積雨の中、傘を差して家路への帰途、金具をコンクリートに投げつけたような音が聞こえた。
それは降りしきる雨音で有耶無耶にできそうなものだったが、私はその音の正体が気になり、僅かながらの音の方向を予想して歩き出した。
雑踏が行き交う歩道を歩くことは苦手だ。セメントでできた地面は無機質さを感じる。
河沿いの土手道を歩くことが好きだ。土を踏む感触が心地よい。自分自身の体重を受け止めて形を変える様子は、生物というものをイメージさせる。
長雨のせいだろう、日常で見かける散歩やジョギングをする人の姿は見当たらない。私一人が雨の中を漫ろ歩いている。
音は響くような、くぐもった感じの音だった。どこかの屋内かもしれない。そう思った途端、私のちょっとした好奇心は萎縮する。音一つの正体のためにそれぞれの建物の中まで調べるほどの行動力はない。見つけられればいいや、と私は現在の進行方向を変えないまま歩を進める。
向こう岸に渡る橋を横切ろうとした時、ふと私は橋の下に目を向ける。私が歩いている土手から一段下に降りれば、河と隣接した道を歩くことができ、橋の下をくぐることもできる。その道はセメント作りなので普段は歩かないが、その時の私は橋の下が気になって方向を少し変えた。
もしかしたら、雨露を凌ぐためにいる誰かが、物でも落としたのだろうか。
そう思いながら、上から頭を下げて橋の下を覗いてみる。音の正体は知りたいが、誰かがいるところに遭遇してしまうと居心地が悪い。
人の姿はなかった。その代わりに何かわからないが、物が散乱しているのが視認できた。私は頭を上げて、下段の道に降りる階段に向かった。
下段の道に降りて私は眉をしかめた。上から見た時はわからなかったが、橋を潜った先の様子がおかしかった。私は後ろを振り返る。雨以外何もない。車通りもなく、今この世にいるのは私と雨という錯覚を感じさせられた。もう一度前に向き近づいてみると、道の先のイメージができた。
橋のトンネルから少し先の、再び雨が降り注ぐ地面には、赤い液体が斑点のように散っていた。雨により色は薄くなっていっているが、私がここに来る少し前に落ちたものだろう。そして、赤い液体の正体は、脇に落ちているもので容易に想像できた。
私はそれを、拾い上げた。ずっしりとした重い感触が、余計に今のシチュエーションが現実味を帯びる。初めて持つ、銃。
周りには何もなかった。バッグも靴も、死体も。
私は河へ身を乗り出し、底を覗き込もうとしたが、土混じりの濁った河水からは何もわからなかった。河の流れも早い。今も色を薄めていく地面の血液の主は、今頃どこまで流れていったのだろうか。
しばらく河の流れの行く先を見つめていたが、それが無為なことを知る。手に持った鉄の塊を眼前に上げた。
銃。武器。引き金を引けば鉛の弾が射出される。
打ち出された弾丸は恐ろしい速度でもって、進行方向の物体を突き抜ける。
殺人の道具。
総毛立つのがわかった。誰かが死んだ。私が持っているこの武器で。私がここにくるほんの1、2分の間に一つの命が消えたのだ。私は銃を放り落とそうとした。が、手放さない。
私は黒光りする鉄の塊を鞄にしまった。そして、その土手からすぐに離れることにした。
私は、武器を手に入れた。
梅雨時の
太陽が顔を出す暇もなく、薄暗い雲が覆う空はまだ続いている。
私はあの日からテレビのニュースや新聞を毎日眺めていたが、あの日のことが事件として取り上げられることはなかった。誰かが死んだかなんて、私の考えている予想でしかなく、元々あの場では何も起こっていないこともありえる。それはそれでよかった。見つかると必然的に死因を探ることになる。そうなると私が持っている銃の扱いが難しくなる可能性がある。
雨に押されて浮かんでこないことを願うばかりだ。
銃は部屋の奥深くに封印し、私はいつも通りの生活を送っていた。
私の通っている学校はこの地域では有力な進学校のようで、周りの生徒もみんな輝かしい将来に向けて取り組んでいるようである。私もその一員のようである。学校へ行き、勉強をする。学力を計るための模擬試験を受ける。日々はおおよそこのサイクルを繰り返して過ぎていっている。
そのような時間を過ごしている時、ふと脳裏を掠めるものがある。それは現状の自分と将来の自分を見据えるうえでの茫漠とした光景しか見えないことに対する不安、突き詰めれば不満が顔を出す。
授業は暗記の連続だ。覚えることは得意だった私は、同学年の生徒よりテストの成績は良かった。テストの成績で待遇は変わる。良いことには褒めるようだ。点数において他の人よりも優位に立っていることは良いこととなっている。
だが、良いことをしている一方で気分の晴れない自分がいる。隣の席では点数の悪さを自慢し合っている生徒がいる。どっちが低い点数か勝負し合っている生徒の顔は嬉しそうな感じだった。点数が良いことが嬉しくないわけではないが、その風景をみると、ほんの些細な、爪楊枝で突かれているような小さな感触だが、胸が痛んだ。
その違和感は、高校に入るとともに薄れていった。学校に通う人種は選別され、私と同じような人間がこの教室にいる。今までの光景を見なくなると、次第に忘れていくものだ。だが、あの頃の感覚を思い出すたびに、疑問の針が胸を突く。
他生徒は淡々と机に向かってペンを走らせている。ここには同類しかいない。
みんな孤独なのだろうか。
この銃は私にとって唯一の武器だ。弾丸に撃ち抜かれれば生き物は血を流すし、当たりどころによっては命をも失う。アクション映画で敵役がドミノのように倒れていく姿をイメージする。実際はあのようにあっさりと殺せるものではないだろうし、実際はあのようにあっさり死ぬのだろう。
雨足の強い日を選び、私はあの橋の下に行った。あの日と何も変わらない空間に私は座り、カバンの
中にしまっていたものを眺めていた。
私は自分自身の抱える鬱積した感情を放つ道具を手に入れたわけだが、果たしてこれを何に利用するか考えあぐねていた。ただ一つ、最初と最後の使用用途を決めているだけだ。
問題は誰を殺すか……。
私は両手で銃を持ち、対岸に銃口を向けた。銃の先には誰もいない。
最初の使用用途は、私を殺す。次にこの銃を撃つときは、誰かがこの世から消えるときだ。そのとき、私が今の私のままではきっと撃てないだろう。
ゲームが何度でもリセットが効くように、私も一度だけリセットする。
そのスイッチは……。
あの日と同じ、低く、鈍く、大きな音が響いた。
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