藤田 東湖(ふじたとうこ)
文化三年〜安政二年(1806-1855)

水戸学の基礎を築いた理論家・藤田幽谷(ふじた・ゆうこく:生没年1774-1826年)の子。藤田幽谷の次男に生まれる。
父,幽谷は古着屋に生まれ、彰考館で大日本史の編纂に携わり、ついには士分に取り立てられ大抜擢
された男である。
のち、斉昭が水戸藩藩主になると東湖は片腕となり、藩政改革を推し進める。
ペリー来航時には斉昭とともに幕府海防を担った。彼の尊王攘夷論は、西郷隆盛、橋本佐内、横井小楠、吉田松陰
などの留まらず多くのそうそうたる志士たち大きな影響を与えている。父の薫陶を受けて育ち、第9代水戸藩主徳川斉昭
に重用され、水戸学の実践行動家として生きた。
 青年期に彰考館に勤め、やがて彰考館総裁となる。そののち郡奉行、江戸通事、側用人
といった重職を勤め、斉昭が幕府海防参与とそれを補佐すろのである。
東湖は、斉昭の藩主相続で活躍して以来、常に斉昭の側近としてその藩政改革を助けるのであった。
そのため斉昭が幕府より処分を受け失脚すると、同様に処分を受け、斉昭が復権すると東湖も復権している。
 東湖はまた実務だけでなく、他藩士との交流を通して尊皇攘夷思想を広め、水戸藩の存在を広く印象づけた人物でもある。

水戸学の中心となった藩校弘道館と多くの役割を持った郷校

『弘道館記述義』を執筆
 藩校弘道館の開校理念を記した『弘道館記』の解説書『弘道館記述義』を著しているが、
同書は会沢正志斎の『新論』とともに水戸学の理念を説いたものとして知られている。
 江戸を襲った安政大地震(1855年)で落下物を受けて死去。尊攘の血脈は四男の藤田小四郎(こしろう)に引
き継がれ小四郎は小川郷校を拠点として尊王攘夷の活動をするのである。。1864年、小四郎は筑波山で挙兵し「天狗党の乱」を起こしている。 
 
尊皇攘夷と水戸学
 水戸学の思想は尊王攘夷という言葉で表される。水戸学と水戸藩はこの思想の魁(さきがけ)となったため、明治維新
の魁ともいわれる。
「尊王攘夷」はやがて西国雄藩の志士たちにより「尊王倒幕」へと変わるが、そもそもの水戸学の尊王攘夷思想は「尊
王敬幕」であった。水戸藩はあくまでも徳川御三家の一つとして天皇を頂点とした幕府・藩の体制を国の基礎として、そ
の体制を維持しようと考えていたのである。 
 また、攘夷がいつの間にか影を潜め開国へと移るなかで、水戸藩は攘夷にこだわりつづけてもいた。最も時代の先
端にあった水戸藩の尊王攘夷思想は、他藩の思惑に対応しきれず、加えて藩内での抗争で人材を失ったことがひび
き、明治維新において大きな力をふるうことができなくなっていった。 
しかし晩年の斉昭公は攘夷よりも開明に動いてくようである


安政二年(1855)十月二日夜、マグニチュード6.3の大地震が江戸を襲った。家屋倒壊1万1346件、死者4741人。この
「安政の大地震」により江戸小石川の水戸藩邸(今の後楽園)で東湖は母を救う為に圧死した。享年50歳。

『回天詩史』や『正気歌』などはその代表作




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