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田中愿蔵
◇8◇ 天狗党の跡 志半ば勤王の志士(2002年3月30日付) 茨城新聞より
ショベルカーの鋼鉄のアームが天空を舞い、赤茶けた土砂を右から左へ器用に運ぶ。福島県塙町の市街地のはず
れ、久慈川と川上川の合流地点で河原の埋め立て工事が急ピッチで進められている。
この河原は、幕末の動乱期に尊皇攘夷を唱えて決起した水戸天狗(てんぐ)党の受難の地。水戸藩士田中愿蔵は一
八六四(元治元)年、ここで処刑され、二十歳の若さで山河のつゆと消えた。
田中愿蔵は一八四四年、久慈郡東連地村(現水府村)で生まれた。藩制時代後期に建てられた郷校の一つ、野口時
雍館の館長を務め、一八六四年三月、水戸学の指導者藤田東湖の子、藤田小四郎らとともに筑波山で挙兵し、天狗 党幹部になった。
しかし、愿蔵は倒幕に踏み切れない小四郎と間もなく対立、天狗党を割って独自の隊をつくり、各地を転戦した。追っ
てのやいばを逃れ、最後は八溝山にこもったが、同年十月、食糧も尽き果て隊を解散。時代の魁(さきがけ)になろうと した勤王の志士たちは飢えと寒さの中、山を下り、志半ばで刑死した。
愿蔵は塙の代官所で調べを受けた後、久慈川の河原で処刑され、久慈川をはさんで八溝山と向き合う羽黒山の安
楽寺に葬られた。棚倉町大梅でも二十四人が処刑され、墓碑のある一帯は天狗平と呼ばれている。
愿蔵一派は小四郎らと分かれた後、放火や略奪を重ね、人々に恐れられた。愿蔵の悪名はいや応なしに広まり、明
治以降も「悪党」のイメージが定着していた。
それを変えたのは、郷土史家で塙町長を務めた金沢春友さん。孫の卓壽さん(66)によると、一八八四(明治十七)
年生まれの春友さんは代官所に勤めていた祖父から話を聞き、愿蔵の生涯に関心を持った。
愿蔵が悪事を働いたとされる地域に出掛け、一軒一軒訪ねて古老の証言を集めた。戦前の「いはらき新聞」(現茨城
新聞)にも論文を発表、地道な調査で悪役像を一変させた。大仏次郎とも交流があり、大仏は春友さんがまとめた資料 を基に「愿蔵火事」などの小説を書いた。「愿蔵火事」は松竹が映画化、一九三二(昭和七)年に封切りになった。
「うちのじいさんが言うには愿蔵は頭も切れ、眉目(びもく)秀麗。気品のある立派な男だったようだ」と卓壽さんは語
る。
愿蔵が処刑された河原には一八六五(慶応元)年、処刑を担当した役人の手で慰霊碑が建てられた。一九二九(昭
和四)年には「田中愿蔵刑場跡」と記した慰霊碑が住民らの手で建立され、石碑の裏には辞世の句が刻まれた。
河原では今、着々と埋め立て工事が進み、造成後の宅地には「道の駅」が建設される。二つの慰霊碑は工事に伴
い、近くの公民館の駐車場に移されている。
塙町農林課によると、工事が終われば慰霊碑は道の駅の敷地内に戻るという。しかし、アスファルトの路面には、残
念ながら昔日の面影はない。
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