1996年1月8日   露口始
            
            露口君からの手紙

  前略
  「ホームカミングデイ」の便りを受け取り、大変楽しく読ませていただきました。ありがとうございました。早くお礼の連絡をしなければ、と思いつつ遅くなってしまいました。「清寿司」での欠席裁判による話題の中に、私の話も出てきたようで、それだけでも何故かうれしかったです。年のせいかな。皆さんの名簿の一覧を見ていると、それぞれの職場で頑張っている様子が伺えて、反面自分は何をしているんだろうという思いにかられました。中でも、西田君が都労連のメンバーとして活動していることを知り、少しばかりの驚きと大いなる喜び?!を感じました。私のことを少しだけ報告しておきます。10数年間普通科高校での進学指導に疲れ果てた後(体調も崩してしまった)、現在「ひのみね養護学校」というところで障害児教育に携わっています。まったくの初めての経験であり、最初は随分戸惑いましたが、2年目が過ぎようとしている今は新しい意欲と楽しみを感じながら勤務しています。自分の力の限界は十分わかっていますが、障害児問題に関わる何らかの社会活動を少しでもやっていければと考えています。ここ数年、体調を崩す中で、病気との闘いによる精神的な落ち込みが続いていましたが、今は大学時代の自分を支えてきた姿勢を基に、もう一度頑張ろうという気持ちが強く沸きあがってきています。近いうちに、何か具体的な報告内容ができれば、送りたいと思います。(あまり期待できないと思うけど) ところで、この同窓誌のことですが、今後も不定期に?発行されることを希望しています。そのための気持ちだけのカンパ金を同封しておきます。それでは、西田君の今後の活躍を期待しつつ、御礼の手紙とします。八田君にも連絡の機会があればよろしくお伝えください。(彼から、ホームカミングデイの誘いの電話が入り、そのとき少し近況などを話し合いましたが、あの時も本当に懐かしい気持ちでいっぱいでした)

§露口始君=2000年9月2日、肝臓がんで死去。享年51歳 (1)


生徒連れ原爆ドームへ もう30年近くになるでしょうか。卒業して広島の高校勤務となって3年目に、買ったばかりの軽自動車で徳島の露口君を訪ねました。 当時流行のポピュラーソングのドーナツ版をごっそり借りて帰ったのを覚えています。その4、5年後、結婚式に呼ばれ、兵庫の林君と玉田君と3人で出席し、ギターを抱えて加山雄三の「君といつまでも」を歌ったのですが、花婿花嫁がお色直しのときで、せりふ部分も自分がやるはめになったものです。徳島稲門会のメンバーが全員集まっていて、「都の西北」を大合唱し、我々も大声で参加することになりました▼それから3、4年後、広島の原爆ドームのところで会いました。彼が、当時取り組んでいた「平和教育」の学習でした。生徒一人をつれてきていて、夜、寿司店でビールを飲む際、「お前はビールは一杯だけじゃ」と言っていました。かなり仕事の話で盛り上がり、真剣に平和教育や人権教育に取り組んでいる姿が今も思い出に残っています。奥様のお話では、10数年前は、同和教育にも熱心に取り組んでいたそうです。また、作夏には2人の思い出の地であった、イギリスに家族で訪れたそうです。「最後まで精一杯頑張ってくれました」という奥様のお話でした▼97年に東京に出かけたことがあったのですが、西田君と一緒に露口君に電話をして、「今度ぜひ露口君の下宿をたずねるツアーをみんなでしよう」などと言っていたものです。八田君や西田くんや原君と一緒によくマージャンをしたことや、下宿の先輩のことを懐かしく話し合いました。95年のホームカミングデイの冊子を送ったら礼状が西田君のところに送られてきたのを、偶然西田君からもらっていたので、以下に紹介しておきます/長井正和