§関根克己君=1993年3月9日、悪性リンパ癌(血液のガン)で死去、享年45歳。ご遺族は房子夫人


 ◆病魔と闘う本の虫 10年前の再発でした。1984年秋に発病し、翌年2月に手術、ただの肉腫だったはずが、精密検査で悪性リンパ腫と分かり3カ月の入院。約半年後にいったん退院、半年に一度のチェックのみとなる。が、91年春に再発、秋に投薬再開。薬が効いている間は何とか収まるが、間を空けると再び……の繰り返し。93年からは主治医もほとんど匙を投げた状態で、薬の量も本人次第に。前年1月から勤め始めた講談社へ足を引きずるようにして2月初旬まで通勤する。本人は死の淵を感じながら、絶対大丈夫と自分に言い聞かせて日々病魔と闘っていた。ちょうど2子が誕生したばかりで、気持ちはとても強く持ち、周りに悟られないようにしていた。入院はたった1週間、輸血をしたときに初めて爽快な体を取り戻したようで、「もうだめかと思ったよ。早く退院してビール飲みてえー」と嬉しそうにつぶやく。が、それがちゃんと話した最後になった▼仕事は、ゴルフなどスポーツミステリーの翻訳本を小高先生のもとで2冊手がける。ほか、ミステリー翻訳を希望し、出版社へアプローチ。自分でもミステリー小説のネタをいろいろ考えていた模様。趣味は読書、道を歩いていても、トイレ、風呂の中でも本は手放さず、ひまな日は図書館巡りをし、15〜16冊は借りて積み上げ、嬉しそうに読破してゆく。本屋へはほとんど日参し、たまに購入済みの本も買っていた▼やっぱりちょっときついかなー。うちもいろいろあって今まである意味封印状態でした。そのうちきちんと向き合わねばとは思っていたのですが…/関根房子(夫人)

◆早熟、ロシア文学・女友達?アルバイト…… 最初に会ったのは大学入学初日だった。早熟だった。僕がまだよく知らなかったロシア文学や、女友達、アルバイトのことなど一人で話していた。佐藤訪米阻止闘争で羽田に行ったのは、一年生の一月ごろ。そんな行動を共にしたのは、このときが最初で最後だった。その後、僕が大学闘争にのめりこんでいると、「よくやるよ」と言うので、カチンときた。言い争いもした。もともとは、彼に誘われたようなものなのに。当時彼は立川市に住み、父親が基地で働いていた。米軍流れのミリタリー調の上着をきていることがあり、思春期から基地を敏感に感じていたようだ。羽田に行ったのは自分の信条からで、イデオロギーからではなかったのだろう。大学闘争がセクトのイデオロギーでがんじがらめになるにつれ、彼はますます嫌悪感を抱いていたようだった。運動を否定はしないが、基地の実態などとかけ離れていたことを見抜いていたのだろう。が、それを分かったように言うのが嫌だったのかも知れない▼大学を出ても、今さらだったが、よくアメリカ文学のことなどで言い合った。彼には翻訳に対するそれなりの才能があったと思うが、柔軟性は不足していた。「そんなことはない」と、彼なら 言うかもしれない。小説や作家への思い入れは半端でなく、フォークナーやフィッツジェラルド、大藪晴彦や山田風太郎らの作品を論じると、既成の作家論や作品論からはかなりはみ出ていた。独創的、いや「超独断的」だったと言える。一冊の本で、とんでもない感想をよく僕に語った。説得力があって、何かに執りつかれたような情熱があり、既成の考えでは反論できない。そのしつこさにうんざりすることもしばしばだったが。卒業後もそれはほとんど変わらなかった▼仕事の傍ら、米文学の翻訳をめざして いたようだ。黒人やインデアン文学などマイナーな作家の小説をよく読んでいたらしい。翻訳のバイトだったが、ハークレーン・シリーズの小説で、主人公がほとんど女性の恋愛小説が少し重荷だったのか、下訳を奥さんに読ませて女性心理をチェックさせていた。僕に聞くこともあり、「女の心理は分からんからな。それに、こんなピュアな恋愛小説を白々しくよく書けるもんだよ」と愚痴っていた。翻訳が英語能力だけで決まるものではないが、思い入れや、独断、情熱などを絡めながら、うまく翻訳という形で表現できなかったのが心残りだったかもしれない▼死に目には会えなかった。その日の午後、駆けつけた病院には、親族らに交じって亀井(柳川)さん、小林さん、宮崎君、金子君らがいた。亡くなる2、3年前 から調子が悪かったようだが、そのことを僕に言ったことはなかっ た。それで僕は、棺の前で大泣きしてしまった。自分の親族の時もそんなことはなかったのに。月並みだが、そんな僕を彼は笑って見ていたような気がする▼60−70 年代は、生活感とバイタリティのあふれていた時代だと思う。体格に似合わずシャイで(意外とみんな理解 していない)デリケートで、少し臆病だった彼はまた、 図太さやバイタリティ、独断性をも持ち合わせていた。「失われた10年」をへて固定観念の崩壊した今、彼には住みやすい時代になっているかもしれないのだが……。冥福を祈りたい/高梨信一

 ◆祝福に「ウルヘー、バカヤロ」 大学1年のときでした。いつも休み時間に16号館のロビーのソファでドテーと腰を下ろしていて、まだ大した知り合いでもないのに、「ターマちゃん」と気らーくな感じで呼びかけるのです。内心、「フン、いやなヤツ」と思っていましたが、そのうち、F1の郡司さんや小林さんたちと知り合い、学内の運動などでF2の関根や他の友人ができ、そんな中で時々会うようになった。いつも空想的な夢想的なことしか言わないで、開口一番、「ヤルコトネエーナ」で 、行くところはまず、喫茶店。そこで、そのとき自分の読んでいる本について、とうとうとしゃべりまくり、しゃべり疲れると、相手を無視してお気に入りの本を読み始める、といった具合。で、私がイライラしてくると、「じゃ、どこか行くか」。でも、結局ラーメン屋か古本屋巡り。誘われてもおごられた試しはなし。「オレ、金ネーシヨ」が口グセ。そのくせ、好きな本は借金してでも買っていたみたい▼大学卒業後も、実力をつけるため日米会話学院に通い、そこの知り合いの方に房子さんを紹介していただいたようです。関根に「いい人に恵まれて良かったね」と言うと、「ウルヘー、バカヤロー」。でも、結構、照れくさそうで、嬉しそうでした。関根に最初の子ども、あゆみちゃんが生まれたころ、「お前、オレのみっともないところを見に来るなよ」といいながらもお宅にうかがうと、でかい背中を見せながら、赤ちゃんを汗だくでお風呂に入れている姿は、素朴に嬉しそうで、今までに見たことのない関根でした▼しばらくたったある日、突然電話があり、自分は今入院中であり、悪性リンパ腫であること、第4期にあることなど、こちらの気遣いをよそに、表面的には淡々と元気そうに話し、「オレは平気だけど、女房がかわいそうでな」と、普通に言っていたものでした。お互い家族同士でこれからも、などと言ったことに、返事はなかったけど、結婚してからは実に女房を愛し、子どもを愛する、愛すべき人になっていたようでした/柳川珠子(旧F1)