行方地区の名前の由来は現原
常陸風土記より
昔、倭武の天皇が、車駕で国を巡り、現原(あらはら)の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四
方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ
違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な
配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめく
はし)と呼ばう」。行細の名は、後には、行方(なめかた)といふようになった。諺に「立雨(たちさめ)ふ
り、行方の国」といふ。また、この丘は、周囲からひときは高く顕はれて見える丘なので、現原と名付
けられた。
 この丘を下り、大益河(おほや がは)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまっ
た。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。無梶河を
さらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。そ
の地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない(加茂地区)。

 野の北には、檪(いちひ)、柴(くぬぎ)、楓、桧などが密生する深い森がある。そこの枡(ます)の池
は、高向大夫の時代に掘ったものである。北には香取の神の分祀された社があり(若海地区の香
取神社)、傍らの山野は土が肥え、草木も密生してゐる。
 郡の西の渡し場から望む行方の海には、海松や、塩を焼く藻はあるが、魚に珍しいものはなく、鯨
も見ない。
 郡の東に土着の古い社があり、県の祇(かみ)と称へられてゐる。杜の中にある清水は、大井と呼
ばれ、近くに住む者が、水を汲みに来て、飲料に当ててゐる。
 郡家の南の門(かど)に一本の大きな槻の木が聳えてゐる。北側の枝は、地面に着くまで垂れ下が
り、その先は再び空に聳えてゐる。この地は、昔、水の沢(沼)だったため、今でも長雨になると、庁
舎の庭に水溜りができる。郡家の傍らの集落には橘の木も繁ってゐる。

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