間宮 林蔵

まみや・りんぞう(1780-1844)
名は倫宗(ともむね)号は蕪嵩(ぶすう)といい林蔵は通称です。
探検家。樺太が島であることを発見。その名は現在でも世界地図上に明記されています。
測量技術、移動手段が貧弱で、なおかつ北方に関する知識も皆無という当時の日本で、
林蔵の探検は命懸けの仕事でした。
  筑波山には祈願すれば願望成就するといわれる立身石がある
筑波郡上平柳村(現伊奈町)の農民だった少年期の間宮林蔵も、立身を祈願したといわれている。
この林蔵少年の立身のはじまりは、小貝川の工事に来ていた幕府普請役に才能を見い出されたと一説には言われています。
江戸に上ると、数学の才能を活かして測量と製図を学び、
日本各地で行われた治水、新田開発の仕事に従事しながら測量や土木技術に従事した。
ロシア使節のラクスマンが蝦夷地の根室に来航(1792年)するなど、ロシアの南下政策に
対して北方警備の重要性が幕府に認識されはじめたのである。
蝦夷地の地理もまだよく知られていなかったために、林蔵は調査に同行するよう命令され寛政11年(1799年)
師の村上島之允に従い蝦夷地に渡るのです。
林蔵は、蝦夷地では測量調査をする一方で、実測地図作製のために来ていた
伊能忠敬(いのう・ただたか)に測量技術を学び、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の
北海道部分を完成させている。
また、今日の北海道地図の基礎となる『蝦夷図』の完成させています。林蔵の『蝦夷図』には、
主だった集落の名が驚くほど細かく記されています。

樺太探検を命じられたのは1808年のこと。このときに樺太が島である
ことを推測した林蔵は、翌年にも探検を行い、大陸に渡るなどして島であることを確証した。

樺太と大陸間にある海峡(タタール海峡)が間宮海峡と名付けられたのは、
ドイツ人医師シーボルトによって林蔵の業績が世界に紹介されたことによる。
シーボルトは長崎出島のオランダ商館に勤務していた人物で、
勤務のかたわら蘭学者を養成するとともに日本研究を行っていた。
シーボルトは蘭学者との交流のなかで資料を収集していたが、その
中に幕府が軍事機密としていた地図などがあった。
これらの資料を帰国の際に持ち出そうとしていたことがわかって洋学弾圧事件に発展したのが「シーボルト事件」である。
林蔵はこのシーボルト事件の密告者として、言われていますが、
林蔵の密告説は今日、否定されるようになりました。
シーボルトと林蔵、事件と関りのあった人物たちを詳しく調べた結果わかった事です。

国外追放されて帰国したシーボルトは『日本』を著し、
そのなかで林蔵がまとめた北方探検記『東韃紀行』『北蝦夷図説』を紹介した。
当時の世界地図では南極・北極とともに樺太周辺が未探検のままで空白域となっていた。
地理上の関心が極東に注がれていたなかで林蔵の業績は世界に認められ、
偉業の象徴として間宮海峡と名付けられたのである。

シーボルト事件の後も林蔵は、国防に関する仕事に従事します。
晩年には、 水戸家にも出入りし、知識・意見を伝えています。
また、勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)も林蔵の北方に関する知識を重要視いたようです。
これにより水戸徳川家では北方に関して多くの情報を持ち、
藤田東湖や徳川斉昭公に多くの影響を与え、
彼が交渉に臨んだ日露和親条約締結が林蔵の北方に関する知識に助けられ、
日本側が交渉を有利に進めたことはあまり知られていません。
林蔵は、幕府役人として天保15年2月26日(1844)江戸の自宅で永眠しました。享年65歳。

林蔵には実子がいないと言われていましたが、最近、北海道でご子孫が見つかりました。
また、林蔵生前から、上平柳村の生家は、同じ分家筋の鉄三郎が跡目を継ぐことが決まっていたので、
江戸では、林蔵の死を極秘にして、跡目相続についての伺書を幕府に提出していました。
死後6ヶ月を経過した後、正式に跡目相続が決まり、林蔵が生前から懇意にしていた札差し青柳から鉄次郎が養子となりました。


    
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