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大場家住宅
指定年月日 平成元年4月6日
所在地 行方郡玉造町甲4533 管理者 大場 正二 製作時期 江戸時代初期
玉造近郷の村々を統括し、藩有林御立山を管理する「大山守」職を世襲した大場家は、光圀が巡見の時に宿
泊所としたと言われる。水戸藩に持山を献納した際、光圀から大場家に因んだ地名の改称を受けたり、別に愛 用品を下賜された。水戸御留川の川守、霞ヶ浦48津の北津頭などを兼務していたという。 光圀宿泊の口伝のある大山守大場家。
この住宅は、水戸徳川初代藩主徳川頼房が領内巡視のおり、宿舎兼水戸藩南部の藩政事務所として、寛永
年間に建てられたものされ、武家屋敷造りで御殿ともよばれた。 建築様式は、主屋が萱葺寄棟造りで、役宅部・居室部・相の間の3棟からなる。長屋門は、藩主が御成の時 と元日以外は開けないことから「あかずの門」といわれている。通用門は、萱葺切妻造りの薬医門形式であ る。 居宅・長屋門・薬医門が県指定有形文化財に指定されている。 第9代水戸藩主徳川斉昭は、第2代の光圀同様玉造地区と深い関わりを持っている。就藩の際には玉造地区 に訪れ、湖上での軍事演習をするとともに、大場家に宿を取り和歌を詠んでいる。 『安政の大獄』の犠牲者頼三樹三郎は、柴田勝家の末裔の営む塾庵『霞浦軒』を宿に玉造地方の若者たちと 語った。松下村塾の吉田松陰もまた水戸への旅すがら玉造を訪れ、日記に芹沢村の郷稗蔵を書き記した。
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