玉造城跡 


玉造城(玉造町玉造)
【所 在 地】茨城県行方郡玉造町玉造
【交通機関】国道354号線の霞ヶ浦大橋を渡りベイシアを通過後コンビニエンスストア、スパーを左折、
  宮本歯科、稲荷屋旅館の信号を右折大山守大場家住宅裏山一帯が城跡。        
       玉造町駅下車後駅前のガソリンスタンドを左折し正面に見える小高い山一帯が城跡 
【築城年代】鎌倉時代
【築城様式】平山城
【主要城主】玉造氏
【主な遺構】本丸跡・二の丸跡・三の丸跡・帯曲輪跡・出丸跡・土塁跡・空堀跡・堀切跡・櫓台跡
 
玉造城は大掾氏から別れた行方氏の四支族の一つ、玉造氏の居城である。玉造氏は、上杉禅秀の乱では鎌
倉側につき、上杉側の島崎氏と争ったりしている。最終的にはこの地域のほとんどの豪族同様、佐竹氏に誘殺
され、城は落城、滅亡した。城址は鹿島鉄道の玉造駅の東側の台地あたり城跡の東側の部分はクランク状に
直角に曲がっているが、これはかつての城下町の道の名残なのであろうか。またお堀の名残らしきところも若
干見うけられる。
クランクの辺りから小道を入って比高15mほどの台地上に上がると、その上に土手があり、何郭かに分かれ
ている。主郭部の城塁らしきものも見られる。。三郭ほどがあったようだが、台地の上に台地が乗っかっている
ような構造で、2段構えの防御が考えられていたのであろう。この位置から左手の方に進むと、主郭部の入口
があり、そこに「玉造城跡」の看板がある。主郭部は一部畑になっているが、大半は藪の中である。
主郭部の南側には二郭が、更にその先に三郭がある。各郭は、堀切で区分されていると言うより、それぞれ独
立した小台地状になっているのがこの城の特徴である。
この城の西方には洞窟があり第2次大戦中は防空壕として使用されたが古来は城からの抜け道として造られ
たトンネルとの言い伝えがある。

【案  内】
 玉造城は常陸大掾多気繁幹の二男である清幹が吉田郷(水戸市)に住んで吉田氏を名乗り、この清幹の二
男である吉田忠幹が行方郡に移り住み行方平四郎と名乗って行方城を築城、この忠幹の子の景幹の嫡男為
幹が行方(行方城)、次男高幹が島崎(島崎城)、三男家幹が麻生(麻生城)、四男幹政が玉造(玉造城)に分
かれてそれぞれ移り住みました。幹政は玉造城を築城し玉造四郎幹政と名乗り玉造氏の祖となります。玉造氏
は後に行方郡内の手賀氏・石神氏・白井氏・鳥名木氏などの庶流も生む事になります。幹政からは宗政、景
政、頼政、幹連、憲幹、宗幹、重幹と玉造氏が続きましたが、この間の歴史は殆ど残されていないそうではっき
りと分からないそうですが延慶二年(1309)に頼幹が鹿島社総検校(社寺の事務の総轄役)から大使役を勤め
たり、応永14年(1407)の佐竹義盛の世継ぎ問題、応永23年の禅秀の乱、続いて永享の乱と言う感じで玉造氏
の活躍は見られるようです。戦国期に入っても玉造氏は佐竹氏の傘下で常に活躍し、府中大掾氏の侵攻にも
戦いを挑むなどの歴史がありましたが、そんな玉造氏も平家の流れをくむ「南方三十三館」の領主と言う事で、
天正19年の佐竹義宣による「南方三十三館領主を梅見の宴と騙しての謀殺する事件」により玉造重幹も常陸
太田城にて殺害されました。これにより玉造氏は滅亡しました。

玉造城本丸土塁と堀の跡                           玉造城/二の丸曲輪跡
 現在の玉造城ですが主として5つの曲輪から成り立っております。まず南西の台地の先端に物見台があった
らしい出丸があります。この出丸から北東に堀を隔てて本丸と呼ばれる曲輪があります。その本丸と呼ばれる
曲輪(玉造城の看板がある曲輪)の北東に二の丸、更に北東に三の丸が続きます。また本丸と二の丸の間の
堀の北側に帯曲輪があり、城の南東部には根古屋が連なります。

本丸虎口土塁跡                         二の丸と三の丸を遮断する堀跡
 まず本丸周辺ですが現在は本丸周囲の堀跡に舗装道路が走り車でも往来出来ます。二の丸と接する部分に
本丸虎口があり両端を土塁で固められています。本丸は土塁が巡っていまして特に南東端には櫓台跡らしき
遺構があり石碑も建てられています。ここが玉造城の中でも最も高い地点と思われます。本丸と二の丸との間
には堀が走っていますが当時がどのような繋がりかは難しいです。また本丸と思われる曲輪と二の丸と言われ
る曲輪の高さを比べると二の丸曲輪のほうが高さがある事から本丸は現在二の丸と呼ばれていた曲輪の可能
性もあるかとも思えます。更に二の丸と三の丸との間には堀切に近い幅の広い堀が両曲輪間を遮断しておりま
す。この堀は二の丸の北で折れて丸馬出しのような形をした土塁を越えて帯曲輪へと続いています。三の丸は
比較的広い曲輪で南東部に帯曲輪があり連結部分には土塁が走っています。更に北西へ進むと大きな堀切が
もう1ケ所見られ、鹿島線の線路に到達します。このように玉造城は民家や畑になっている個所もありますが現
在でもほぼ縄張通り曲輪や堀跡が確認出来ます。更にはもっと西には玉造城の外郭線とも思える長塁があり
ます。


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