会下山
奈良時代、大和の法隆寺の領地であったことが、同寺の資材帳に記されています。
これは、神戸についての古い記録では現在のところ最古のものといわれています。
湊川合戦のとき楠正成は、標高80mでこの付近では最も海陸の展望のきく頓田
山から会下山へかけてを本陣としたというのが定説となっており頂上には
「湊川合戦楠公陣所之跡」の碑が建てられていましたが、会下山断層
の上に立つこの碑は阪神淡路大震災により倒壊してしまいました。
また、会下山は桜の名所としても有名で、毎年春には
多くの花見客の目を楽しませてくれます。
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兵庫の港
兵庫の港がなければ神戸は生まれなかった!神戸は、明治初年の“神戸開港”によって生まれ
た新しい町だと思う人は少なくないかもしれません。しかし、神戸の中でも兵庫区のあった辺り
は古くから港町として栄え、幾たびも歴史の表舞台となり数多くのドラマを生みだしてきまし
た。今日の神戸の繁栄を語るうえで欠かせない“神戸開港”もまた、平清盛の経ヶ島以来
800年以上の歴史を持つ兵庫津という港があったからこそ実現したのです。
神戸市発祥の地であるばかりでなく、兵庫県の発祥の地でもある
歴史のまち兵庫。
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神戸開港
幕末、黒船が来航し、徳川幕府の長きに及んだ鎖国政策に終止符が打たれようとしているとき
問題となったのは、どこを開港するかという事でした。京都、大阪にも近い要衝の地、兵庫港
の開港を諸外国より求められた幕府は、市街地近くで外国人居留地を設営するのは
困難なことなど諸般の事情から、あえて、当時人口希薄な東隣の一漁村であった
神戸を開港しました。この幕府の政策によって、後に商業文化の中心は
神戸へと移っていくことになります。
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兵庫の名は県名に!
明治時代の幕開けとともに、廃藩置県が行われ、長い歴史を持つ“兵庫”の名は
県名となりました。また、新たに開港された“神戸”の名は市名となりました。この時代には、
わが国屈指の運河である兵庫運河の開削、湊川の付け替え工事など大規模な土木事業が次々と
行われました。兵庫津は平清盛が経ヶ島を築造した時代から南東の風に弱いという難点がありま
したがこの運河の完成によって、台風などによる船舶被害は大幅に減りました。湊川の付け替え
工事では、もと河川敷であった所が埋め立てられ、新開地が出現しました。土地が広く、
兵庫と神戸の中間という人の集まりやすい場所に位置していたので、映画館・劇場を
中心とした娯楽施設がぞくぞくと集まり、新開地は数年にして一気に日本の大衆
文化の殿堂へと上り詰めました。しかし、時代の流れとともに人の流れも
移り変わり、現在では芸術・文化のまちとしての再生にむけて、
再活性化のためのプロジェクトが進められています。
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