1995年10月、盛り上がった「ホームカミングデー」の2次会。「欠席裁判」も横行した=西早稲田の清寿司で(前列左が色本君)

          関根、色本、露口3君へ、あれから30年が過ぎ……


◆早世すれば人生の先輩? 関根君、色本君、露口君が亡くなったことは、その折々に聞き知ったが、日々のあわただしさの中にとりまぎれ、今日に至ってしまった。関根君、露口君とは当時、よく話しをした記憶があり、露口君とは卒業以来会っていないが、一度四国へ訪ねて行きたいと思ってもいた。行く川の流れが絶えずして、時の過ぎる無常をようやく実感するこの頃である。三十年以上前に他界した友人、知人もいる。高校の同級生Mは、僕が大学一年の冬、剣岳で遭難してしまった。昭和四十五年十一月二十五日にあの世に行った森田必勝氏は、教育学部の先輩で、知人であった。それに比べると、関根、色本、露口の三君は長生きをしたことになる。しかし、総じて早く亡くなった人達の方が、何か人生の先輩のような感じになるものである/原 新太郎


◆私を横浜港に呼びだしたのは? 日頃の筆不精で延び延びになり、さて期限だからと一二行書き始めたところでした。ご近所の27歳の娘さんが突然死と言うのでしょうが、お通夜、告別式と丸2日悲しいお手伝いを済ませやっと落ち着いたところです。人の寿命だけはどうにもならず、また人生何が起こるか分からないと改めて実感しています。関根君、色本君、露口君のご冥福を謹んでお祈りし、ご家族の皆様に心より哀悼を表したいと思います。卒業以来自分の生活に追われ級友の皆さんともなかなか連絡の取れぬ日々でしたが、もう30年になるのですね。大庭(鈴木)由美子さんより、瀬山恭子さんが癌で闘病中、余命いくばくも無いとお聞きしたのは何年前のことでしょうか。不義理をし、いつも心にかかっております。“良き人が逝く”でしょうか。何十年ぶりかで卒業アルバムを引っ張り出しましたが、関根君、色本君、露口君の写真はありませんでした。全くずぼらな三人ですね。名前はしっかり記憶に残っているのですが、姿が思い浮かぶのは関根君だけです。屈強な身体つきの関根君は病とは無縁のようでしたが……▼私は横浜に住んでいましたが、ある日突然「今横浜の山下埠頭に来ているのですぐに来てくれ」と電話が有りました。「何よ、突然勝手な事を言って」と断りましたが、ごめんなさい。横浜を案内すればよかったのでしょうか。関根君は文学青年風でラフなところがありましたね。東京都の教員採用試験の面接にサンダル履きで行った者がいると西江先生がカンカンに怒っていたのは、もしかして関根君のこと? 全く別人だったらごめんなさい。30年はあまりに長く、記憶が定かでありません▼色本君の死はあまりにショッキングですが、人を助けようという純粋な気持ちに感動しました。露口君も遣り残した事が沢山あったでしょうに。どうぞ皆さんご成仏なさり、残された家族の方と共に生きて見守ってあげて下さいね。卒業以来級友の皆さんもそれぞれの人生を必死で歩まれてきたことでしょう。順調な時もあり、そうでない時も。実は私も四年前の夏、アメリカのアイオワ州立大学留学中の二男を二十歳で亡くしました。言葉では言い表せぬ辛い時期を過ごしましたが、ようやく立ち直ったところです。菩提寺のご住職様の暖かいご指導や、五木寛之さんの一連の本もずい分心の慰みとなりました。心の中で常に「般若心経」や「観音経」を唱えています。若い頃は自分の人生は自分で切り開くなんて考えていましたが、今は生かされていることを実感している毎日です。大はしゃぎすることも出来なくなりましたが、救いようの無い絶望感というのも無くなりました。息子からのプレゼントでしょうか。息子が亡くなった時、ご住職が「生と死の境なんてはっきり無いんですよ。死とは姿が見えなくなるだけ」今ではその言葉がわかりかけてきています▼自分のことを長々と書き申し訳ありません。関根君、色本君、露口君のこといつも思って生きて行きましょう。3人もきっと生き続けます。日光君、高梨君、高橋君、八田君の暖かい友情嬉しく思っております。では寒くなりますので、皆さんお身体呉ぐれもご自愛下さい。かしこ/11月29日 鈴木(志村)範子


絶頂期から首の皮一枚まで 3君がこの世を去ったとき、自分は何をしていのかを思い浮かべてみたい。関根君が死去した93年と言えば、小さいながら会社を創業して5年目。ビデオカメラ用の電源部と灯具を香港工場で製造し、自社ブランドをつけて世界中に売りまくっていた。先ず海外市場でブランドを確立し、閉鎖的な日本市場に逆上陸してやろうと、孤軍奮闘ながらも絶頂期だったと言える。「天地人」の運にも恵まれ、香港の株式市場に上場してやろうなどと大それた事を、結構真剣に考えていた▼色本君が「焼死」という壮絶な死をとげた96年は、香港の中国返還一年前。工場を設けた香港などは世情、何かと慌しいときで、我々の香港人パ−トナ−たちは、中国共産党の支配への恐怖感から、家族ぐるみ米国やらカナダやらへ移住手続きに大童だった。不動産市場が乱高下し、我々が手にした工場スペ−スも買値の7倍近くの値段がついたかと思うと、ぬか喜びもつかの間、半値でも引き取り手がないといった具合で、大波小波に翻弄された▼東京と香港にそれぞれ独立法人を設立し、偉そうに両社の代表取締役に収まり、いい気になっていたころだった。「望郷との決別」というタイトルで文芸春秋社からドキュメント本を日本経済新聞社の記者が出したが、主人公はわが社の個人筆頭株主の日本人で、俺も実名で登場、取材された時に話した内容と書かれた内容のデフォルマに驚きつつも、苦笑しながら、神田の本屋で立ち読みをした(とても金を払って買う気にはならなかった)。なんでも、香港在の日本人の間ではベストセラ−になったとかで、出版後は香港を訪ねる度に、見も知らぬ日本人から、「貴方が高橋さんですか」などと、ある種の驚愕の念をもって話し掛けられたりした。製造の拠点は、既に香港より本土の経済特区であるシンセンへ移行させていた。兎に角、迫り来る危機を肌で感じながら対応に追われ
ていた時期だ▼露口君が逝去した昨年(2000年)の事
はつい昨日の事のように思い出す。創業15周年を最悪
の決算でかろうじて乗り切り、腹の内では「もはやこれま
で」と覚悟は決めてはいたが、「捨てる神あれば拾う神あ
り」ではないが、何とか首の皮一枚でつながり、現在に至
っている。しかし、ビジネスに向う情熱はもはや無い。数
年前から思い立ち自転車やら50ccのスク−タ−で、日
本国中を走り回っている。北海道、東北、北陸と走破(大
体一回2000Km)、寝袋携帯の気ままな「旅」を続けている。
実は、今夏は四国一周をしていた。露口の終焉の地もひ
そかに訪れたが、ご遺族の方には会えず仕舞いであった
った。学窓を巣立ちはや30年。色々な事があった。しか
し、自分は今現にここにこうしていられる。亡くなった三君
にはかける言葉もみつからない。ただご冥福を祈るのみ
である。合掌/高橋 冨士雄