ラグナロク小説
赤い宝石
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 そこは地上から遥か地下の底に追いやられたようにある一つの小さな集落だった。腐り朽ちかけた廃屋が建ち並ぶその空間は、常に白く粘り気を帯びた霧と腐臭がまとわりつき、その内外は凶暴な魔物が干渉からその場を守るかのように徘徊している。

 男は辺りを見渡した後に深い溜め息を吐く。そのような危険な場所まで深入りする気は全くなかった。男はこの地下洞窟で採取できる研究の材料を目的にここへ潜っていたのだが、やがて辺りを覆う深い霧に誘導されているかのように、この廃墟の前へと迷い込んでいた。


 もはや男の知らない、相当奥地まで入り込んでしまったものの、その道中魔物に襲われなかったのは不幸中の幸いだろうか。

 だがそれは幸いなどではなく、男を恐怖の奈落へと突き落とすための通過点に過ぎなかった。すぐに男は乱雑に建ち並ぶ廃屋郡の中央にある古びた教会から伸びる尖塔の先から、赤い光がまるでこちらを照らすように輝いているのを見つけた。

 しかしその輝きはすぐに濃霧の中へと掠れていき微かな余韻を残して消える。しかし残った濃霧は次第にその色を白から灰、黒へと変色させていく。まるで黒煙のような存在感と質量を有した霧はまるで生きているかのように尖塔から地面へと降りてゆき、男の目の前で形を歪めながらも停滞する。

 黒い霧は拡散することがなく、まるで目の前に男が立っていることを知っているかのようにその場に留まっていた。男はその黒い影、−それは霧のような曖昧な形ではなく何かの影に見えた−その中にあの赤い光の残光がまだ微かに見えた。黒い影は徐々にその姿を変え、見慣れたある輪郭へと形造っていく。男は無意識に後ずさりをしてしまう。その影の中にもう残光は見えないが、それに反比例するかのように影はその形を明確にした。


 男は叫び声をあげてそこから背を向け走り出した。


 影は人間の形をしていた。


 どれだけ走ったか分からない。別の生き物のようにガクガクと震えて歩を止めたがっている膝をそれでも叱咤して走り続けるが、景色が変わる気配がない。そこで男は周囲の異変に気づく。辺りは白、というより灰に紫が混じったような禍々しき霧が男を取り囲むように包んでいた、視界に映るものはその霧と足元の土だけといってもおかしくないほどの濃霧だった。もはや自分のいる位置を把握することもできず、世界から孤立してしまったような感覚を覚える。

 困惑した男は疲労も伴ってその場に立ち止まってしまった。いや、立ち止まると言うより転がるようにと言ったほうが近い。座り込んでしまった男は激しい動悸を抑えるように呼吸する。脚は痙攣し再び立つことまだできそうもない。しかし、この脚の感覚はまるで自分の脚ではないような錯覚に陥ってしまう。たしかに自分のもので、意志に沿って動いてはいるが、段々力がなくなっていくのは疲労のせいではない。

 まるで魂を奪われているかのような。

 男はそれでも這いずって霧の中を逃げる。だが果たして自分はあの、異質な人型の影から逃げれているのだろうか。距離は広がっているのだろうか。影もあの赤光も見えない、そして自分の向かう方向すら霧の中へと吸い込まれているのだ。そこから今にも黒い影が飛び出してくる恐怖が男を進み続けさせた。


 どれぐらい這っていただろうか、男は霧の先に建物のシルエットを僅かに見た。進むにつれそれが幻などではないことがはっきりしてくる。霧によってその建物の全体像は分からないが、男は助かったとばかりにその建物へ隠れることにした。

 建物内部の様相は想像以上だった。白い霧は建物内の空気にも色をつけていた。床板は朽ちて土が露出しており、壁も崩れ其処彼処から霧が侵入している。何より激しいのは、扉から数歩先は建物自体が崩壊しており瓦礫の山が積まれているという状態であることだった。

 ふと部屋の端に目を移すと、これも崩れかけだが二階に続くであろう木製の階段があった。ここよりは上の方が安全だろうと男はその階段を上がっていく。どうやらこの建物は随分縦に長い構造になっているようで、螺旋階段のように曲がりくねった道が続いており、途中の階というものがないようだった。屋上へ直行する階段のようだ。

 予想通り階段を登り切ると視界の開けた場所に出た。ちょっとした広場のようで、外壁と同じ素材の、恐らく以前は綺麗だったであろうタイルが足元に敷かれている。建物から先の風景は見えない。一歩先を霧が阻んでいるのだ。だが風の強さから結構な高さまで来たことは分かる。ここも辺りに瓦礫が堆く積まれていた。階下ほど酷くはないが、ここが屋上というわけではないようだ。
 広場の中央に細長い塔が突き出ている。男が立っているこの場所はこの塔を中心とした円形の広場のようだ。だが男の目は塔そのものでなく、塔の先を凝視していた。

 この塔は見たことある。忘れもしない、あの赤い光を発していた尖塔ではないか。そこから逃げていたはずなのに、誘われるように元の場所へ戻ってきてしまったのだ。

 しかしそれを悲しむわけでもなく、男は尖塔に向かって歩を進めていた。あの赤い光は一体何なのか知りたかった。あれはまるで光を反射する宝石のような輝きだった。が、こんな地下洞窟の廃墟で反射するほど強い光などあるはずがない。男は尖塔の中の螺旋階段を昇っていく。


 そこは小さな空間だった。その空間の殆どは中央の巨大な鐘が占領している。元は上から釣り下げられていたのだろうが、今は地面に横倒れになっており、鐘も土色に錆びて元の色が何なのかも分からない。これより上に行く階段がないことから、ここが最上階だろう。だが赤い光は見えない。


 男は鐘の内部を見ようと何気なく思った。鐘はこちらに頭の部分を向けている状態で、その内部は見えない。男はゆっくりとそちらの方向へ回り込んでみた。そこで男は立ち止まる。
 鐘の中には何もなかった。しかし、先程まで鐘で死角になってた場所に人が立っているのを見つけてしまったのだ。霧はこの高所にも及んでおり、人影は霧によってどんな人物なのか判別がつかない。男は気づかなかった。そもそも白い霧の中に立つその影にそもそも輪郭というものがないことに。


 男の視線はその人影の手にある赤い宝石に注がれていた。まるで誘い込まれるように人影に近づく。それに気づいたのか、人影もこちらにゆっくりと歩み寄ってくる。
 まるで向かいあう鏡のようだった。相手は何故男に近づいていくのか。そう頭で感じながらも、男はまるで夢でも見ているかのように赤い宝石を持つ相手の元へ行く。


 男と向き合った相手は赤い宝石を持った手を伸ばす。男も手を伸ばし、その宝石へ触れようとした。そしてまさに手が届こうとする瞬間に相手がさらに一歩踏み込んできた。男もその時にやっと相手の顔を見た。



 それはまるで鏡だった。
 男と同じように手を伸ばし男と同じ背丈、格好。
 そして寸分違わず同じ顔。
 人影は男そのものだった。



 男は宝石を持った手を戻す。



 男は後ずさりし、恐怖の顔を浮かべる。



 男の周囲に黒い靄がまとわりつく。



 男はゆっくりと崖縁に追いつめられた男の胸を押した。



 男に押され、脚が地から離れた瞬間、男は見た。




 今際の時に、赤い宝石の中に渦巻く黒い影を。

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