式部堂
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| 石川町の和泉式部伝説と「和泉式部堂」 平安時代中期を代表する女流歌人、和泉式部は「和泉式部歌集」正集・続集合わせて1540首が収蔵され、しかも「拾遺和歌集」をはじめ多くの勅選集に採られた歌は247首ほどあり、女流歌人では最も多く、とりわけ恋愛歌において日本和歌史上抜群の名作を残しています。 この詠歌の世界に生きた和泉式部の書承・口承が石川町には多く残されています。 石川町の和泉式部伝説の中核をなすのが、光国寺に伝来する「金子山光国寺由来縁起附和泉式部元祖物語之事」では、天元2年(979年)安田兵衛国康長者の一人娘として生れ、幼名を玉世と名付け、正暦2年(991年)京にのぼり、大友の久呂主卿の養女となり名も和泉式部と改め、一首を詠み、阿波の鳴門の鳴動を静めた功績により、大内への昇殿を許され歌所の頭人となったと伝えられています。 和泉式部は晩年故郷、石川町に帰り、その生涯をとじたとも伝えられています。 「和泉式部堂」は里人が和泉式部の徳を褒め称え、また御利益を授かりたいと願い、建立したと伝わっています。「金子山光国寺由来縁起附和泉式部元祖物語之事」では、「寛弘三年の秋奥州曲木の里は和泉式部の故郷なればとて近隣の男女打ち寄り御蔭堂を建立し如意輪観世音安置し奉る導師は光国寺住僧也」と記されています。 光国寺も和泉式部の祖父掃部国光が亡父の尊霊菩提のため建立したと伝わり、和泉式部ゆかりの寺として知られています。 以上が、案内板に書いてあった内容です。 「和泉式部堂」は、現在の場所に明治頃に移設されたそうです。それまでは、近所の山の中に埋もれていたのを不憫に感じた有志が光国寺にお願いして移設されたそうです。 また、和泉式部が京にのぼったとありますが、実際は父親が亡くなって叔父の家に身を寄せていた時に、塩商人にその賢さを認められて塩3駄(どれくらいの量なんだろう)と物身交換されたそうです。そして、塩商人が現在のいわきに戻った時に、京の呉服商人に更に転売されて、京にのぼったと言うことが、「金子山光国寺由来縁起附和泉式部元祖物語之事」に書かれているそうです。ちょっと、イメージとは違っていたので、驚きました。 |
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