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孝子弥作は,今から三百三十二年前,寛永十一年に常陸国玉造浜村の貧しい家に生まれた。父を早く失ったので,
足腰立たぬ母の手一つで育てられ,十歳のころから日雇いに出て生活費をかせいだ。成人してからは,せめて人並み の生活をと考えて,精根こめて働いたがその効なく,ついにどん底生活から浮かび上がれないまま,長い歳月が流れ ていった。
弥作は,外見は粗野であるが,その性質は純情で,とくに母を思う心が厚く,母とともに,自立の喜びにひたることを
最大の念願として早くから貧しさの克服力を力を注いだ。
またともすれば,暗くなりがちな母の心を明るく豊かにしようと,朝に夕に,にこやか な顔や,暖かい言葉で接した。とく
に立ち居の不自由な母に,留守居の寂しさを感じさせ まいと,田畑に出るときはいうまでもなく,祭日や縁日にも必ず 背負って連れていった。
さらに食べ物にも気を配り,えびや魚を捕らえてきてもてなしたり,時には好物の酒をと とのえて慰めた。
母はこの心づかいに生気をとりもどし,ある日,村の道ぶしんに出る弥作のために,飯びつの底をはたいて作った握り
飯を与えて,喜びの心を示した。これに対し弥作は,その半分を食べ,残りの半分を母のために持ち帰ってその心にこ たえ,恩愛の情を深めた。その後寒い冬の夜には,夜具もなく寝つかれない母に,自分の着物を脱いで掛けてやるな ど,年ごとに弥作の孝心は高まって,始め冷笑していた世の人々までも感動させた。
延宝二年四月二十三日,これを耳にした水戸義公は,潮来お成りの途中,この地に立ち寄り,弥作を馬前に呼んで恩
賞として金拾両を授けて励まし,その事跡を国中に広められた。
その後,わずか六年にして母はこの世を去った。弥作は,その霊を弔いながら,田畑を買い,妻をめとって安楽な生
活に入り,宝永二年八月二十九日,七十二歳の長寿を保って永眠した。
それから約百二十年の間に,弥作のあとは絶えた。文政五年,時の庄屋大場伊衛門は村人と謀り,遠縁にあたる井
川久兵衛の次男弥作を立てて跡目を継がせ再興した。当主は塙弘作は,その五世の孫である。またその墓に墓標を 立て,現在に至っている。
明治十二年,明治天皇は,道徳教育を振興するため,幼学綱要を編成せしめ,弥作の事跡をその巻頭に掲載され
た。 昭和四十年十一月十五日
後学 岡里 利隆 選及び書
孝子 弥作 顕彰会 立石
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