全てを拒絶する様な冷たい壁に埋め込まれたスピーカーからショパンの物哀しい音色が流れ出した。グレッグは、ふとパソコンのキーボードを打つ手を止めた。ショパン・・・か。

どこかで聴いたピアノの音色を思い出す。弾き手にも似た、美しいが恐ろしい程のもろさを秘めた音色・・。グレッグは、ほんの少しの間だけ、ふと何かを懐かしむ様な優しい目をした。だが、すぐに冷酷な仮面をかぶり直した。

”High & Dry"の店内では、常連客がいつもの様に騒いでいた。「・・で?ヨハン。」リーはカクテルを作りながら横目でチラッとヨハンを見た。

「何だよ。」ヨハンはカウンターの奥でグラスを洗っている。「あの子、何者なの?」「あの子・・ああ、タクミ?」「タクミっていう名前なんだ。そう、タクミちゃん。」ヨハンは肩をすくめて「さあねえ〜。俺はただ単にギルに「あの子を預かってくれ」って頼まれただけだからさ。」と言った。

「俺も詳しい事情は分からないんだ。」「本当に〜?」リーは疑わしそうな目でヨハンを見た。「本当だよ。ホラホラ、手が止まってる!客が待ってるぞ。」「分かったわよ・・もう。」りーがカクテルの入ったグラスを持ってカウンターから出ていくのを、ヨハンはボンヤリと見つめてため息をついた。全く・・女というのはこれだからカンが鋭くて困る。

ヨハンは昨夜のギルバートとの会話を思い出した。ギルバートは今朝の5時頃にヨハンに電話をかけて「例の場所に来てくれ」と呼び出したが、実は昨夜にも1度電話をかけてきたのだ。

「ヨハンか?実はな・・ちょっと厄介な事になった。 俺は何と、2人の人間から命を狙われているらしい。さすがに2人を相手にするのは面倒だから、その内の1人をお前に預けたい。」「おいおい、どういう事だ?俺に暗殺者を預かってくれって?」「大丈夫だ。 彼女は俺以外の人間には興味がない。それに・・銃の類も持ってない。」「どうして分かる?」「彼女の持ち物を調べた。」 「ほ〜・・。よく分からんけど、何か色々面倒な事になってるらしいな。」「まあ、そういう事だ。」

「分かったよ。どっかの誰かさんだか知らないけど「彼女」を預かる・・っていうよりも、ギルから引き離せば良いんだな?」「すまない。」「慣れてるからさ。」「長くはかからない。」

その時の2人の会話はそれだけだった。そして数時間後に再び「例の場所に来てくれ」という電話がかかってきたのだ。その時はやけに内容が簡潔だったのは、恐らく「彼女」がギルバートの近くにいたからだろう。しかし・・。ヨハンは2階を見つめた。あんなヤワそうな子が、よりによってギルを狙うか?ヨハンはどうしても信じられなかった。ギルの被害妄想じゃねーのかな?

「ヨハン!!何なまけてんだ!」 マスターに怒鳴られて、ヨハンはハッと我に返った。「ごめん、ごめん!」ヨハンは笑って洗ったばかりのグラスを布で拭き始めた。

ドアの隙間から、一階の物音が聞こえてくる。拓美はベッドから起き上がると、床の上に置いてあるリュックを手繰りよせた。中から何かを取り出した。それは、一枚の写真だった。 「待っててね・・。後少しだから。後少しで、アナタの側へ行けるから。」

そうつぶやいた時、拓美の脳裏に1つの画像が浮かび上がった。 小さな焚き火。そして、クセのある細長い字で「僕の敵を取ろうなんて、馬鹿な事は考えないで下さい。」・・・。拓美は唇をかんだ。 馬鹿な事なんかじゃないわ。写真の中では、1人の男性がピアノを弾いていた。

その部屋には、6人の人間がいた。彼らの衣装は、何とも奇妙だった。6人の内3人は華やかなドレスやタキシードを着ている。残りの3人は全身黒ずくめの服を着て黒い帽子をかぶってサングラスをかけている。

「最終確認するわよ。良い?」黒ずくめの服を着たリーダー格らしき女性が緊張感ではりつめた声で言った。残りの5人が黙ってうなずく。

リーダー格の女性は1つ咳払いをすると「今夜9時にミュンヘンの郊外にあるマジョリー家で行われるパーティーに侵入。べス、サミュエル、アンナが入り口のロビーを通ってそれぞれ一階のロビー、二階の大広間、1階の食堂で行動開始。私、アリ、ハンスが、 裏口、地下室から侵入して、そのまま目標地点の部屋へ。仕事が終わったら、私がべス、サミュエル、アンナにその旨を伝えるから、3人はすぐに退出。 私達3人も同じく。午後11時にグレッグの部屋で集合。良いわね?」 「了解。」タキシードを着た男性が緊張を隠す為か、おどけた口調で言った。

「アンナ、くれぐれも気をつけてくれよ。」黒ずくめの男性が心配そうに 深緑のドレスを着たアンナに声をかけた。「大丈夫よ、アリ。上手くやってみせるわ。」アンナは少し青ざめた顔つきで微笑んだ。リーダー格の女性が 「・・・皆、心配しないで。最悪の場合でも、グレッグが何とか助けてくれるから。」と言った。その言葉で場の雰囲気は和んだが、リーダー格の女性だけは自分の言葉によって不安が増すのを感じていた。

窓の外では雪が降っていた。巨大なシャンデリアの下では、華やかなパーティーが繰り広げられている。食器のぶつかりあう音と人の話声に混じって、かすかにピアノの音色が聞こえた。パーティーでサティーを流すなんて珍しい・・。べスは深呼吸をした。落ち着いて・・私の仕事は簡単なんだから成功する筈よ。落ち着いて。

もう一度深呼吸をしてから、べスは勢い良く椅子から立ち上がった。その時、「クスッ」と笑う声が背後で聞こえた。べスが振り向くと、一人の若い青年が 微笑んでいた。「失礼、お嬢さん。先ほどから落ち着かないご様子ですね。 何か心配事でも?」「い、いえ、別に。ただ、こんな豪華なパーティーは初めてなので緊張してしまって。」「そうですか。・・もし宜しかったら、カクテルを飲みながら少しお話でもしませんか?」「え?あ、ハイ。喜んで!」

喜んでどころじゃないわ。大喜びよ。今から探し出そうと思っていたのに、 そっちから来てくれるとはね。感謝しますわ、フレッド・マジョリー様。 べスは、フレッドに気づかれない様にそっとドレスの袖の内側に触れた。そこには、ほんの3ミリ程の金具がついていた。

サミュエルとアンナは、べスからの「合図」を受け取った。とりあえず、1人目のターゲットには意外に早く接近出来た様だ。残りは、マジョリー夫人、そして一番大事なマジョリー伯爵だ。

リーダーのキャロルとアリとハンスが仕事をスムーズに終わらせるまで、この3人を何としてでもパーティー会場に引き止めておかなくてはいけない。何、そんなに大変な事ではない。順調にいけば、たったの3分程で済む筈だ。そして、彼らは皆、3分間ずっと1人の人間を魅了し続ける事が出来る自信を持っていた。

パーティー会場とは打って変わって、マジョリー男爵の書斎付近は静まり返っている。ヘビー級のボクサーと見間違う程の屈強な肉体を持っているボディーガード2人は、意識を失ってカーペットの敷かれた床に倒れていた。周囲には異臭が漂っている。彼らが守るべきであった硬い鉄の扉は、5秒前と変わらずしっかりと閉まっている。だが、5秒前には扉の向こう側に3人もの部外者はいなかった。

「アリ、ハンス、始めましょう。」「了解。」3人は手袋をはめ直すと、作業に取り掛かった。アリは、首からさげたロケットにそっと触れた。アンナ・・無事でいてくれよ。

2分後、サミュエルはマジョリー夫人にニッコリと微笑んだ。「飲み物を取ってきましょう。」視界の端に、アンナが玄関に向かっている姿が映った。数秒後、サミュエルは、さりげなくマジョリー夫人の前から完全に姿を消した。今回の仕事も、どうやら成功した様だ。

10歳くらいだろうか。ブルブル震えている少年を、アンナはそっと優しく抱きしめた。サミュエルは硬い表情を崩さない。

「で・・・マジョリー伯爵の人身売買の証拠を突き止める為に彼の書斎に侵入したところ、被害者1名を発見して証拠書類と共に「ついでに」保護したというわけか。」グレッグの言葉に、ハンスは何か言いたそうな顔をした。

「何だ、ハンス。」「いえ・・。ただ、「ついで」という言い方はどうかと思って・・。」「ついでじゃなかったら、何だ?・・全く、厄介な「物」を連れて帰ってきてくれたな。」「・・・。」その場の気まずい雰囲気を取り繕うかの様に、キャロルが 「さぁ!皆、今夜もご苦労様!ね、良いじゃない。仕事は成功したんだから。アンナとべスは外部での仕事は初めてだったのに、よくやったわ。ハイ!解散!」と言った。

不服そうなハンスの背中を強引に押して、キャロルは5人と共にグレッグの書斎を出ようとした。「アンナ。待て。」

グレッグの声に、アンナは顔を強張らせた。「・・何か?」「それを置いていけ。」グレッグはアンナの腕に抱きかかえられた少年を指差した。「何故ですか?この子は警察に保護されるべきだ。あなたはこの子に用は無いでしょう。」ハンスは強い口調で言った。

しかし、グレッグはハンスの声が聞えなかったかの様な表情で「アンナ。聞えなかったか?それをここに置いていけ。」アンナは迷っていたが、やがて意を決して少年から手を離した。少年は不安で泣き出しそうな顔をしてアンナの服の袖をしっかりとつかんだ。

アンナはその場にしゃがみこんで少年の目線に合わせた。そして、少年にだけ聞えるかの様な囁き声で「大丈夫、大丈夫よ。何も怖い事はないわ。」と言って、優しく微笑んだ。 アリが、少年の頭を軽く撫でた。アリの眼差しは、哀れみで覆われていた。

「あの子・・・。いつか私達と一緒に仕事をするのかしら・・。」「多分ね・・。」「だよな。身寄りもないし、何でもかんでも吸収しちまう年齢だし、何よりも綺麗な顔してるしな。」「止めてよ!」「何だよ、本当の事だろ?お前らだって分かってた筈だ。あの子とグレッグを会わせた時点で何が起こるか。グレッグが、絶好の新入りを簡単に孤児院なんかに引き渡すと思ったか?まさかだよなぁ!」

「・・・。」「・・だから僕は反対したんだ。余計な事はするなって。」「今さら遅いんだよ!」「ちょっと止めなさいよ!・・・とにかく、今夜はもう寝ましょう。」「未来の我らの仲間に乾杯。」「ふざけないで!」

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