ラグナロク小説
赤い宝石
−2−

「ドッペルゲンガー、ねぇ」
「うん、それが持っているっていう赤い宝石って、すごく大きく綺麗なルビーで、冒険者がそれを見つけた時は、同時にドッペルゲンガーに命を吸われる時とか」
「面白い話だよな。もう一人の自分だなんて」
「まるで鏡なんだって。ドッペルゲンガーに会うとその人は死ぬってよく言われるけど、実際に会って生きてるって人もいるみたい」

「それってつまりさ、倒すこともできるんじゃないか?」
「そりゃ私にはわかんないけど、ちょっと、何企んでるの?」
「ドッペルゲンガーを倒す!」




 ゲフェンという街の中央に鎮座している巨大な塔。その建物の地下はモンスターの蔓延する危険な場所となっている。俺はその地下洞窟の奥に進んでいた。階層で言うと三階ほどだろうか、フィラの話にあったような廃墟郡が周囲に広がっている。そこで一際目立つ教会の尖塔が、その崩れた姿からでも何かを守護しているかのような厳粛な空気を感じる。尖塔で輝く赤い光を追うと、そこにはまるで鏡を見ているかのような、自分と全く同じ姿をした何かがいた。このフィラの話から考えると、目の前にある教会の尖塔にドッペルゲンガーが住んでいる可能性がある。剣を抜き身のまま俺は教会の崩れた門をくぐる。そして教会内に入り、腐りかけのお粗末な階段を上っていく。

 その道中に何かがいるという気配はなかった。いや、この階層の廃墟郡に踏み込んだときから魔物の気配は消えていた。だからといって安心はできない。この静けさはまるでこれから起こる何かの前兆なのではないか。すなわちそれはドッペルゲンガーの現れる前触れなのでは。
 それなら好都合。俺の目的はそのドッペルゲンガーを倒すことなのだから、この状況は目標と出会うことにより信憑性を与えている。俺は剣を握る手に力を込め、頂上に出る階段を上がりきった。

 そこはまさにフィラの話にあった通りのままだった。倒れた鐘、不自然なまでに濃い霧、そして黒い影。黒い影の中から貫くような赤い光が洩れていた。俺は剣を影へと向けて笑う。
「お前がドッペルゲンガーか?随分ってほどじゃないが、探したぜ」
 じりじりと距離を縮めていくにつれ、それに呼応するように黒い影はもやもやとした形を揺らす。
「鏡のようだって聞いたが、それが俺の姿なのか」
 ドッペルゲンガーが俺の姿であろうがなかろうが関係ない。目の前の黒い影が赤い宝石を持っている。それで十分だ。
「悪いけど、そいつを頂くぜ!」
 一足飛びで斬れる距離まで間合いを近づけた瞬間、俺は影に飛びかかった。不定型なままの黒い影を真一文字に切り、影が霧散したのを見ると俺は影に埋もれた宝石に手を伸ばした。その瞬間、宝石が眩いほどの光を発した。伸ばした俺の手はまるで磁力に反しているかのように触れることができない。いや、それどころか身体全体を今にも吹き飛ばされてしまいそうな衝撃が襲っていた。俺がそれに耐えている間に霧散していた黒い影は再び集結し、今度は明確な人間の形を作っていく。

「どりゃあ!」
 俺は再び剣を黒い影へ振り下ろした。しかしそこで赤い宝石はさらに強烈な輝きと衝撃を起こした。身体が傾く。吹っ飛ばされたのではない。地面が衝撃によって崩れたのだ。浮遊感とともに視点が逆さまになったかと思ったら、全身も激しい衝撃を受け、真っ暗になった。



 酷く気怠い感覚に眉をしかめた。次にじめじめとした空気と腐臭が鼻につく。仰向けに寝ているようだが、背中にゴツゴツとした感触がする。それよりも身体全体が軋んでいるかのような痛みに俺は目を開いた。そこで見慣れない風景が視界に広がったので驚いた。身体を起こして周囲を見渡すと、どこかの建物の内部のようだが、崩れた瓦礫が目立つ。
 ここはどこなのだろう。痛みを押して立ち上がってみるが、やはり視界が揺らぐ。周りを見渡して、ようやく自分の立つ場所がどこなのかわかった。瓦礫だらけで分かりづらいが、曇った光を反射している割れたステンドグラスと、床に散らばっている木製の長椅子の破片のようなものが転がっているのが僅かながら教会の面影を残していた。ここが教会だと分かったからといって何故そのような場所に自分がいるのか理解できない。

 当てもなく外に出たが、白い霧が壁のように視界を塞いで何も見えない。なんだここは、どうして俺はこんな所にいるんだ。誰かいないのか。

「誰か!誰かいないか!」
 叫んでみるが、声は霧の中に吸い込まれて反響すらしない。白い霧と教会と自分。確認できるものはこの三つしかない。全ての空間から隔離されたような感覚に陥る。身体の芯から冷えるような気分がした。ここは何処だ、何故俺はここにいるんだ。誰かいないのか。膨らんでいくばかりの不安感を払うように俺は白い霧に向かって呼びかけながら歩きだした。


 見える地面の面積が少し大きくなったような気がした。つまり霧が少し晴れたということだ。足元にばかり気を払っていたが、顔を上げてみるとだいぶ周りが見えるようになっていた。だけど、不安感がより強まった感覚がする。

 薄まった白い霧の先に紫の何かが揺らめいた。緊張で身が強ばる。この白の世界で起こった異変。しかし喜んでいいものじゃないようだ。
 霧を裂いて何かが飛び出した。真っ直ぐにこっちに向かってくるそれを俺は慌てて横に跳んで避ける。陽炎のように揺らめいているそれは紫色をした巨大な馬だった。いや、それだけじゃなかった。紫の巨馬が大きく嘶いた瞬間、馬の首から先が人の上半身へと変化した。まるで首から人間が生えているようだったが、その姿は人間とは言えない。暗い輪郭で判別しづらかったが、そのまるで死神のような容貌をしている。目玉のない穴に不吉な光が見え、全身が総毛立つ。目の前の化け物が放つものは明らかに殺気だった。骸が手を伸ばすと、腕が薄く細く変化していき、先が鋭利な鎌となった。化け物は俺の胴を狙って横薙ぎに鎌を払ってきた。それを後ろに飛んでギリギリ避ける。が、バランスを崩し転んでしまったのを化け物は下半身、馬の足で俺を踏みつぶそうと前両足をあげる。俺はそのまま転がるように逃げ出した。

 霧は晴れ、全く見えなかった暗い廃墟郡が今はわかる。俺は化け物に追われながら目に付いた建物に逃げ込んだ。中に入って、見覚えのある割れたステンドグラスで気づく。どうやらあちこち逃げ回った挙げ句にまた教会に戻ってきてしまったらしい。かろうじて椅子の機能を保った長椅子に座って頭を抱える。どうしてこんな目にあってるんだ俺は。ここに何故いることも分からない。何故分からないのかも分からない。おかしいぞ、何で分からないんだ。俺はフラフラとステンドグラスのそばに近寄る。埃で曇ってはいたが、払うとすぐに鏡のように、とまではいかないが自分の顔を映すほどになった。その姿を見て、予想はついていたがやはり顔が青ざめていくのは隠せなかった。赤いステンドグラスに映る自身の姿は全く知らない顔だった。

 その瞬間、目の前のステンドグラスが突然粉々に割れ、向こう側から何かが飛び込んできた。紫の馬、死神の姿はなかったが俺を追いかけてきた化け物だとすぐ分かった。だが、そう思った時にはもう遅かった。馬の体当たりを受け、後ろに吹っ飛ばされた。長椅子に当たってもなお勢いは落ちず、壁にぶつかってやっと俺の身体は止まった。壁にもたれかかるように座り込む。鉛玉を叩きつけられたような衝撃だった。目の前をチカチカと火花が散っているように見える。身体に力が入らない。それどころか意識が朦朧として、こちらに近づいてくる巨馬の姿をただ見ることしかできない。馬上に死神が姿を現す。終わりか。俺は死神の鎌が振り下ろされるのを揺らぐ視界の中で確認した。

「トール!」

 静寂を切り裂くような叫び声が響いた。死神の動きが止まる。顔が入口の方を向いている、誰かがここに来たのか。予想だにしない声の出現に、意識が急激に戻ってくる。誰かが助けに来てくれた!?
 入口の方に目を向けると、確かにそこには一人の女が立っていた。女は刀身が長方形の変わった形の剣を構え、視線は俺と化け物の間を行き交っていた。
「トール!」
 もう一度叫ぶと、女は走り出した。化け物に向かって跳躍すると、真正面から剣を振り下ろす。化け物はそれを、身体を横に少しずらすことで避ける。女の剣は空振りして地面へと突き刺さった。その瞬間、突き刺さったと思った場所が強烈な爆発を起こして辺りを熱風が巻き起こる。なんて攻撃だ。俺は顔を守りながら目を凝らして爆発の中心を凝視する。女は悠然とクレーターのできた床の上に立って、化け物の方向を向いている。その剣に不思議な光が纏っていた。あの光が力の源なのだろうか。元の馬の姿へと戻った化け物は、鼻息を一つあげると、背を向けて再びステンドグラスあった場所から外へと抜けて去っていった。


 女はしばらく剣を構えてステンドグラスの先を睨んでいたが、やがてふぅと息をつくと剣を鞘に納めこちらに走り寄ってきた。
「あ、ありがとう。助かったよ」
 俺は礼を言った、が、女はキョトンとした顔で俺の顔を見つめた後、急に強ばった表情をした。
「ありがとうじゃないでしょ!人に散々心配かけさせておいて、何やってんのよこんな所で。剣はどうしたの!?」
「そんなこと言われても」
 もの凄い剣幕で捲し立てられ、逆に俺が目を丸くするしかなかった。何やってるのか分からないし、剣は気づいたときにはなかった。それに、目の前にる人間に心配をかけた覚えもなかった。そこで改めて俺は今自分の立たされている状況に気づく。この人は俺のことを知っているのだ。しかし、俺は知らないのだ。この人が誰なのか。
「まあ、今のトールを見りゃ、ドッペルゲンガーに返り討ちにあったことは確実ね」
「ドッペルゲンガー?トール?」
「トール?って何言ってるの、自分の名前でしょ。ここに来たのはドッペルゲンガーを倒すためだったんじゃないの?」
「分からない。君は一体誰なんだ?俺を知ってるのか?」
 女は訝しげな表情でこちらを覗く。真意を読もうとしてるのだろうか。こちらは騙すつもりなどない正直な気持ちなのだから、こうして疑いの視線を向けられてもただ不安になるだけだった。
「トボけてるわけじゃ、ないの?」
「気づいたときにはここで倒れてた。どうしてここにいるのか分からないし、腰にあるのは鞘だけ。自分の名前すら」
「一応確認するけど、からかってるわけじゃないよね」
「うん」
「本当に?」
 ここまで念を押されるとは思わなかった。記憶がなくなってるなんてにわかに信じられないのだろうけど、俺は以前に疑われるようなことをしていた人間なのだろうか。女は考える仕草をしばらくした後、溜め息をつくた。改めてこちらに向き直った彼女の顔色は少し青ざめていた。
「これで冗談だったら怒るからね、記憶喪失なんて。でも、ドッペルゲンガーならそれもありえなくないかも」
「ドッペルゲンガーって?」
「一人の自分、それに会うと死んでしまうというのがドッペルゲンガーの話。実際は人の姿を真似て油断を狙う魔物らしくて、もう一人の自分を見たからって死ぬわけじゃないみたい。トールは、トールっていうのはあなたの名前だけど、そのドッペルゲンガーを倒すって息巻いてここに来たの」
 …私を放ってね。呟くようにそう付け加える。
「君は?」
 そう尋ねると、女は少し眉をしかめた。困ったといった感じで目があっちこっち移動する。
「知ってる人に対して自己紹介なんて変な感じ。私の名前はフィラ、あなたと今まで一緒に旅をしてきた、まぁ、相方ってとこ。昔から家が近い友人なんだけどね」

 悩んだ挙げ句に女、フィラは簡素な答えを出す。俺はそわそわする彼女の態度に嫌悪感を抱いていた。単なる旅の仲間というやつじゃないことはすぐに分かった。しかし、例え本当は恋人同士という関係でも俺にとってフィラは赤の他人なのだ。彼女は記憶喪失になる前の俺を好きだということに俺はどうしようもない疎外感を感じた。彼女が友人以上であることを伝えなかったのは、記憶喪失の俺は本物の俺じゃないと思ってるからではないのだろうか。

「ちょっと、腕ケガしてるじゃない」
 フィラの声で俺はハッと彼女が指している腕を見る。先程襲われた時にできた傷なのだろう、服が破れ露出している二の腕の一部分が赤黒く腫れ上がっていた。色々考えていたせいで気づかなかったのか、それを見ると急にジンジンと痛み出す。
「重傷ってほどじゃないけど、よくこんなに大きなケガして気づかないでいられるね」
 呆れたような口調でフィラは腰のポシェットを開けた。しばらく中身を探っていたが、うーんと唸って再び閉じる。
「回復剤が切れてる、さっきここの入口付近に露店があったからちょっと買ってくるわ」
 有無を言わさぬ勢いで立ち上がって外に出ようとするフィラ。俺はそれを唖然と見つめる。扉を開けようと出ようとする際にフィラは思い出したようにこっちを振り向いた。
「ここを動かないでね。勝手にいなくなって、もう、心配させないでよ」
 そう言って彼女はまたこちらに歩み寄った。腰に巻いた剣のベルトを外し、それを俺の目の前に差し出す。先程使っていた妙な形の剣とは違う物のようだが、それでも彼女の体格とはおおよそ不釣り合いの大型の両手剣だった。
「手ぶらじゃ危ないでしょ、これ持ってて」
 俺は言われるがままにそれを受け取る。その重さはケガした腕には少し辛いが持てないほどではなかった。
「落ち着いたらちゃんと自分のを探すのよ。そういう約束してたんだから」
 彼女は照れたように背中を向けて俺の返答を待たずに外へと出ていってしまった。その表情と言葉が頭の中を反響し、俺は返答どころか嫌悪感が再び込み上げてくるのを感じた。彼女は俺を見ていない。記憶のあるトールという人間を見ている。今の俺は一体何なのだろうと考えてしまう。記憶が戻った時、今の俺はどうなるのだろう。それを考えるのが怖い。居場所のないという感覚。彼女の存在がそれを一層大きくしたことを知り、余計にやるせなくなる。助けを求めていたはずなのに、その願いを叶えてくれた人間によって俺はまた悩んでいる。


 俺は割れたステンドグラスに歩み寄って破片を一つ拾い上げた。赤く映る自分の顔をまじまじと眺めてみるが、相変わらずそこには見知らぬ人間が真剣そうな表情で睨み返してくるだけだった。

「俺の名前は、トール…」

「違う」

 予想外の返事に俺は出入り口の扉のほうを振り返る。フィラが戻ってきたわけではなかった。扉の前には男が立っていた。立っている位置が影になっていてその姿を判別できないが、体格で何となくわかった。手にうっすらと光る刃物を持っているのも見えた。嫌な予感に俺は剣鞘に手をかける。
「ん、剣は奪ったはずなんだけどな。そんなことより、捜したぞ。灯台もと暗しってやつか。さっきは見つからなかったんだが」
 こちらの動きを窺うように歩いてくる男を崩れた壁から洩れる光が照らした。斜光の下に立ったその男の顔を俺は見覚えがあった。

 俺はこの顔を知っている。

「そんなに見るなよ、失礼だろ?」
 男は唇の端を歪めて笑う。やはりその顔には見覚えがある。しかし俺が今知っている人間は二人しかいない。今まで持っていたステンドグラスの破片を目の前に出す。破片は地面に落ち音を立てて再び割れた。全身が冷えるのがわかる。そこに映る俺の顔と、その向こうに見える男の顔。

 その姿は全く一緒だった。

「誰だ」
 後ずさりしながらこの一言だけやっと乾いた唇から引き出せた。男は笑い声こそ出さなかったが、いかにも嘲笑じみた表情で肩を震わせた。
「面白いことを言うな。そういうお前こそ誰だ」
「お、俺の名前はトール。冒険をしている剣士だ」
 ぎこちない自己紹介だと自分でも思った。フィラから聞いたことをそのまま喋っているだけで、純粋な俺の記憶からの言葉じゃないからだ。俺の返答を無表情で聞いていた男は足を止め、少し空を仰ぎ見るように思案顔になった。そして聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いたのを俺は聞き逃さなかった。
「姿と記憶を奪う、か」
 姿と記憶を奪う。その言葉は今の俺の状況にぴったり一致していることはすぐに理解できた。俺の記憶喪失の原因と関係しているんじゃないだろうか。
 ドッペルゲンガー。いま、目の前で鏡のように対立する男は、俺から姿と記憶を奪ったドッペルゲンガーなのか?

「どうでもいいことだな。俺は目的を達成するだけだ。トールは、俺一人だけで充分だ」
 ヒュッと風を切る音と共に光の線が瞬いた。俺は反射的に剣を抜き正面に構える。金属の擦れ合う不快な音が響く。男の剣が横薙ぎに俺の剣に当たったのだ。僅かでも反応が遅れていたら、俺の首が跳ね飛ばされていただろう。背筋の凍るような思いをしながら相手の剣を弾き、距離を取ろうと後ろに飛んだ。だが、それに合わせるように男も前に飛び出し頭上まで振り上げた剣を振り下ろす。足が地面に着くと同時に横へ飛びそれを避けたが、視界の端に男の持つ剣がうっすらと光を帯びているのを捉えた瞬間、直感的にまずいと思った。剣が地面に当たると同時に激しい爆発が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。俺はその衝撃に巻き込まれ世界が二転三転した後に地面に叩きつけられた。ついさっきフィラが使った攻撃と同じだ。
 霞む視界の中に、こちらへと歩いてくる男の姿が見える。地面に寝ていると思ったら、俺は壁に叩きつけられたままそこにもたれ掛かるようにして立っていた。そのまま前のめりに倒れそうになるのを、剣を杖がわりにして堪える。剣は持っていたものの状況は先程化け物に襲われたときと同じで俺に倒せる相手ではなく、絶体絶命だった。

「もう一人の自分に出会うと死ぬ、か。それが本当だとしても、死ぬのは俺じゃない」
 男は両手剣を振りかざして微笑む。再び周囲を霧が覆い始めた。まるで世界が男の殺しの舞台を作っているように、俺と男以外の物を視界から消していく。助けが来ることはない。フィラは…。

「フィラ」

 男の微笑が消えた。お前の口から何故その名前が出るのだ。そう言いたげに俺を睨み付けた。

「トール!?」
 霧の空間を切り裂くような声が響いた。白い靄の先から女が走り出てきた。それは紛れもない、フィラだった。フィラの片手には回復剤の入っているのであろう包み袋が、もう片方には長方形の不細工な剣を持っていた。フィラは困惑の表情で俺と男の間に視線を往復させていた。
「トール、これは?」
 彼女の問いかけはどちらに向けられたものなのだろうか。男は苦虫を噛み潰したような表情でフィラを見つめる。

「この男が急に、フィラ、助けてくれ!」
「フィラ!騙されるな、俺が本物だ!」

 本物?

 視界が真っ白になるような感覚だった。目の前に立つ対称の男。本物とはなんだ。男が本物だとするなら、俺は何者なのだ。
「違う!俺がトールだ、フィラ!」
 自分に言い聞かせるように叫ぶ。何で俺には記憶がない。自信を持って自分の名前を名乗ることができないことに激しい苛立ちを感じた。俺の記憶は。俺の記憶を!

「俺が本物だ。偽物はそいつだ、そいつが」


「そいつがドッペルゲンガーだ!」


 カラン、と杖にしていた剣が手からすり落ちる。だが倒れることはなかった。俺は、思い出した。俺が何者なのかを。
「フィラ、俺が本物だ。俺がトールだよ、フィラ」
 フィラの方を向きそう言う。心は穏やかだった。発せられる言葉は誰かから教えてもらったものじゃない、俺自身の言葉だと自覚していた。

「昔っからフィラには心配かけて、すまないな。ゲフェン出身だからってマジシャンになるのを俺が嫌がって、剣士になるために街を出たときからフィラはずっと俺と一緒に旅してくれたよな。ついてこなくていいってあの時は言ったけど、本当は嬉しかった」

「お前、何を!?」

「それからした旅はすごく楽しかった。剣士転職試験、プロンテラの街、フェイヨンの森。いつも俺が無茶なことをしてフィラが助けてくれてたよな。そのオーキッシュソードだって、俺がオークの親玉を倒そうって息巻いて挑んだくせにすぐ危なくなってさ、フィラが手助けしてくれたお陰で手に入れることができたんだよな」
 フィラは何かを考えるようにその不細工な剣、オーキッシュソードを強く握りしめる。俺は地面で横になっている両手剣、ツーハンドソードを持ち上げる。

「それをお前にあげた時だよな、この剣をお揃いで使っていこうって言い出したの。俺はそんなのペアルックみたいで嫌がってたけどな。あれも実は嬉しかったんだ。お互いパートナーなんだなって思って」

「トール?」
 フィラが震える声で名前を呼ぶ。その表情には困惑の色が深く、どうすればよいかわからない風だった。

「あれからずっと考えてたんだ。今まで俺と一緒に旅してくれた礼、そして俺の望むこと。俺の思いと一緒に渡す贈り物を」

「お前、何言ってるんだ」
 男が怒りに混じり声をあげる。

「俺がフィラに贈ったものなんてオーキッシュソードていう色気のない物だけだったもんな。ある日フィラからあの話を、ゲフェンの塔、地下洞窟にある大きな赤い宝石。すぐに決心したよ。それを手に入れよう、そしてそれを贈ろうと」
 驚くフィラと男を前に、俺は懐に手を入れる。
 そこからフィラに向けて差し出した手のひらには、この薄暗い中でも鮮烈な輝きを放つ赤い宝石があった。男の顔が醜く歪んだ。やめろと呟くが、俺はフィラに向けて最後の言葉を放つ。

 俺が伝えたかった言葉、俺の目的はこれで終わる。

「フィラ、愛してる。この宝石を指輪にして、俺と結婚してくれ」
 フィラの手元にあった包み袋がすり落ちた。中に入っていた回復剤は音を立てて割れる。大きく見開かれた目には涙が浮かんでいた。

「やめろ!偽物が何を言う!フィラ、俺がトールだ」
 男は必死にフィラに向かって叫ぶ。

「俺が本物だ、トールだ」

「フィラ!信じるな」

「フィラ、一緒に帰ろう。そしてこれからも一緒に」
 弾かれたようにフィラの身体が動いた。

 違う!俺が本物のトールなんだ!


 俺の元に駆け寄ってくる、まるで赤い宝石に導かれるように。


 俺の叫び声は彼女に届かない。フィラが遠ざかっていく。


 俺はフィラを迎え入れるように彼女を抱きしめた。




 目の前にある光景を信じられなかった。地面が崩れていくような絶望感。


 俺が、俺が本物だ!


 俺が本物だ。


 叫び続ける男。


 俺が本物だ。

 俺が

 俺が




 俺は彼女の首にそっと触れた。




 本物だ!

 偽物だ!

 俺が

 俺が

 俺は







 俺はドッペルゲンガーだ。


 鈍い、骨の折れる音が廃墟の中に響いた。






 呪われたルビーは地面へと解け、闇に覆われた。


−2−