徳川家ゆかりの護国寺周辺を歩く

護国寺の仁王門を背にして立つと、江戸橋に向かつて音羽通りという広い一直線の道が通じています。今はビルやマンションが、立ち並んでいますが五代将軍綱吉が護国寺に参詣するために整備された御成道でした。
音羽という町名は元禄のころ江戸城大奥に仕えた奥女中に家作が与えられたことから、それぞれの奥女中の名がつけられたといいます。
護国寺は将軍家綱の生母、桂昌院が建立した寺です。家綱は十六回も護国寺に参詣していますが、桂昌院没後の二度を除いて、いずれも桂昌院に伴っての参詣です。
本堂の右手には、明治政府の重職を占めた人々の墓が並んでいます。元来、護国寺は桂昌院および将軍家の折願寺であったため、歴代住職の墓以外には墓はありませんでした。明治の廃仏段釈で護国寺はすたれましたが、現在の寺域に隣接する権現山と呼ばれた所が明治天皇の皇子の墓所にされて豊島岡墓陵となると、墓所としての護国寺が注目されました。
宮家墓所に近いということで、まず三条実美が墓をつくると、明治の元勲たちが次々に墓をつくったのです。本堂の真横には田中光顕が眠り、その隣の水屋を設けた広大な墓域には大隈重信の墓があります。そして本堂の裏手には三条実美、山田顕義の墓が並びます。
さらに本堂裏手の墓地中央には、山県有朋の雄壮な墓が建っています。このほか安田善次郎・大倉喜ハ郎・団琢磨・下田歌子など著名人の墓も多く、迷わずにお参りするには本坊の受付で墓地略図をもらって巡るとよいでしょう。
護国寺から豊島岡墓陵にそって行くと、手焼きせんべい店があり、その手前の迷路を入ってしばらく行くと、吹上稲荷神社があります。そこから少し進むと、大塚先儒墓所があります。墓所に入るには、稲荷神社の社務所から鍵をかりて、門扉を開けなけれぱなりません。ここは江戸中期以降の高名な儒学者の墓地ですが、明治になると荒廃して儒者捨て場とさえいわれました。明治から大正にかけて墓地保存会が組織されて、今日のような墓地となりました。ゆるい傾斜面に広がる墓地は、儒葬といわれる戎名を拒否した独特な葬送形式をとっています。岡田寒泉、古賀精里、尾藤二州、柴野栗山、木下順庵、室鳩巣など、六十三人の墓があります。大塚先儒墓所には、他の寺院墓地とはちがう雰囲気都がただよっています。          

                
         御成道(音羽通り)              大隈重信の墓                 護国寺内

            
             吹上稲荷神社                               大塚先儒墓所