谷中の寺町を歩く

谷中の寺町を訪ねる玄関口は、JRなら山手線の日暮里駅、鶯谷駅、地下鉄なら千代田線の根津駅、西日暮里駅などといくつもありますが、今回はJR日暮里駅からスタートすることにします。
しかし、谷中・日暮里といっても、いつごろからこの地名になったのかは、よくわかりません。永禄年間(1558〜70)の「小田原衆所領役帖」には「屋中」の字で記されていますが、江戸時代初期になると上野と駒込の間にある谷ということから「谷中」の字が当てられるようになりました。
日暮里ももとは「新堀」であったが、高台にあって眺めがよく日暮れまで眺めても飽きないので「日暮らしの里」と呼ぱれ、いつの間にか「日暮里」と書くようになったということです。
まずは日暮里駅を東口に出ると、前のロータリーに、弓を頭上高く掲げた馬上姿の太田道灌像があります。道灌像の前から右へ、線路と並行する通りをおよそ五分ほど行くと、左側に善性寺があります。徳川家ゆかりの寺です。墓地には経済評論家で蔵相・通産相・首相を歴任した石橋湛山、第三十五代横綱の双葉山定次が眠ります。
寺の真向かいにあるのが羽二重団子。根岸に住んでいた正岡子規もたびたぴ訪れ、店の脇に「芋坂も団子も月のゆかりかな」の句碑があります。また、慶応四年の上野戦争の折には、善性寺に詰めていた彰義隊士らが逃げ込んで来て、刀や銃を店の縁の下に隠し、野良着姿に変装して、落ち延ぴていったとか。その時に隊士らが残した刀剣や武具が店内に展示されています。
道灌像の所に戻り、跨線橋を渡って西口へ。駅の前は広くゆったりした坂で、これが御殿坂。坂の途中、右側にまず見えてくる大きい寺が本行寺。大永六年、太田道灌の嫡孫大和守資高が江戸城内に建立し、現在地に移されたといわれます。俳人小林一茶は、この寺からの眺めを愛でて江戸へ来た折の定宿にし、その度に句会を開いて多くの俳人らと交遊しました。境内には、「陽炎や道灌どのの物見塚」の旬碑が立っています。流浪の俳人といわれる種田山頭火が昭和初期に訪れて詠んだ「ほっと月がある東京に来ている」の句碑もあります。墓地には映画評論家荻昌弘の墓があります。
本行寺を出て、道灌だんごを並べた甘味処、手焼せんぺいの店などを覗きながら少し上ると経王寺。
上野戦争の折に彰義隊士を匿って官軍の攻撃を受けたので、今も山門に弾痕がいくつも見られます。
道を挟んで隣にあるのか延命院。開基は四代将軍家綱の乳母三沢局。浄瑠璃や歌舞伎で知られる八百屋お七は、母親がこの明神に祈願して産んだのでお七と名付けられたと伝わっています。
本堂脇に隠れるように立つ墓が、延命院事件を起こした行硯院日潤聖人のもの。十一代将軍家斉の頃、当寺の住職日潤が祈祷と称して江戸城の奥女中らと密通していたことが発覚し、死罪になったのです。
延命院の前にある坂が、七面大明神にちなんで命名された七面坂。この坂を下ると長明寺があります。
長命寺の門を入ったすぐ右手に、人力車を発明した和泉要助の碑が立っています。
少し先へ行った右側に宗林寺。家康の茶の師匠斎藤宗林が開いたのでこの名がありますが、萩が見事だったので萩寺とも呼ぱれました。
ここから目と鼻のところにあるのが岡倉天心記念公園。天心の旧居跡であり、彼の設立した日本美術院の跡でもあります。
公園を後にして谷中コミュニティセンターやスポーツプラザの横を過ぎると、右側に大円寺。この寺の本堂の形が変わっています。二つの本殿が繋がって一つ屋根の下にできているのです。右が薬王殿で笠森稲荷を祀り、左には経王殿でお祖師様が祀ってあります。この寺には永井荷風による「笠森阿仙の碑」と笹川臨風による「錦絵開祖鈴木春信」の碑が立っています。お仙は笠森稲荷社前の茶屋の娘で実在の人物。江戸三美人の一人といわれて絵や戯作、、和歌、川柳などにうたわれ、手拭いに染められるなどたいそう人気がありました。そのお仙の麗姿を世に知らせたのが鈴木春信で、当時まったく新しい絵画様式だった多色刷り版画「錦絵」に描いたので江戸中の評判になったといいます。
大円寺を出て三崎坂を上ると長久寺、福相寺とお寺が続き、その先に全生庵があります。ここは鉄舟寺の別名もあるように、山岡鉄舟が明治十三年、上野戦争の犠牲者を弔うために開きました。
明冶三十一年、五十三歳で死去。本堂裏に大きな墓があります。その近くには、怪談話で有名な落語家、三遊亭円朝の墓があります。鉄舟に勧められて禅の修行をし、鉄舟に心酔していた円朝の切なる願いがあったからだといわれています。
坂を挟んだ向かい側が天龍院。江戸時代後期の蘭方医伊東玄朴の墓があります。玄朴はシーボルトに師事して蘭医法を学ぴ、江戸本所で開業、安政五年神田に私設種痘所を設けました。この種痘所は繁盛し、万延元年幕府直轄となり、その後明治新政府に引継がれ、現在の東京大学医学部へと発展しました。
 さらに上ると永久寺。爪先上がりになっているこの辺りは山門が軒を連ねており、しっとりした雰囲気のところです。墓地には明治時代の戯作者・新聞記者として活躍した仮名垣魯文の墓。
坂を上りきって左へ曲がると右に功徳林寺があって、もう少し行くと古い築地塀が続きます。この裏手の観音寺の塀で、二百年を経ているとか。観音寺は落ち着いた雰囲気の寺です。墓地には落語家の先代桂三木助の墓もあります。
築地塀の所の四つ角を左へ行くと、谷中墓地のメインストリートである染井吉野桜の並木道になります。墓地のほぽ真ん中に駐在所があり、その裏の小公園に感応寺の谷中五重塔の跡が残っている。その塔は上野戦争や大震災、戦事中の空襲にも耐えていたが、昭和三十二年に放火心中の道づれとなって炎上し、現在は礎石が残るのみです。
五重塔跡から桜並木の道をまっすぐ行った突き当たりが天王寺。この寺はひとつだけ離れてあるので行きそぴれがちですが、本来は谷中を代表する由緒ある寺。創立は鎌倉時代で当時は長耀山感応寺尊重院といい、寺域三万五千坪、憎坊二十六を持つ大寺でした。
先ほどの桜並木を戻って言問通りに出ると角に元酒屋の吉田屋本店があります。不忍池のほとりにある下町風俗資料館の付属施設で、千本格子がはまった木造二階の建物。明治時代の建築で、江戸時代の商家の建築様式を伝えています。ここから言問通りを上野方向へ歩くと浄名院。青銅の大地蔵が鎮座し、境内の隅から隅まで石地蔵が並ぶことから「地蔵寺」と呼ばれている寺です。石地蔵の数はおよそ二万体。この寺から200メートル離れた寛永寺霊園の飛地には、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜の墓があります。
 浄名院を出て、言問通りを引き返し、善光寺坂を下ると右側に大きな玉林寺。創建は家康江戸入城の翌年。三代将軍家光が深く帰依し、表門に掲げる「望湖山禅林」の額は家光が書いたといわれています。墓地には曾我十郎・五郎の父で、工藤祐経に殺された河津祐泰の墓があります。
近くには三浦坂という急坂があって、その右側が臨江寺の石塀。ここの墓地には江戸後期の尊皇論者蒲生君平や、『あらくれ』『縮図』などの小説を残した自由主義の作家徳田秋声も眠っています。
三浦坂を上り、宗善寺前の三叉路を左に入ると石塀に矢印の標識があって、その奥に木立に囲まれた大名時計博物館があります。ここには各種和時計、明治期の舶来時計など約二百点が収蔵・展示されています。
三浦坂に戻って三叉路を右折し一本目の道を入ると、昔は瑞輪寺門前町だった所で、久成院、正行院などいくつかの寺があり、突き当たりが瑞輪寺。谷中で最も大きい寺で、古い門の奥に見える本堂の急勾配の屋根が見事です。墓地に眠る人では神田上水を造りあげた大久保主水、明冶憲法や教育勅語の草案を書き、文部大臣も務めた井上毅、赤穂義士討入りの際、吉良邸を守って、討死した清水一角などが有名。
瑞輪寺を出て左へ真っすぐ行くと三崎坂にぶつかります。この坂を今度は下っていくと左側にナマコ壁風の塀を巡らせた谷中小字校。この前を過ぎると銭湯の朝日湯。朝日湯の先の交差点を右へ曲がると、「よみせ通り」と呼ぶ商店街。しばらく歩くと右側に大きなゲートがあって、「ポエムナード谷中ぎんざ」の看板が掲げてあります。その通リには小さな店がぎっしり並びどの店も路上に溢れるほど、ごちゃごちゃと商品を並べています。まさに下町の商店街といった姿です。ここから日暮里駅は近くです。

ワンポイントアドバイス
東京唯一の江戸紙工芸の店「いせ辰」は看板に浮世絵が描かれ、店先の華やかな千代紙が目に飛び込んでくるからすぐわかります。店内に並ぷ千代紙はおよそ六百種類。江戸千代紙の伝統を守り、今も彫り師が色ごとに彫った木版を使い、摺り師が一版一色ずつ丹念に摺り重ねていく手摺千代紙を作り続けています。着物姿より色数を多く使う千代紙は昔は紙人形などを作るのに用いましたが、現在はコレクションとして集める人が多い。


              
          一茶の句碑                 山岡鉄舟の墓                   羽二重団子