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2007年8月9日(木)

            非核三原則の法制化を促す、長崎平和宣言

  
  
   きょうは、仕事のために、午前11時2分には黙祷をすることが出来ませんでしたし、リアルタイムで田上富久・長崎市長の平和宣言を聞く事は出来ませんでしたが、帰宅後に夕刊で読むことが出来ました。

   1945年8月9日午前11時2分、この日も私達は忘れてはならない日です。

   今年の長崎は、4月に伊藤一長氏が選挙中に凶弾に倒れるなど、市民にとっては忌まわしい出来事があったそのような中、6月には久間防衛大臣が原爆容認論を講演の中で述べ、選挙区の長崎の人々の大ブーイング、全国からのブーイングにより、辞任に追い込まれる事件があった中で、軸足は寸分ぶれることなく、しっかりとした平和宣言となりました。
   長崎の平和宣言は、非核三原則の法制化を政府に求める文言が使われてきましたが、今年も盛り込まれました。
   








                     長崎平和宣言


  「この子どもたちに何の罪があるのでしょうか」
 原子爆弾の炎で黒焦げになった少年の写真を掲げ、12年前、就任まもない伊藤一長前長崎市長は、国際司法裁判所で訴えました。本年4月、その伊藤前市長が暴漢の凶弾にたおれました。「核兵器と人類は共存できない」と、被爆者とともに訴えてきた前市長の核兵器廃絶の願いを、私たちは受け継いでいきます。

 
 
1945年8月9日、午前11時2分、米軍爆撃機から投下された1発の原子爆弾が、地上500メートルで炸裂しました。
 猛烈な熱線や爆風、大量の放射線。
 7万4千人の生命が奪われ、7万5千人の方々が深い傷を負い、廃墟となった大地も、川も、亡骸で埋まりました。平和公園の丘に建つ納骨堂には、9千もの名も知れない遺骨が、今なお、ひっそりと眠っています。

 
 
「核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法に違反する」という、1996年の国際司法裁判所の勧告的意見は、人類への大いなる警鐘でした。2000年の核不拡散条約(NPT)再検討会議では、核保有国は、全面的核廃絶を明確に約束したはずです。
 しかしながら、核軍縮は進まないばかりか、核不拡散体制そのものが崩壊の危機に直面しています。米国、ロシア、英国、フランス、中国の核保有5か国に加え、インド、パキスタン、北朝鮮も自国を守ることを口実に、新たに核兵器を保有しました。中東では、事実上の核保有国と見なされているイスラエルや、イランの核開発疑惑も、核不拡散体制をゆるがしています。
 新たな核保有国の出現は、核兵器使用の危険性を一層高め、核関連技術が流出の危険にさらされています。米国による核兵器の更新計画は、核軍拡競争を再びまねく恐れがあります。
 米国をはじめとして、すべての核保有国は、核の不拡散を主張するだけではなく、まず自らが保有する核兵器の廃絶に誠実に取り組んでいくべきです。科学者や技術者が核開発への協力を拒むことも、核兵器廃絶への大きな力となるはずです。

 
 
日本政府は、被爆国の政府として、日本国憲法の平和と不戦の理念にもとづき、国際社会において、核兵器廃絶に向けて、強いリーダーシップを発揮してください。
 すでに非核兵器地帯となっているカザフスタンなどの中央アジア諸国や、モンゴルに連なる「北東アジア非核兵器地帯構想」の実現を目指すとともに、北朝鮮の核廃棄に向けて、6か国協議の場で粘り強い努力を続けてください。
 今日、被爆国のわが国においてさえも、原爆投下への誤った認識や核兵器保有の可能性が語られるなか、単に非核三原則を国是とするだけではなく、その法制化こそが必要です。
 長年にわたり放射線障害や心の不安に苦しんでいる国内外の被爆者の実情に目を向け、援護施策のさらなる充実に早急に取り組んでください。被爆者の体験を核兵器廃絶の原点として、その非人道性と残虐性を世界に伝え、核兵器の使用はいかなる理由があっても許されないことを訴えてください。

 
 
爆心地に近い山王神社では、2本のクスノキが緑の枝葉を大きく空にひろげています。62年前、この2本の木も黒焦げの無残な姿を原子野にさらしていました。それでもクスノキはよみがえりました。被爆2世となるその苗は、平和を願う子どもたちの手で配られ、今、全国の学校やまちで、すくすくと育っています。時が経ち、世代が代わろうとも、たとえ逆風が吹き荒れようとも、私たちは核兵器のない未来を、決して諦めません。

 
 
被爆62周年の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にあたり、原子爆弾の犠牲になられた方々の御霊の平安をお祈りし、広島市とともに、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に力を尽くしていくことを宣言します。


                                             2007年(平成19年)8月9日 
                                             長崎市長 田 上 富 久





2007年8月6日(月)
                62年前の、広島の被曝を忘れまい

 1945年8月6日午前8時15分、原子爆弾によって、一瞬のうちに焦土と化した広島の街。

 その時から62年後の今朝、秋葉忠利・広島市長が読み上げた「平和宣言」には、無念にも亡くなった人々の痛切な叫びが込められていました。この平和宣言を読み返し、これだけの犠牲を払いながら、まだ核兵器が無くならないというのは、人類はなんと愚かな生物なのかと自問してしまいます。

 平和を築く事がどれだけの努力を必要とするか、様々な活動・運動を通して痛感していますが、被爆地・広島、長崎の人々の努力のお蔭で、第三の被害地を防げている事に、改めて感謝をしているところです。

 一方、安倍首相の話は、昨年の小泉さんの話を想像して、聞く気持ちになれなかったのですが、新聞で読んでみても、「憲法順守、非核三原則」という言葉が、空虚に思えてしまうのは、私だけでしょうか。日頃の彼の言動から、心のこもらない、単なる活字としか感じられません。


 毎年、広島市長が読み上げる「平和宣言」は、平和教育の教材として広めたい、力のこもった文章の仕上がりです。皆さまも是非、お読み下さい。

 
      
                  平 和 宣 言

運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)――静寂――阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)。

落下傘を見た少女たちの眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人――辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの「地獄」でした。

14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。

それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません。

こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。

我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

2007年(平成19年)8月6日
                      広島市長 秋 葉 忠 利





2007年8月5日(日)

                 川田龍平さん当選を勝ち取る

8月2日カフェスローのご苦労さん会で

 4月30日、16年間の清瀬市議会議員生活を終え、のんびりする暇もなく、川田龍平さんの参議院議員選挙に向けた、そして本番の選挙活動をしていました。
 仕事も本格的に再開する態勢にしていたために、多忙な日々でした。

 でも、7月29日の投票日には、東京選挙区で第5位の当選を果たすことができ、涙が出るくらい嬉しいものでした。一人ひとりの熱い思いが込められた投票は、68万3629票という大きな数字。ちなみに、私の郷里の徳島県は人口約80万人、全ての県民の8割に当たる人々が投票してくれたに値する数字です。私の地元の清瀬市では4047票の第五位。

 29日当日は。仲間の若者が開票立会人をしてくれていたので、送迎を引き受け、送りとどけ一端帰宅をして、再度午後9時40分頃から開票所につめ、7月30日午前0時45分の確定を見て、立会人の事務手続きが終えるのを待って、1時過ぎに彼を送り、帰宅をしました。暫くは、開票を伝えるテレビを見て、就寝。
 
 今回の選挙に関してのコメントはいろいろに言われていますが、川田選挙に関しては、民度の高い人々が、川田龍平さんに投票をしてくれたのだと思います。それは、各地の投票立会人の見た票の文字がとても整然と書かれていたことからも、その傾向が読み取れるものでした。

 また、「動けば変わる」「いのちの政治」を訴え続けた川田龍平さんの演説は、選挙期間中、一日一日人々の心を惹きつける素晴らしいものに変容していきました。彼の言葉を引用しますと、「余生をかけて頑張ります」というその言葉と、姿に説得力があったのだと思います。

 どの候補者よりも素晴らしい候補者の選挙を闘う事ができて、本当に幸せでした。
 龍平さん、ありがとう!!
 
 これからも、一人の市民として様々な局面でのお手伝いをしていくことになりますが、皆様もどうぞよろしくお願いします。

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