早稲田と神楽坂界隈

地下鉄東西線早稲田駅を起点に南に伸ぴる夏目坂通り。坂の名前は壮大な敷地を持つ名主夏目直克の屋敷が広がっていたという夏目家にちなんだものです。通りに入ってすぐ左手に、みごとな三角錐の「夏目漱石生誕の地」碑が立っています。
明治三十八年に『吾輩は猫である』を発表し、文壇の俊秀として華やかに登場する漱石は、その直克の未子「金之助」として慶応三年(1867)に生まれました。彼は松山や熊本などに勤務し、英国留学など幾多の地に住まいますが、後述する終焉の地がほど近くにあることで、漱石がこの地をこよをく愛していたことが分かります。明治の文壇といえば、周辺は漱石に限らず多くの文学者が集ったエリア。その端緒となったのが、古希を記念し、早稲田大字構内にその業績の数々を展示する演劇博物館が開設された早大教授坪内逍遙の存在です。逍遙は明治十八年に小説「当世書生気質』を発表し、後には劇作家として活躍。さらに大学文芸誌を代表する「早稲田文学」を創始したことが、この周辺に文学者が多く集まったゆえんでしょう。
再び地下鉄駅前に戻り、ここから南東へ牛込第二中学校や早稲田小学校のある小さな通リを行きます。道の左には閑静な住宅街。やがてあるのが漱石公園。ここが漱石終焉の地です。
近くにある宗参寺も立ち寄ってみたい所です。時代は異なりますが、この寺院は現在の神楽坂通りの最高地点近くに城を構え、室町時代から戦国期に牛込から日比谷にかけての一帯を治めていた豪族牛込氏の菩提寺。牛込氏は北条氏の減亡後、徳川の家臣となりますが、寺は戦国時代の領主重行の子勝行が父の法名を取って、建立したものです。ここには山鹿素行の墓もあります。
ここから外苑東通りを隔てて、境内こそ狭いものの古刹が並びます。まずは竹を植え込むなど庭の手入れが行き届いた浄輪寺。ここは江戸初期の人で、江戸時代を代表する数学者関孝和が眠る寺として知られます。墓は墓域の最も奥まったところにあり、新旧の墓石が並んでいますが、左手に立つ旧墓は舟形をしています。
浄輪寺のすぐ近くにあるのが多聞院。明治の女優松井須磨子の菩提寺です。本堂の横手にある墓域中央に、芸名の須磨子と本名の小林正子の名が併記された墓石が立っています。須磐子は愛人の島村抱月が流行性感冒により死去したことのショックを受け後追い自殺したのですが、二人の居宅跡はここからは遠くありません。
その場所へ行く迄に済松寺があります。正保三年に三代将軍徳川家光が建立したもので、かつては現在の境内から東側一帯にかけて広大な寺域を誇っていた名剃です。
さて、早稲田通りを地下鉄神楽坂駅迄歩き、右折した牛込中央通りを途中で左に折れた住宅街の道をしぱらく行くと、前述の松井須磨子と島村抱月の居宅跡に出ます。ただし、居宅跡はシルバー人材センター牛込分室の斜め向かいの露地の入り口に案内板が立つだけです。
このほかにも尾崎紅葉、窪田空穂、小川未明、葛西善蔵、菊地寛、井伏鱒二ら多くの文学者の居住が記録されている早稲田から神
楽坂までの一帯は、まさに明治から大正にかけての、近代文学黎明の地のひとつでしょう。
この先で繁華な神楽坂通りにぶつかりますが、その手前は横寺町。町名のとおり、境内は狭いけれど長源寺、圓福寺、龍門禅寺、正蔵院といった寺院が次々と現れ、趣のある町歩きを楽しむことができます。
さて神楽坂に出ると、この通りや周辺にも見どこがあります。まず右へ坂を上ります。坂上にある善国寺の裏手には、広壮な境内を誇る光照寺を中心にこの一帯は、前述の宗参寺に墓所を残す牛込氏の居城跡です。境内南側の住宅街に入ると、琴の名曲『春の海』で知られる盲目の作曲家宮城道雄を記念した資料館の宮城道雄記念館があります。

                      
         夏目漱石生誕の地碑                    松井須磨子墓                          山鹿素行の墓