徳川家ゆかりの伝通院と小石川を歩く
小石川台地と小日向台地との間の狭い谷が茗荷谷と呼ばれ、現在地下鉄丸の内線茗荷谷駅は掘り割りの中に造った地上駅です。江戸時代、この一帯に茗荷畑が広がっていたため、地名になったといわれます。茗荷谷駅を出て茗荷坂を下って行くと、左手に林泉寺。があります。この寺は慶長七年の創建で、石段を上ったところにビニール紐でグルグ巻きにされた「縛られ地蔵」が立っています。願かけの時に縄で縛り、願いが叶うと解くという民俗信仰として庶民に親しまれました。今は色とりどりのビ二ール紐で縛られ、現代風です。
林泉寺のすぐ先、坂を下りきった左側に深光寺があり、本堂前に江戸後期の戯作者で、長編『南総里見八犬伝』を著わした滝沢馬琴の墓(都史跡)があります。
寺を出て地下鉄の高架をくぐると、春日通りです。ここを渡り小石川植物園方面へ下る幅広い坂は、新レい都市計画で出現した環三大通りの一部にあたります。この坂道は初め無名でしたが、この一帯が松平播磨守屋敷跡であったことから播磨坂と名づけられました。昭和三十五年頃から地元民の協力で桜百三十本程を植え、今は見事な桜並木となっています。坂の途中から左折すると石川啄木終焉の地碑が立っています。啄木は本郷の喜之床から一家でこの借家に移りましたが、病身で生活に追われ、明治四十五年四月十三日、二十七歳の短い生涯を閉じました。
播磨坂を下って千川通りと交差します。ここを渡って、大雲寺と新福寺との間を進むと、小石川植物園の塀に突き当たります。ここを右折しますと、すぐに正門となります。入園券は事務所では売らず、門前の菓子パン屋で発売しています。ここは白山神社の跡地で、五代将軍綱吉が上野国館林藩主時代の白山御殿と呼ばれた下屋敷でしたが、のち八代将軍吉宗の時に御薬園となりました。ここは明治維新後は植物園となり、さらに明治十年東京大学理学部付属植物園になって、今日に至っています。、庭園奥には、明治九年に建てられた旧東京医学校本館が本郷から移築されています。千川通りをさらに進み、セイフーのあるビルを右折するとすずらん通りにつづき善光寺坂となります。ここから善光寺坂を上ると坂名となった善光寺があります。坂を上っていくと沢蔵司稲荷があります。元和六年伝通院中興の祖正誉廓山の開創で、太田道灌の持念仏と伝えられる沢蔵司一面観世音の勧進に始まると伝えられます。沢蔵司とは伝通院の寺僧で、わずか三年間で浄土宗の奥儀を極めたといいます。
沢蔵司稲荷から坂を上り、右側に幸田露伴旧宅を見て進むと伝通院となります。伝通院は、正式には無量山寿経寺といいます。慶長七年徳川家康の生母於大の方(水野氏)が七十五歳で亡くなったため、ここを菩提寺と定めて、法号の伝通院殿から「伝通院」と呼ぱれるようになり、徳川将軍家の崇敬が厚かったのです。表門を入ると、右手に仏足石や古泉千樫や水町京子の歌碑が立ち、墓地には於大の方、二代将軍秀忠の長女で数奇な運命をたどった千姫、三代将軍家光の御台所孝子など徳川家ゆかりの女性の墓があります。その他、幕末の尊譲派の公卿沢宣嘉、志士清河八郎夫妻、教育家杉浦重剛、歌人古泉千樫、詩人・作家の佐藤春夫、小説家柴田錬三郎、画家橋本明治らの墓もあります。
伝通院の表門を出てすぐ右手に福聚院があります。入口右手に立つトウガラシ地蔵は、咳止めに霊験あらたかと信仰されました。ここに祀られている大黒天像は、総高約五四センチの小像ながら簡潔な彫法により量感を表わし、鎌倉期の様式を示すものとして貴重です。
花のまつりいろいろ
文京区の主な観光行事のなかで、特に選ぷとすれぱ、二月から三月の湯島天神梅まつり。四月の播磨坂の桜並木で行われるさくらまつり。四月から五月にかけての根津神社のツツジまつり。六月の白山神社のアジサイまつリ。七月の伝通院での朝顔市と源覚寺のほおずき市。十一月の湯島天神の菊まつりなどがあり、それぞれの花期を楽しませてくれます。
林泉寺の縛られ地蔵 滝沢馬琴の墓 小石川植物園入り口

沢雑司稲荷 上野不忍池