「ヨハン〜!!」突然、聞き覚えのある甲高い声が耳にとびこんできた。

一瞬、バスケットコートが妙な沈黙に包まれた。今の今まで白熱試合をくり広げていたヨハンは、あからさまに「ゲッ」というしかめ面をして、手に持っていたバスケットボールを近くの仲間に投げた。そして、コートから出ると「悪い、俺、行かなきゃ。オイ!誰か、代わりに入ってくれ。」「ヨハン、誰だよ?あの女の子。」「さあな。」ヨハンのバスケ仲間達が、興味しんしんな表情で近くに寄ってくる。

「可愛いな〜、あの子。」「ヨハン、お前、彼女いたのかよ?」「いねーよ、そんなの。」ヨハンは、タオルで乱暴に汗をぬぐった。「お前らに関係ないだろ?ほらほら、さっさとゲーム再開しろよな。」真冬だというのに、顔がほてっている。早くシャワーを浴びなくては、風邪を引いてしまうだろう。

「教えろよ。」「誰だ?あの子。」ヨハンは、しばらくムスッとした表情で黙り込んだ。「あいつの正体、そんなに知りたいか。」「ああ、知りたいね。」「妹だよ。」「エ・・・?お前、妹いた?」「いないよ、バカ。じゃあな。また明日。」

入り口近くで、短い髪を濃いブルーに染めた少女が立っていた。ヨハンが歩いてくると、少女の顔がパッと輝いた。「ヨハン!今日は、もうゲームは終わり?まだお昼前だよ?」「まあな。誰かさんの邪魔が入ったから、やる気がうせた。」「じゃ、一緒に帰ろう!」ヨハンの嫌味にも全く動じずに、少女は嬉しそうに微笑むとヨハンの手をとった。

ヨハンはその手を振り払うと、「リー、分かってるよな。」「何が?」「俺は、バジルが好きだ。俺にとってのお前は、単なるバイト仲間、な?お前がどんなに俺の側にいたとしても、俺の気持ちは変わら・・」リーと呼ばれたその少女は笑顔を崩さずに、「分かってるよ。でも、私はヨハンの事が好きなの。それは、私の自由でしょ?」「・・・」

言葉に詰まったヨハンは、「勝手にしろ。」と言うと、ズンズン早足で 歩き出した。リーは、その横を歩きながら「ねえねえ、今日ね、髪そめ直したの。どう?」「いつもと一緒じゃん。青い髪は。」「一緒じゃないよ〜。ちょっと色を濃くしたの!」ヨハンは、ピタッと立ち止まった。

「ヨハン?どうしたの?」「リー、分かったか?この通り、俺は、 毎日会ってるお前の髪の変化にも全く気づかない程の、ニブい無神経な男なんだ。な?ひどい男だろ?」「別に。ひどくないけど?だって、ほんの少し濃くしただけだもん。普通、気づかないよ。大丈夫、気にしないで。」リーは、ニコッと笑った。

「・・・な、なあ、お前さ、けっこう可愛いんだから、何も俺じゃなくても、もっとイイ男がたくさんいるだろ?ほら、学校とか・・・。」「可愛い?!ヨハン、今、可愛いって言ってくれた?!」「ウ・・・。」「やった〜!!嬉しいな〜。」「待った!待った!とりあえず、これ以上俺にひっつくな!迷惑だ!」 「迷惑?嘘だね〜。」「嘘じゃない!」「だって、それなら何で いっつもいっつも相手してくれるの?嫌い、嫌いは、好きの内〜♪」「・・・」ヨハンは、怒った様に肩をいからせて歩き続けた。

りーの質問に対する答えは、もうずっと前から分かっていた。分かりすぎる程分かっていたが、それを口に出す勇気がなかった。バジルに相手にされなくて面白くないから、とりあえず手近にいるりーの気持ちを利用して満足しているなんて、どうして言えるだろう?恋愛感情は抱いていない、でも、(バジルの代わりに)側にいて欲しい。そんな事は言えない。この子の気持ちを利用しているなんて、分かってはいるが認めたくはない。

りーは、その事に気づいているかもしれない。でも、気づいていないかもしれない。自分の口からは、言いたくはない。

ふと、横にいる筈のりーがいない事に気づいて、ヨハンは振り向いた。 数メートル後ろで、りーが一生懸命歩いている。 早く歩きすぎたか・・。

ヨハンは、立ち止まった。「ほら、早くしろよ。置いてくぞ。」 置いていけよ。置いていけば、「嫌い」という意思表示になる。 りーだって諦めるさ。さあ、置いていけ。

りーが追いついた。「お前、体力ないなー。もっと運動しろよ。 長生きできないぞ。」「余計なお世話〜!ヨハンだって、水泳苦手じゃん。」「・・それとこれとは関係ないだろ。」 おいおい、俺は、何をやってるんだ? ヨハンはクスッと笑うと、「さあ、帰るぞ。」と言ってゆっくりと歩き出した。

そこは、冷たい部屋だった。ボンヤリとした暖かい光を発している照明は、この場の雰囲気にはあまりにもそぐわない。鉄の壁に囲まれて、大理石の机と革張りのイス、グランドピアノが、部屋の真ん中にポツンと置かれている。

机の上には、数冊のファイルとノート型パソコンが2台、そして・・「カルロス、さて聞かせてもらおうか。」グレッグはパソコンのふたをパタンと閉じると、イスの背もたれによりかかった。

机の前に立っている、カルロスと呼ばれた男は震えていた。 中肉中背で、浅黒い肌から血の気が引いている。子供の様な幼さを帯びた目は落ち着きなく瞬きを繰り返している。

グレッグは口の端をゆがめると、「どうした?何を怖がっている。 心配するな・・お前が見た事を、ありのままに話してくれれば それで良い。さあ。」「わ・・私は何も・・。」強いスペイン語なまりだ。グレッグは、かすかに顔をしかめた。

「何も?そんな筈はないだろう。お前が言えないのなら、俺が言ってやろう。お前は、2日前にギルバート バーロウの姿を見た。そうだな?」「・・・」 「・・カルロス?そうだな?」「は、はい。」「で?どこで?」 「あの・・本当に、ちらっと見ただけなので、本当に彼かどうかは・・。」グレッグは深いため息をついた。それだけで、カルロスの震えが増した。

「カルロス、そいつが本物かどうかは、俺が決める事だ。 分かるな?」「はい・・も、申し訳ありません!」「謝っているヒマがあったら、さっさと言え。俺だって忙しいんだ。お前は、どこでギルバート バーロウを見た?」カルロスは、つばを飲んだ。そして、顔をまっすぐ上げると「12番地のパルク通りです。」「確かか?」 「はい。」「・・よし、さっさと仕事に戻れ。」カルロスは、しばらくの間、放心した様に立ちつくしていたが、ハッと我に返ると慌てて敬礼をして部屋を出た。

グレッグは、腕を組んで黙っていた。しばらくの間、そうしてじっとしていたが、やがて服の胸ポケットから携帯電話を取り出した。「ああ、俺だ。・・カルロスはお前のチームだったな? 奴を監視しろ。今すぐに、このビル内の宿泊施設に奴を住ませろ。今日1日で荷物を全てアパートからビルに移し、それ以降、カルロスが無断でビルの外に出る事は許さん。奴が無断で外の人間と連絡を取る事は絶対に不可能な状態にしろ。それだけだ。」

グレッグは電話を切ると、低く笑い出した。・・・ギル・・金でカルロスをまるめこんだのか?奴にあんな下手な嘘をつかせるとは・・全く、手を焼かせてくれるよ、お前は。 一体どこにいるんだい?

「バジル!」「なあに?」バジルは パソコンから顔を上げた。バジルの他にも、数名の人間がオフィス内で 忙しく働いている。「カルロスを知らないか?」グレッグ直属の部下が、バジルを見下ろしていた。

何となくムッとしたが、イスに座ったまま「カルロス?知らないわ。新入りの彼とはチームが違うし。あなた、グレッグの部下のくせに、全チーム編成を覚えてないの?」バジルは、ゆっくりと、一語づつ区切る様に話した。グレッグの部下は、それが嫌味たらしく聞こえたらしい。あからさまに蔑んだ様な顔をすると、「あいにく、僕は君達の様な下っぱと違って忙しいんでね・・。」「彼に何か用事?」「・・いや、彼を見かけたら、すぐに僕に連絡をしてくれ。緊急だ。」「分かったわ。」

グレッグの部下は、深刻そうな顔で部屋を出た。バジルは再びパソコンに向かった。声をかけられる前と同じ様に。だが、キーボードを打つ手は細かく震えていた。バジルは、深呼吸をした。「ちょっと・・トイレ。」誰に言うともなしにつぶやくと、バジルは席を立った。 早く・・バレる前に落とさなきゃ。 バジルの首筋は、服のえりで隠れていたが、不自然に浅黒かった。

「バジル!夕飯一緒にどう?」バジルの同僚のアンナが 声をかけた。窓の外は、真っ暗だ。今日は残業もないし・・バジルは 微笑んでうなずいた。「OK。帰り支度をするから、ちょっと待ってて。」「じゃ、廊下で待ってる。」「ありがと。」

アンナが出ていく音を背中で聞きながら、バジルは深く息をついた。今日は疲れた・・・ 特殊メイクで男になったのは久しぶりだ。

昔、仕事で数回、変装をした事があったが、最近はしていなかったのだ。本物のカルロス・・いや、本名アントニオは、今頃は故郷に帰っているだろう。彼は偽名を使っていたのだ。この組織に入る時に登録した実家の住所も何もかも、彼のプロフィールは、全て真っ赤な嘘だった。だが、カルロスだけに限らず、この組織の人間は、自分のプロフィールに関して何かしらの嘘をついている。特に、家族に関して嘘をついている人間は多い。故郷に逃げ帰った時に、組織に居場所を突き止められない様にだ。その点、カルロスは家族や親戚が1人もいないので、バレる心配はなかった。

ギルにあれだけ脅されたのだから、彼はもう2度とドイツに戻ってくる事はない。バジルは哀しく笑った。バジルに特殊メイクのいろはを教えてくれたのは、カルロスだった。まさか、後輩に恩を仇で返されるとは、思ってもいなかっただろう。ギルに脅された時の、カルロスの怯えた表情を思い出す。ごめんね、先輩・・・。

「バジル?どうしたの〜?」アンナの声で、バジルはハッと我に返った。「ううん!何でもない。今行くわ!」バジルは、明るく笑って答えた。

レストランの店内は明るかった。1日中緊張を強いられたバジルは、ホッとする思いだった。「バジル、何食べる?」「ん〜、何にしようかな・・じゃ、チキンソテーと、シーザーズサラダと、ティラミス と・・。」「飲み物は?」「ん〜・・ミネラルウォーターで良いわ。」 「OK」アンナが片手を上げて、ウェイトレスを呼んだ。その手がキラッと光った。

「あれ?」バジルはアンナの左手を軽くつかんだ。アンナは 照れくさそうにニヤッと笑った。「・・気づいた?」アンナの左手の薬指で、ダイヤモンドが輝いていた。「アンナ・・結婚、したの?」 「結婚じゃないわ。婚約よ。昨日、突然彼に呼び出されて・・で、これをもらったの。エンゲージリング・・夢みたい。」ろうそくの淡い光に照らされて、アンナは幸せそうに微笑んだ。バジルは、いつの間にか そんなアンナに見とれていた。

「アンナ・・何だか、綺麗になったね。」「そう?ありがとう。・・フフ、そうかも。彼に出会ってから、 私、変わったかもね・・。3年間、すっごく幸せだったもの。」 アンナは、まるで大好きなケーキをほお張る子供の様に、ニコニコ笑い続けた。

つられてバジルも優しく微笑み、「アンナ、おめでとう。」 「ありがとう。」「結婚式には呼んでよね。」「当たり前よ!バジルは大親友だもの!・・・ね、ところでさ、今度遊びにいっても良い?」 バジルは内心、ギクリとした。「・・なんで?」「お菓子の作り方、教えて欲しいのよ!彼、甘い物に目がないから。特にチョコレートが大好きなの。可愛いでしょ?女の子みたいよね。」

バジルはさり気なく「・・良いけど、いつ?」と、聞いた。アンナは眉を寄せて「ん〜・・次の休日は・・あ、クリスマスイブとかはどう?」バジルは笑って「何、クリスマスイブはフィアンセと一緒じゃないの?」「夜はね。だから、昼間にバジルの所に行くわ。ダメ?」「良いわ。24日ね。空けとく。」「やった!バジル、ありがと!大好き!」「おだてたってダメよ。ちゃんと、レッスン代は頂きますからね。」途端に、アンナは「げ!」と顔をしかめた。バジルは笑いながら安心していた。良かった・・・24日は、グレッグの休日じゃない。ギルが 私の所にボディーガードに来る日じゃないわ・・・。

「タクミ」 拓美はソッとリュックサックの口を閉めた。そして、振り返った。 「はい?」ギルバートが立っていた。拓美とギルバートは、ギルバートのアパートへ戻ってきていた。だが、明日には引っ越すつもりらしい。ギルバートは近くに置いてある椅子に腰掛けた。

「昨日の話だが・・。」「はい・・。」拓美は姿勢を正した。ギルバートは低い声で「俺は、君は命を狙われているから、今すぐ日本に帰った方が良いと言った。そして、君は、日本には帰りたくないと言った。自分の命を狙っている犯人を捕まえたいから・・。そんな子供じみた理由は感心しないな。遊びじゃないぞ。」「理由はそれだけじゃないです。その・・人達が本気で私の命を狙っているのなら、日本までも追いかけてくる筈です。だから、今捕まえておかないと、私はバーロウさんの助けなしで自分の身を守らなくてはいけなくなりますよね。そんなの無理です。だから・・。」

ギルバートはタバコの煙をゆっくりと吐いた。「・・日本の警察に頼めば良いだろう。」「はい。出来ればそうしたいです。犯人の 身元がハッキリ分かるなら。」「・・・。」ギルバートは言葉に詰まった。もう1度、煙を深く吸い込むと思い切り吐いた。「やれやれ・・・ 初対面の頃とは大違いだな。」「え?」「君はもっとトロイ子かと思っていたよ。」「それは・・どうも。」拓美は内心ふくれた。

「君は、俺の想像以上に・・・。」ギルバートが言葉を切った。拓美は不思議そうにギルバートの顔を見上げた。鋭い目つきとぶつかった。「・・君は、俺の想像以上に油断ならない相手だな。ま、当然といえば当然だが。」「・・え?」訳が分からないといった表情をする拓美を1人残して、ギルバートは立ち上がると「君がそのつもりならば、俺は止めない。 君の根性が萎えるまで、君の身を守らせてもらおう。ただし、忘れるな。命の安全をみすみす捨てたのは君だ。いつ殺されてもおかしくないんだぞ。・・おやすみ」と言って、隣の部屋へ消えた。

闇の中で キーボードを打つ音が響いた。グレッグは興味なさそうに、ディスクトップを流れる顔写真を見つめた。違う、コレも違う。

やがて、グレッグは「おやっ。」という表情でマウスをつかんだ。 そこには、1人の男性の顔があった。グレッグはクスッと笑った。 「へえ・・こいつか。」 顔写真の横には、プロフィールらしい事が書いてあった。 グレッグはそれを読んだ。「・・・ソーイチロー ニシ・・。20歳・・お、婚約者がいるのか・・いや、いたのか・・へえ、この娘は、もしかして・・」グレッグは椅子の背もたれによりかかった。 笑いたくなった時の、グレッグのクセだった。

暗闇の中で、拓美は体をゆすられた。「おい、起きろ。行くぞ。」拓美がハッキリと目を開けた時は、すでにギルバートはコートをしっかりとはおって、ベッドの中の拓美を見下ろしていた。

「タクミ、後10分で出かける準備をしろ。それ以上遅れたら、君をここに置いていく。」ギルバートはそれだけ言うと、隣の部屋に入った。拓美は慌てて起き上がった。そして、着替えようとして・・はたと気づいた。服が、ない。いや、正確に言うと、着替える服が入っていたスーツケースがない。

スーツケースは今どこに?爆破されてしまったホテルの中だ。拓美は困ってしまったが、仕方がないのでパジャマの上から、ギルバートの貸してくれたカーディガンをはおって、おずおずと部屋を出た。

振り返ったギルバートは、拓美が何も言わない内から状況を悟った様だ。小さく舌打ちをすると、「ちょっと待ってろ。」と言って、携帯電話を取り出した。「ああ、ヨハンか。すまんが、例の場所3に今すぐ来てくれ。」

ギルバートは電話を切った。「昨夜は言わなかったが、少し面倒なことになりそうなんだ。だが、君をしばらくかくまってくれる場所が見つかった。ほとぼりが冷めるまで、君にはそこにいてもらう。いいな?」「でも・・。」「でもも何もない。君は、そこにいれば安全なんだ。俺が君の命を狙った奴をつかまえてみせる。俺の足手まといにならないでくれ。君は、ただ大人しく隠れ家で帰国を待ってればいい。行くぞ。」

「例の場所3」は、ヨハンとギルバートが昔買っていた犬のお墓を作るのに必要だった石を拾った公園の端だった。ヨハンは、ジロジロと目の前の少女を見つめた。リュックサックをしっかりと胸に抱えた少女は怯えている様だ。

ヨハンはニコッと笑った。「そんなに怖がるなよ。・・・で、君、名前は?」少女は相変わらず黙りこくっていたが、視線が微妙に泳いだ。「言っとくけど、俺に嘘つく必要はないよ。俺は、君をここまで連れてきた奴の仲間、って事は、俺は君の仲間。あ、そうそう、それと・・」「・・・ムコウ タクミ。」「え?」「私の名前・・。」「あ、ああそう。ありがとう。」いきなり名乗られたのでヨハンは戸惑った。

「俺はヨハン。とりあえず、行こう。あ、お腹すいた?「・・・。」「ねえ、朝ごはん食べた?」「・・食べてないです。」「そう。じゃ、向こうに着いてから何か食べよっか。ね。」少女が応答しないので、ヨハンは少女の手首をつかんで回れ右をして歩き出した。その手首の細さに再び驚く。

毎日何を食べているんだ、日本の中学生は、皆こんなにヤワなのか?・・そして、皆こんなに無口なのか?公園を抜けた所にバイクがあった。ヨハンは少女にヘルメットを渡した。「さて、1時間くらい我慢してね。」

「隠れ家」は、街のど真ん中にあった。かなり目立つバー"High & Dry"。だが、目立ちすぎるので逆に目立たない。誰も、こんなに派手な場所が隠れ家だなんて思わないからだ。誰もが、暗い小屋、地下鉄の奥などを探す。だが、この作戦は危険と紙一重だ。バレたら最期。

裏口のドアを開けると、りーが笑顔で迎えた。「おっかえり〜!ヨハン!」「ただいま。この子、2階で休ませてやってくれ。」りーが抱きつこうとするのを片手で制して、ヨハンは拓美を前に押し出した。

リーは興味しんしんといった表情で拓美を見つめた。拓美はかなり顔色が悪い。「・・ちょっと、ヨハン。」「何だよ。」ヨハンは冷蔵庫を開けて、カンパリソーダを取り出した。

「アンタね〜、また無茶な運転したでしょ。」「無茶なんてしてない。いつも通りの運転だよ?」りーはクスッと笑うと「それが、一般人にとっては無茶の部類に入るの! あ〜あ、可哀想。この子、こんなに酔っちゃって。」ヨハンはカンパリソーダを一口飲んだ。「ほらほら、早く。その子を2階につれてってやってくれよ。」「分かったわよ。」りーは、拓美をいたわる様に優しく微笑んだ。「大丈夫?すぐにベッドに寝かせてあげるからね。」

りーは拓美の体を支えて階段を登りかけた。その時、ヨハンが「あ!分かった!」と叫んだ。「何よ?」「その子、腹ぺこなんだよ。だから、そんなにバイクに酔っちゃったんだ!」「下手な言い訳ね〜。」ヨハンはムッとした様に「言い訳じゃない!本当だって!なあ、君、朝ごはん食べるだろ?」拓美は弱々しくうなずいた。「・・ありがとうございます。」「いいって、いいって。じゃ、ちょっと2階で待ってて。すぐ持ってくからさ。」ヨハンはニッと笑った。

「ヨハンさんとリーさんは・・どうして、こんなに私に良くして下さるんですか?」りーは熱いスープを皿によそいながら「ま、冷たい言い方しちゃうと、これが仕事だから。」と言った。

「仕事・・。」「そうよ。で、暖かい言い方すると、ヨハンは最高にイイ奴だから。で、私は、そんなヨハンに愛されたいからイイ女になろうとしてるの。」りーはニッコリと微笑んで皿を拓美に差し出した。「さ、食べて。」拓美はゆっくりとスプーンでスープをすくった。「・・美味しい。」「そう?ありがとう。それ、ヨハンが作ったのよ。伝えとくわね。で・・。」りーはトレイの上を見た。 「このアップルパイは、私が作ったの。残してもいいからね。ゆっくり食べて。食べ終わったら、グッスリ眠るといいわ。疲れたでしょう・・もう、何も心配しないで。」

バジルは夢を見ていた。真っ暗な闇の中でバジルは必死に逃げている。闇から闇へと。息が切れた。胸が苦しい。でも、立ち止まる訳にはいかない。でも、どうして自分が逃げているのかも分からない。遠くの方で、ほんのかすかな光が生まれた。誰?バジルは目をこらした。誰かいるの?誰なの?私を助けてくれるの?バジルは、無我夢中で光に向かって走った。つまづきそうになって、思わずスピードをゆるめた。すると、突然光が消えた。再び、暗闇が訪れた。誰か・・誰か助けて!涙がこぼれた。

「・・ル!バジル!」誰かが強い力で肩をつかんだ。バジルは恐怖に襲われ、夢中で腕を振り回して「誰か」を振り払おうとした。「バジル!落ち着け!目を覚ますんだ!」聞き覚えのある声がした。だが、誰の声だか思い出せない。「誰?!手を離してっ!離してよ!」「俺だ。ギルバートだ!ギルバート!分かるだろう?!」 ギルバート?

バジルは、恐る恐る目を開けた。そこには、見慣れた眼差しがあった。誰? 「ギル?」「バジル、大丈夫か?ひどい夢を見ていた様だな。異常な程うなされていたぞ。本当は君が自発的に起きるのを待つべきだったんだろうが、あまりに君が苦しそ・・。」 突然、バジルはギルバートの胸にしがみついて、大声で泣き出した。

闇の中で、正体不明の恐怖がバジルの全身を支配していた。誰も助けてくれなかった。何度も「助けて」と叫んだのに。誰かに助けて欲しかったのに。痛い程の悲しみが涙になってあふれた。

バジルは我を忘れて泣き続けた。その間ギルバートはずっと、ゆっくりとバジルの背中をさすっていた。そして、バジルの耳元で何度も「大丈夫、大丈夫だ。ただの怖い夢だ。大丈夫だ・・」と、子供をあやす様に優しく囁き続けた。

やがて、バジルは2、3回咳き込んで泣き止んだ。「ギル・・ごめんね。ワイシャツ濡れちゃったね。」「気にしなくて良い。」バジルは我に返って、慌ててギルバートの胸から顔を離した。「ごめんね、ホント。なに泣いてんだろ・・。」バジルはギルバートにおどけて笑いかけた。「ギル・・どうしたの?」「・・別に。」「どうして、そんなに哀しそうな目をしてるの?」「哀しそう・・?そんな事はない。」「・・私が泣いたせい?」「君のせいじゃない。それに、俺は全然哀しくなんかない。」ギルバートはバジルの頭を優しく撫でた。

バジルは落ち着かなかった。ふと辺りを見渡した。そこはバジルの部屋だった。バジルはベッドで寝ていて、ギルバートは近くに置いてある椅子に腰かけていた。そうだ・・今日はギルがボディーガードに来ていて、私は残業で疲れて帰ってきて、そのまま眠ってしまったんだった。天井の電球が明るい光を放っている。バジルはホッと安心した。

壁にかかっている時計を見ると、夜中の1時だ。バジルは「ギル・・もしかして寝てないの?」「ん?ああ、俺が眠ったら君の側にいる意味がないだろう。心配するな。ちゃんと時間を見つけて仮眠を取っているから。」「それにしたって・・」「大丈夫だ。」ギルバートは微笑みはしなかった。しかし、普段に似合わず優しい眼差しだった。

どうしたんだろう・・今日のギルは何だか様子がおかしい。そう考えて、バジルは思わず苦笑した。様子がおかしいのは自分の方だ。いきなり泣き出したりして・・・。バジルはベッドから起き上がった。「もう少し寝ていた方が良いんじゃないか?2時間前にベッドに入ったばかりだろう。」「ん〜、そうなんだけど。何か、目が冴えちゃった。」「そうか・・。」

バジルは黒のガウンをはおると、ベッドから出た。「ね、ギル。お茶飲まない?」「こんな夜中にお茶なんて飲んだら、ますます眠れなくなるぞ?」「だから、もう寝なくても良いんだってば。私、熟睡しちゃったみたい。全然眠くないの。ハーブティーで良い?」「・・ああ。ありがとう。」

バジルは寝室から出て、台所の電気を点けた。手馴れた様子でバジルはハーブティーの用意をした。ギルバートは後からついてきたが、終始無言だった。バジルはギルバートの様子が気になったが、自分から話してくれるまでは待とうと決めた。ふと魔法瓶の蓋を開けた時、バジルは魔法瓶の中身が空である事に気づいた。「あら・・。」バジルは慌ててやかんに水を入れると、コンロに乗せて火をつけた。「ギル、ごめんね。もうちょっと待ってて。」「ああ・・俺の事は全然気にしなくて良いから。」 お湯が沸騰するまで、バジルとギルバートは1つの机に向かいあって座った。

ギルバートの表情は疲れている様に見えた。バジルは何度も「少しは眠ったら?」という言葉を言いかけては飲み込んだ。「ねえ、ギル?」「何?」「アンナを覚えてる?」「アンナ・・? ああ・・思い出した。あのアンナか。」「彼女ね、婚約したんですって。」「へえ・・誰と?」 「知らない。でも多分、組織の人じゃない?」

「・・・・婚約か。」 ギルバートは、ふと遠くを見る様な目をして黙り込んだ。「どうしたの?なつかしそうな顔しちゃって。覚えでもある訳?」バジルはふざけてそう言った。ギルバートは我に返ったかの様な顔で、「いや・・ちょっと思い出す事があって。」とつぶやいた。

やがて、お湯が沸騰した。バジルはコンロの元に飛んでいってハーブティーの準備をととのえた。 「さて!後はしばらく待つだけね。」

バジルが笑顔で振り返った時、近くに立っていたギルバートが突然バジルを力強く抱きすくめた。「ギル?!ちょっとっ・・」バジルは真っ赤になって離れようとしたが、ギルバートはバジルを離そうとしなかった。バジルの髪に顔をうずめる様にして、ギルバートは「失礼な事をしてすまない。しばらく、ほんの少しの間だけ、今だけは君の側にいさせてくれ・・。頼む。」と、押し殺した声で辛そうに言った。バジルは訳が分からなかったが、まるで、すがる様に自分を抱きしめているギルバートの腕をそっと握った。

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