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鈴木 三木三郎
常陸の国志筑藩出身 (今の茨城県新治郡千代田町中志筑) 天保8年常志筑藩郷目付鈴木専衛門次男として7月12日に出生。 兄は伊東甲子太郎(鈴木大蔵)。
名前 幼名不明。鈴木多聞。御陵衛士の頃は、兄が摂津と称し、自分は
三木和泉になる 維新後は鈴木三樹三郎と称する。 神道無念流。しかし兄伊東甲子太郎には及ばなかったらしい。 教養 漢籍が良くできた。
父の閉門蟄居後、家名断絶、志筑藩追放となる。その後父の祖母の実家桜村(現・八郷町)桜井四郎左ヱ門方に身を寄
せる。
その後罪は許されるが領内に戻ることはできなかったので一家は高浜村東大橋(現・石岡市)に移り
廃寺である三井寺で漢学塾『俊塾』を開いた。
父の人望や評判を聞きつけ沢山の塾生が集まり暮し向きは良かったようである。 嘉永5年2月、父の死。兄大蔵はそのときすでに江戸で伊東道場の門弟となっていたために弟、多門が塾を継いだ。 しかし、まだ子供の多門は勉強は早めに終わらせて、「男は武芸に励むべきだ」と「楠多門丸」などと書いた旗を持って 毎日子弟たちと戦争ごっこなどをしていたという。それを知った親たちが不満に思い、
子弟たちを退塾させるようになり、塾は次第に寂れた。
その後、志筑藩の寺内増右衛門が多門を養子にしたいと申し出る。寺内は80歳になるが妻子もいなかった、
老母ひとり抱えている状況であった。寺内家の屋敷が旧鈴木家の跡地にあり、母の願いもあったので承諾する。
養子に入ると、山林取締役兼御朱印番に任命される。
しかし、酒好きな多門は寺内家に慣れるにつれて酒量がどんどん増し、仕事をさぼるようになる。 叱っても一向に言うことを聞かないのでとうとう離縁となってしまう。
離縁後、三木荒次郎と改名し、お役だけはそのまま勤めさせてもらうことになる。
しかし、素行が直らずあいも変わらず朝まで酒を飲み藩務をまたさぼるようになったため、お役御免となってしまう。 藩主は、お役御免になったものの三木の資質を惜しみ、他国行きを禁止し金子を少し賜る。 意を決して江戸の兄のもとへ出て国事に奔走。天下の志士と交わるようになる。 しかし時勢は、ペリーが来航し、安政の大獄や、その後桜田門外・坂下門外の変が次々と起こり、
三木と交流のある志士も下手人の嫌疑をかけられる。
身の危険を感じた三木は友人の進めで江戸を離れる。 仙台の桜田氏をたずねるため、常陸の多賀郡田村までやってきたところで、知らせがあり「奥州へ行くと危ないとのこと なのでこの地の侠客・宇野孫六のところへ行き、宇野蔵造のところへ身を寄せる。 三木荒次郎は宇野蔵造のもとで学問や剣術などを数年間、教える。 ある日、母の元に帰ってみると母は早く江戸へ出て兄と一緒に国事につとめなさい、と言うので江戸へ戻る。 元治元年 (数え年28歳) 久留米藩浪人古松簡二の忠告に従い兄甲子太郎が天狗党の助勢軍への参加を断念する。 しかしちょうど筑波山から志筑が近いため心配し、天狗党による混乱を危惧した大蔵は都合がつかないので 弟、荒次郎に志筑を見てくるように頼む。 三木、土浦に入り、旅館で昼食を取っていたところ、天狗党(田中隊?)が居合わせたが、接触することなく志筑へ入る。 志筑へ入り、叔父の川俣氏を通して、藩の危機の為に江戸より来た旨を藩に申し出る。
警備の一員としてに加えられ、住宅を賜る。数人で藩中警備をし巡視したり中門詰所で通行人を改めるなどの
仕事をする。しかし、天狗党の「押し入りや放火などの被害はまぬがれた。 天狗党の被害が及ばないので、これ以上長居する必要がないので江戸へ戻る。 三木が江戸へ戻ってきたころ、兄、伊東大蔵は新選組藤堂平助より入隊の勧誘を受ける。 元治元年、兄や伊東道場の門弟ともに新選組に入隊。
この時兄弟とも改名している兄は甲子太郎、弟は三木三郎。
新選組入隊御鈴木三木三郎は九番隊長、監察をつとめた。
薩摩藩がバックに付、禁裏御陵衛士となる。
11月18日の兄の暗殺後は薩摩の藩邸に身を寄せながら近藤の暗殺を狙っていたいた。
12月9日には京都の墨染で近藤道を襲撃するが右肩に負傷させるだけに終わる。
鳥羽伏見戦争に参画し後に赤報隊二番隊長として挙兵した。
新選組に復讐をと奔走していたが果たせぬまま維新を迎え、
明治になり警察官となり、鶴岡警察署長時代は私財を病院建設に投じた。
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