鬼子母神と雑司ヶ谷を歩く

 JR山手線池袋駅東口から正面のグリーン大通リを300メートル程歩いて、右に入った一角に南池袋公園があります。この公園の南側にはいくつかの寺院が並んでいますが、東側にあるのが本立寺です。この寺だけが明冶以前から当地にあり、元文二年(1737)に日永の開山です。この寺は、徳川譜代大名榊原家代々の奥方の墓碑があり、榊原高尾の名で知られる高尾太夫もその中に含まれています。
                 
本堂前に神木隊戊辰戦死の碑が立っています。この碑は越後高田藩士八十四人が上野戦争の時、神木隊を結成し彰義隊を援けて奮闘し、二十六人の戦死者を出しました。その隊士の死を悼んで、大正十一年に建てられたものです。超高層ビルが大通りの北側に聳え立つのがサンシャインシティ60で、この一帯は巣鴨監獄の跡地です。 首都高速五号池袋線の高架をくぐり、地下鉄有楽町線東池袋駅の南側に本教寺があります。山門の脇に江戸中期の俳人服部嵐雪の墓(都旧跡)があります。嵐雪は蕉門十哲の一人です。また、江戸後期の浮世絵師で歌川豊春の墓もあります。都電荒川線の踏切を渡り、雑司が谷霊
園に沿って進むと、右側に宝城寺と清立院が並んで建っている。宝城寺は雨乞いのご利益で知られる寺です。清立院は雨乞いと皮膚病に御利益がある寺として知られ、『江戸名所図会』の挿画には寺の門前に「請雨松」と記された松の木が描かれている。今は道路になってしまった弦巻川沿いを歩き、都電荒川線の踏切を渡れば大鳥神社があります。 

 大鳥神社を出ると、本納寺の裏側で、半周すると正面になります。門を入ると月花塚と呼ぱれる石碑があり、碑面に刻まれた狂歌二首は信仁亭月和孝と花信亭命鏡起の作で、太田蜀山人の筆です。墓地に劇作家、童話作家として活躍した秋田雨雀の墓があります。
 本納寺から西へ進むと、子育て・安産の神として知られる鬼子母神があります。途中、左手に樹齢四百年を越す巨木のケヤキ並木があり、境内の大銀杏とともに都の天然記念物に指定されています。 鬼子母神の興りについて、略縁起では永禄四年(1561)五月六日、ある者が清土の畑を耕していると、鍬の先に光るものがあるので取り上げて見ると仏像に似ていたので、持ち掃って東陽坊(今は廃寺である)五世日性に見せたところ、鬼子母神の像と判り同寺に納めました。その後、日性に仕えていた安房の国の僧がひそかに郷里に持ち帰ったところ、日ならずしてその僧が発狂したので、里人たちは驚いてただちに東陽坊に仏像を返納した。このことが四方に伝わって、参詣人が日に日に多くなり、堂宇の建立が計画された。古くからあった武芳稲荷の森を切り開いて、堂宇を建て、その仏像を安置したのが鬼子母神の始まりです。子授け・安産のご利益があるとして、江戸の人々に評判が高くなり、門前市をなす賑わいとなった。鬼子母神堂は都の有形文化財で、本堂は寛文六年(1666)の建造、また拝殿・相の問は擬宝珠の銘から宝永四年(1707)の建立とみられます。堂内に奉納されている絵馬のうち、鳥山石燕筆の「大森彦七図」と二代目鳥居清満筆の「三人静白拍子図」は都の有形文化財に指定されています。また、赤い鳥居の奥に鎮座する武芳稲荷は鬼子母神より古い地主神を祀った古社。境内の駄菓子屋で売られている「すすきみみずく」はススキの穂でつくられた江戸以来の郷土玩具です。
 鬼子母神の本堂前から境内を出て、民家の間から東京音楽大学の横を進むと、法明寺があります。『江戸名所図会』には「子院八宇あり、もっとも古刹にして、閑寂たる寺院なリ」と記される大寺でした。墓地には平安時代から鎌倉時代にかけての豪族豊島氏一族の末裔の墓、楠木正成の息女の墓という姫塚、甲州流軍学の中興の祖といわれる小幡勘兵衛の墓、また明治時代の落語家で名人と謳われた橘家円喬の墓などがあります。

ワンポイントアドバイス 
雑司ヶ谷旧宣教師館 

雑司が谷霊園内の銀杏並木を抜けたところに雑司が谷児童館があリ、その横の道を入った静かな住宅街に旧宣教師館が建っています。明治四十年、アメリカ人宣教師ジョン・ムーディ・マッケーレブが自らの居宅、として建てたもので、区内最古の木造洋風建築として平成十一年三月三日、都指定の有形文化財となりました。木造総二階建てで、明治時代の典型的な宣教師館です。
 開館時間…午前九時より午後四時半
 休館日 毎週月曜日と第三日曜日