山岡 鉄舟

やまおか・たかゆき(てっしゅう)(1836-88)
茨城県初代参事(現代の県知事に相当)。維新前は幕臣。勝海舟と西郷隆盛が江戸開城を取り決めた会談をセッティ
ングした。高名な剣術家でもある。 

 山岡高歩(鉄舟)の名を高めたのは、江戸城の無血開城(1868年)を導いた西郷・勝会談のお膳立てをしたことによる。
ときはすでに王政復古の大号令が出され、明治元年となり新政府軍(官軍)が江戸へと迫っていたときである。徳川家
の処分に強行であった新政府に対し、江戸は騒然としていた。そのまま新政府軍が江戸に入れば、幕臣の抵抗と火災
が必至とされていた。
 山岡は下級の幕臣で、それまでの業績で歴史に登場するのは、1863年に清河八郎が提案した幕府浪士隊に講武所
剣術世話心得として参画し京に上ったことくらいである(なお、この浪士隊から新撰組が誕生している)。
 それから5年、新政府軍が江戸に迫るなか、鉄舟は主家徳川家の存亡に心を砕き、説得のために自分を派遣するこ
とを願い出ていた。 
 陸軍総裁勝海舟は、山岡を見込み、手紙をもたせて西郷隆盛のもとへ派遣した。彼は駿河の新政府軍総督府に幕
臣として単身入り、西郷に勝の手紙を手渡し趣旨を説明した。西郷と山岡は徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)の処分で激
しく対立したが、その後に行われた西郷・勝会談において慶喜は水戸での引退・謹慎とされ、江戸総攻撃の中止と江戸
城の開城が決められたのである。彼はその後新政府に仕え、地方参事を歴任した。やがて明治天皇の侍従となり、強
い信頼を受けることになった。 
 
剣術家としての山岡高歩
 山岡高歩は、旗本小野家(600石)に生まれた。父の郡代赴任によって飛騨高山で少年期を過ごし、そこで学問と剣術
を学ぶ。20歳のとき(1855年)に槍術師範の山岡家を継ぐ。江戸に戻ってからは外敵に備えるべく設けられた幕府の武
芸所・講武所(1855年設置)に入り剣術をさらに磨いた。 そのかたわら禅の修養も積んでいる。
 維新動乱期を経て、さらに新政府の役人を勤めながらの鍛錬であったが、1880年には一刀正伝無刀流(無刀流)を興
した。その極意は「心の中以外に剣はない」という精神的なもので、禅の影響を強く受けている。
 

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