変なのもありますね。20年も日本にほとんど帰っていないので、新しい言葉がいろいろあって、「元カレ」は何とかわかりましたが、「レス」する「横レス」するというのは未だによくわかりません。
もしかして洪水は43年ではなかったですか?先日同じ和庄中学校に行った友だちが、学校の創立50周年記念に出版された小冊子を見せてくれて、その中で43年になっていたと思います。私の写真は出ていなかったのですが、1年ごとに卒業生の授業の写真や部活動が載っていて、1971年卒業のページには10人くらいの写真が出ていましたが、知っている人が3、4人いたので、感激しました。
ページごとに写真といっしょに、その年の重大事件が書いてあって、たとえば1964年は「オリンピック開催」とあって、生徒が校庭で5輪を人文字で作った写真が載っています。ある年は、「川端康成氏死去」のすぐとなりに「亀山神社のお祭りが10月17日から10月10日に今年から変更」という、ローカルな話も記載されていて、これを編集した人たちも、かなり面白い人たちだなと想像しています。
この友だちは10年くらい前、私がある航空会社で働いていたとき初めて会いました。例のトールフリーで電話をかけると出てきて、予約をしたりスケジューを教えたりする人です。私は一年以内にやめてしまいましたが、彼女はその後も働いています。同じ中学校でしたが、学年が違うので日本にいた時は、お互いに知りませんでした。不思議な縁ですね。彼女も私と一緒で、ご主人がアメリカ人で子供が1人です。
ではまた。
お手紙ありがとうございます。上のアドレスごらんになった事がありますか?標準語を書き込むと、方言に変えられます。広島弁も出てきます。コンピュータですから今一つですが、こういうのがあるという事だけでも可笑しいですね?
あと、小学校の半ばだから、昭和40年前後でしょうか?クラスの女の子で岡本さんという子がいて、お母さんはスタンド・バーを経営しているという話だったのですが、御存じないですよね?これは場所も知らないし、岡本さんも少ししたら転校してしまったと思います。うちの母がその時、スタンド・バーというのを聞いて、「スタンド屋さんをしてるの?」と言って笑ってしまいました。変な事を覚えているものです。
洪水といえば42年だったんでしょうか?私の家は登町で坂の上に建ったアパートだったので大丈夫だったし、子供の時であまり心配もしませんでしたが、身近に人が亡くなったりして、山本(仮名)さんは違った印象を持たれたでしょうね?
友だちの女の子のお父さんが、お年寄りをおぶって、道が川のようになった所を渡るのを見て、友だちが、「お父さんは、こういうのが好きだから。」とか言ったのを覚えています。後で考えると、随分やさしいお父さんでした。あと道が水がたまっていて歩けなかったので、当時バキューム・カーと呼んでいた、例の屎尿処理の車ですよね?あれに、女性が鈴生りにぶら下がったのが目の前を通ったのも覚えています。また冗談になってしまいました。
では、昔話でも今の話でもまたお知らせください。