音楽的無意識10
マレーシアの青ざめた蝶の幻
長かった梅雨もようやく明けて残暑厳しい日々が続いていますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。今回は暑気払いに音楽にまつわる怪談めいたお話をしましょう。
エドガー・フローゼといえば、ドイツを代表するシンセサイザー・ロック・グループ、タンジェリン・ドリームのリーダーとして、30年近くこの分野に君臨し続ける大御所中の大御所です。『イプシロン・イン・マレーシアン・ペイル』は、その彼が1975年に発表した2枚目のソロ・アルバムです。私は1982年5月に日本ポリスターの「ブレイン・ロック・コレクション」の一枚として発売されたLPで、初めてこのアルバムを聴くことができましたが、印象は実に強烈でした。メロトロンの奏でるかすれたフルート、ストリングス、コーラスの音色が深いリブァーブの中で溶け合う幻覚的な音響、それを所々でさえぎるエフェクト処理された列車のカタンコトンという音、そして何よりもそれらを背景で支えるアブストラクトなシンセの逆回転サウンド。これらが一体となって、まるで亜熱帯の熱気の中で熱病にかかってうなされているような深い酩酊感に襲われたものです。そう、ちょうどアルバム・ジャケットに描かれている一面青のシダの原生林の中を彷徨っているかのような死と隣り合わせの恍惚感。イプシロンというのは爪先ぐらいの大きさの極めて小さな蝶のことらしいのですが、そういわれてみればジャケットの妙にざらざらした感触の写真は、死者の魂が小さな蝶と化して飛び交っている冥界の情景であるかのような気がしてきます。
さてLP購入後しばらくしたある日、ふと手にした音楽雑誌に思いがけない広告記事を見つけました。先日発売したエドガー・フローゼの『イプシロン・イン・マレーシアン・ペイル』は不良品につき回収を行なっています、と。不思議に思ってレコード会社に問い合わせてみたところ、担当者が実に狼狽し切った声で答えてくれました。このLP,なんとマスター・テープを逆方向に再生したものをプレスして販売してしまったものだったのです。「不良品」を「正しい」ものと交換したいというレコード会社側の申し出を断ったのは言うまでもありません。だって、この逆回転バージョンは見事な完成された作品として成立しているではありませんか。これをこの世から「抹殺」するなんて、とんでもない。
かなり後になって、このアルバムの「正しい」バージョンを手に入れました。輪郭の定かではないメロトロンの溶け合うような音響は実は逆回転によって生み出されたものであり、逆回転だと思って気に入っていたシンセのアブストラクトな音は本当はごく普通の伴奏だったのです。先になれ親しんだという点を差し引いても、逆回転盤の方が作曲者の意図した幻覚性では勝っています。私が感動したものは一体なんだったのでしょうか?
ところでこのアルバム、すでに日本コロムビアから1975年に発売されていたのですが、この日本初発売時の邦題は『青ざめた虚像』・・・・・・
初出:『月刊モダンビーム』第13号、1998年9月
段落ごとに改行した他は、原文のまま再録しました
(C)1997,2002 Yoshiaki Miyano 音楽的無意識リストへ TOPへ