大名屋敷と坂の町 麻布を歩く

地下鉄日比谷線六本木駅から六本木通りを歩き、テレビ朝日通りへと左折します。300メートル足らずで右手にあるのが桜田神社。桜田神社からテレ朝通りを南へ行けば左手に専称寺がありますが、寺では檀家以外の墓地への立ち入りを拒んでいます。というのも墓地に新撰組の沖田総司の墓があるからで、規制をしなけれぱ女性を中心とした若者が墓前にあふれてしまうからです。専称寺でもそのへんには配慮していて、墓地の外からお参りできるように、墓の位置を示した案内を塀に掲げています。墓参者の気持と、檀家の戸惑いを図ったうえの現実的対応でしょう。
専称寺の先でテレ朝通りから左へ折れ、坂を下ります。下りきったあたりで右から坂道が合流、右へ行くと狐坂で左手が狸坂。どちらも人を化かすキツネやタヌキがいるとい言われてついた坂の名です。
狸坂を上りきると、そこは大黒坂と一本松坂と三つの坂の合流地点。、一本松坂の由来となった何本目かの一本松が立っています。大黒坂は坂の途中にある大法寺に大黒天を祭っているのが名称の由来で、坂下付近に賢宗寺の入口があります。賢宗寺は肥前佐賀藩の江戸における菩提寺。本堂裏の墓所には高さ、2〜3メートルの五輪塔が垣をめぐらせた中に林立し、壮観です。
賢宗寺の近くが麻布十番で、麻布の中心地。十番商店街は江戸時代に歴史をさかのぽる古い商業地で、今も活気ある通りになっています。パティオ十番はその一角にある小公園で高さ50センチほどの「きみちゃん」の像があります。野口雨情作の重謡「赤い靴」のモデルになった少女で、現在の十番稲荷神社付近にあった孤児院において九歳で亡くなっています。明治四十年九月のことだそうです。
十番商店街のそば店永坂更科の横に十番という地名の由来の碑があります。それによれば、延宝三年(1765)に行った古川の改修工事で、この付近が十番目の工区に当たったため、または元禄十一年(1698)に将軍綱吉の白金御殿建設のおり、このあたりから出した川さらいの労務者が十番目の組になったためとのことです。
パティオ十番から南へ道をたどると善福寺の参道入口に着きます。善福寺は麻布の中心ともいえる寺で、山号も麻布山。近代史上で重要なのは日本で最初のアメリカ公使館となったことです。安政五年(1858)六月に締拮された日米修好通商条約で下田にいたアメリカ総領事ハリスは公使となり、翌六年八月に善福寺に入居しました。奥書院と客殿を使っていましたが文久三年(1863)の水戸浪士による放火で焼失。その後は本堂や開山堂を居所や応接間に利用していました。墓地には福沢諭吉・妻阿錦の墓や作詞家の岩谷時子らが建てた越路吹雪の碑などがあるほか、国指定天然記念物の大イチョウが茂ります。推定樹齢七百五十年以上、幹回りが10.4メートルもの都内最大のイチョウです。
善福寺から仙台坂下へ出る仙台坂は坂の南側一帯が仙台藩伊達屋敷だったことから名がつきました。その跡地はいま大韓民国大使館となり、厳しい警戒態勢が敷かれています。
仙台坂下からマンションや小さな企業のビルなどの並ぶ通りを南下して曹渓寺へ。墓地に忠臣蔵四十七士の一人である寺坂吉右衛門の墓があります。「赤穂義士寺坂吉右衛門墓所通路」と書かれた案内石柱が立ち、それをたどれぼ墓前へ着きます。墓石は一メートル足らずの小さなもので、妻の墓石とともに並んでいます。
首都高速沿いの明治通りを広尾方面へ歩くと、途中に本堂の格天井に百三十五枚の草花の絵が措かれた明称寺があり、次いで広い境内の光林寺が現れます。門前の案内図で墓地にあるヒュースケンの墓と通訳伝吉の墓の位置を確認しておくといいでしょう。
ヒュースケンはオランダ生まれで、アメリカ総領事の通訳兼書記として来日。総領事、公使であったハリスの事務を助けましたが、万延元年(1861)に麻布中の橋付近で尊攘派浪士に斬殺されました。笠石をつけた墓石は十字架が刻まれた風格あるものです。
伝吉の墓はヒュースケンの墓の斜め前にあります。
光林寺から寺の右手の坂を上ると有栖川宮記念公園の角へ出ます。江戸時代は南部藩下屋敷が置かれ、明治になって有栖川宮家の所有となりました。園内には都立中央図書館があり、広場に立つ騎馬姿の銅像は有栖川宮熾仁親王。皇女和宮の許嫁であったが和宮は徳川家茂に嫁したため破談。のちに東征官軍大総督となって討幕のため東下しました。「宮さん宮さんお馬の前で」と歌われたあの宮さんです。
公園横の坂道は南部坂で、南部藩下屋敷が赤坂から移ってきたために、赤坂と同じ名前の坂がこちらにもできました。南部坂を下れぱ地下鉄日比谷線の広尾駅は近くです。

ワンポイントアドバイス 

麻布十番商店街 桜田通りの一の橋から暗闇坂下付近まで続く商店街。メインストリートのほか、横道や筋違いの通りまで面のような広がりを持つ。衣食住を含め生活全般に関する店が三百軒近くも並ぴ、その中には江戸時代から続く老舗もあります。
○永坂更科 甘皮を除いたそば粉で打つ、真っ白な御前そば七百七十円が名物のそば屋。永坂は麻布の地名。更科は初代の布屋太兵衛の故郷である長野県の更級地方の「更」と、領主保科兵部少輔の「科」をとった。創業は寛政年代の初め。
●豆源 初代の駿河屋源兵衛が慶応元年(1865)に麻布で大豆を売り歩いていたのが始まり。大豆・エンドウ豆・ソラマメなどに、抹茶、ウニ、ごま・塩昧などいろいろな味をつけ、豆一筋に商いを続けています。茹でただけの素朴な赤エンドウ豆一袋三百円。