バジルは、初めて明かされたギルバートの過去に対して何を言えば良いのか分からなかった。「辛いわね、可哀想。」なんて馬鹿な事は絶対に言えない。そして、こんな時でさえも、ギルバートの心の奥深くに焼きついているスザンナという女性に嫉妬している自分の心中を、絶対にギルバートに感づかれる訳にはいかない。ベッドから立ち上がって窓枠に座ったギルバートの眼差しに見え隠れする、憎悪に覆われた絶望感が強く伝わってきて、バジルは思わず目を反らした。

窓から部屋の中に柔らかく降り注がれていた日光が、ほんの少し翳った。雲が出てきた様だ。「俺は・・・結局、何をしたいんだろう。」その言葉に驚いてバジルが顔を上げると、ギルバートは自嘲している様な顔をしていた。「だって、そうだろう。憎い敵のグレッグを殺して・・そして、どうなる?スザンナが戻ってくる訳じゃない。」バジルが今まで聞いた事が無い程に、力の抜けきったギルバートの声だった。

「そ、それは、そうだけど・・!」バジルは何か言おうとした。言わなくてはいけなかった。「でも、でもね!ギル!」「何だ?」バジルは、顔を上げて言おうとした。そして、ギルバートの何かを諦めきった様な優しい眼差しにぶつかった。「あの・・・・。」バジルは唾を飲み込んだ。「ギル。」「ん?」「1つだけ約束して、お願い。」「・・・内容によるな。君の「約束」は、時としてとんでもない内容だから気をつけないと。」そんな風に、からかう様な口調で話さないで。今日の貴方は、どうしてそんなに優しいの?早く、いつもの貴方に戻って。私をこれ以上、不安にさせないで。

「・・・ううん、大丈夫よ。今回は、そんなに、とんでもない内容じゃないわ。」「本当か?とりあえず、内容を言ってみてくれ。」ギルバートの顔を見て言う勇気は持てなかったので、バジルは自分の両手で持っているカップを見つめた。そして、言った。「絶対に、自殺はしないで。」

「ヨハンさん、とっても美味しかったです。有難うございました。」 拓美はそう言って、微笑んだ。拓美の、心のこもった笑顔を見るのは初めてだったヨハンは驚き、少し嬉しくなった。初めて、この胡散臭い日本人の少女が可愛らしく思えた瞬間だった。 「いえいえ、どういたしまして!気に入ってくれたみたい良かったよ。あ、君、コーヒーと紅茶、どっちが好き?」「紅茶の方が好きです。どうしてですか?」 ヨハンはニッコリ笑った。「食後の一杯に酒、って感じじゃないだろ、君。ちょっと待ってて、すっげぇ美味いダージリンティー淹れてあげるからさ。」「あの・・・。」「遠慮はいりません。」拓美はクスッと笑った。「じゃぁ、有難く頂きます。」「そうそう、人の好意は素直に受け取りなさいって。」ヨハンは、自分の心中で拓美に対する警戒心が少しづつ溶けていくのを感じていた。

ギルバートは、バジルの言葉に対して特に驚いた様子は見せなかった。「約束の内容は、それだけか?」「え・・うん、そうだけど。」ギルバートは肩をすくめた。そして、普段と同じ口調で言った。「悪いが、約束は出来ない。」

ほんの一瞬、バジルの視界が真っ暗になった。しかし、次の瞬間、バジルは我を忘れてギルバートの胸元に掴みかかっていた。バジルの手から滑り落ちたカップが、派手な音を立てて割れた。だが、バジルはその音を聞いていなかった。「バジル、いきなり何だ。」首を締め付けられたギルバートはさすがに目を見開いた。「一体、何・・・。」「いい加減にしなさいよ!」手の力を少しも緩めずに、バジルは間近にあるギルバートの碧眼を睨みつけた。

「・・・確かにギルは可哀想よ。同情するわよ。復讐しか頭にない様な冷酷な人間になるのも、納得出来るわよ。これ以上、大事な人達を失うのが怖くて心を閉ざしたくなる気持ちも分かるわよ。」ギルバートが何か言いかけたのを、バジルは大声で遮った。「でもね!でも・・・辛いのはギル1人じゃないのよ!そこのところ、分かってる?ねぇ!ギルの側にいるのに、誰よりも側にいるのに、ギルの為に何も出来ないでいる私も、泣きたくなる程に辛いのよ!」「・・・君には、迷惑をかけて本当に悪かったと思っている。復讐を遂げたら、俺は永遠に君の前から姿を消すつもりだ。」 バジルは心の底から呆れ返った。実はギルバートは、こんなに馬鹿な男だったのか。「・・・・・冗談じゃないわよ。」

バジルは、両手をギルバートの着ているセーターの胸元から離した。ギルバートはホッと息をついた。「なぁ、バジ・・。」一瞬の隙をついて、バジルはギルバートの首を両手で包み込んだ。握力には自信がある。少しづつ、ゆっくりと確実に力を込めていく。バジルの目は冷え切っていて、ギルバートの、苦笑からだんだんと困惑に変化してゆく顔を無表情に見つめていた。「バジル・・・。」ギルバートの声が苦しげなものに変わった。「・・・お望み通り、永遠に私の前から消してあげるわよ。でも、お生憎様。すぐに私も後を追うわよ。」そう言ったバジルの声は、少しも揺れていなかった。

同じ頃、ヨハンは拓美を相手に楽しげに話していた。「ヨハンさんって、やっぱりリーさんの事が好きなんですね。」「だから違うってば!逆だよ、逆!・・・・まぁ、俺も、嫌いじゃないけどね。良い友達だと思ってるよ。・・・でも、俺は、本気で惚れてる女がいるしさ・・・。」そう言った後に、まるで誤魔化すかの様にヨハンは話を拓美に振った。「君はさ、彼氏とかいないわけ?」

拓美はニッコリ笑った。「彼氏はいません。」「そう〜?」「婚約者はいますけれど。」「・・・・はっ?!」ヨハンは驚きのあまり、ダージリンティーを気管に入れてしまい派手にむせ返った。「こ、婚約・・者って、え、君いくつ?」「20歳です。」

ヨハンは、やっと落ち着きを取り戻した。「あぁ、そっか。20歳なら、そんなに不思議はないな。うん。でも・・・驚いたなぁ。」「えぇ、皆、驚きます。特に私は童顔だから、婚約者がいるなんて信じられないみたいで。」「でも、良いよな〜。何か、羨ましいよ。で、その婚約者の彼はいくつなの?」拓美は、ためらわずに「今も生きていれば、27です。」と、笑顔で答えた。ヨハンの顔が強張った。「・・・・え?彼、死んでるのか?」「えぇ、7年前に。自殺したんです。」言葉の内容に似合わず拓美が平然とした口調で話すので、ヨハンはどう反応して良いのか分からなくなった。「そ・・・そう。それは、大変だったね・・。」「えぇ、本当に。けっこう大富豪のお坊ちゃんだったんで、マスコミへの対応も色々と面倒で。」「ふーん・・。」

その時、ヨハンはある事を思い出して愕然とした。「・・・ヨハンさん?どうしたんですか?」「・・・確かに、7年前?その、婚約者が死んだのって。」ヨハンは、乾いた声で確認した。「そうですよ?」「7年前のいつ?まさか・・・・冬、なんて事、ないよな?」拓美は、屈託なく答えた。「冬ですけど。それが何か?・・・ヨハンさん?!どうしたんですか?顔が真っ青ですよ?」 「だ、大丈夫・・・。ちょっとゴメン・・すぐに、戻るから・・。」ヨハンは震える足で、ヨロヨロとカウンターから出て、自分の部屋に向かった。7年前の冬、大富豪、7年前は20歳だった男・・・まさか、この子の婚約者ってのは、スザンナが死んだ夜に関係していたのか?

ギルバートが苦しげに顔を歪めた時、突然、バジルの両手から力が抜けた。さっきまで冷え切っていた眼差しも、弱々しいものに変わった。そして、ノロノロと両手をギルバートの首から離すと、床にうずくまった。ギルバートは数回、大きく咳き込んで、そして黙った。

「・・・ダメね・・。」バジルは、くぐもった声で言った。「本気でギルの事、殺してしまうつもりだったのよ。だって、人の気も知らないで、永遠に消えちゃうなんて酷すぎるじゃない?でも・・・・ダメだった。大好きな人のあんなに苦しそうな顔、とても耐えられないもの・・・。」頬を伝う涙をぬぐった。「ギルのせいよ。私がこんなに弱くなったのは、絶対にギルのせい。」「バジル。」バジルはスクッと立ち上がった。そして、無理矢理に明るい調子で言った。「悪いけど、今日はこれからアンナが来る予定なの。もう帰ってくれない?」嘘だった。でも、これ以上ギルバートの側にいたくはなかった。

「・・・分かった。」数秒間の沈黙の後、ギルバートはそう答えて、玄関に向かった。バジルは、唇を噛んで、ギルバートを引き止めてしまいそうな自分を必死で抑えていた。靴を履いてドアを開ける直前、ギルバートは口を開いた。「・・・約束は出来ないが、とりあえず、自殺はしない「予定」にしておこうと思う。」バジルは唇を噛むのを止めた。「あの世で、君に首をしめられるのはゴメンだからな。」静かにドアが閉まった。バジルは涙を抑えなかった。