3   正しい個人主義を考えよう
   実は正しいと言い切れるものはそう沢山あるわけでなく、主義と称されるものなどは正しいという尺度は求めうべくもないものと考える。   従って小見出しの意味合いは「今考えられる最良の」ぐらいに読み取っていただきたい。
 人は肉親、血族、部族、国、宗教、などいろいろな形態と自分とのかかわりで自分を意識してきた。
 最優先するものをどこにおくかの問題である。江戸時代は家が最優先で家系を絶やさないためにはあらゆる犠牲を惜しまなかった。従って家系のためには個人は2番目3番目の価値しかなかったと思う。戦時中は国を最優先にすることを強いられ個人は鴻毛の軽さに置けと強要された。
 現代は個人が最優先の時代になっている。この考えは大変誤りやすい要素を含んでる。
 たとえば、利己主義と個人主義を同一視している人たちは、己が最優先で他は自分を生かすために存在するがごとき考えをもっちる人たちがいる。
 今まで人間は、人間のことしか考えない視点で物を考えてきたきらいがある。私は宗教のことをあまり知らないが、キリスト教の教えの中に創造主神はという言葉があるやに聞く。神は人ではないかもしれないが神格化された人を想像する。紀元後の宗教は大なり小なり人が中心の考え方でないかと思う。
 つまり人が思想の中心ありその視点でしか物を考えない。
 利己主義などはこの考えのもっとも堕落した物の考え方である。

   ここで人間とはどうゆう存在なのかもう一度考えてみる必要がある。地球上で生きているものの生態系を見ると、環境に適合して生命を維持しているという大原則はみな同じである。しかし、哺乳動物に限ってみてもその形態は様々だ。偶蹄類のように大集団を作って暮らすもの、サルのように血縁を中心とした群れで暮らすもの、猫族のように家族だけの集団で暮らすもの、それぞれ自分の生きるのに都合のよい社会を形成している。
 こう考えると人間はサルの仲間とすれば血族で群れを作って暮らす生き物であると思う。
 この群れの中で自分の役割を担い相互扶助により群れを守り、しいては自分の命を守ってきた。

人が道具を使うようになり、火を使うようになってから物へのこだわりが生まれ縄張り争いが大規模化する。 
 この辺から人類は個人の認識を誤り始めた。
 個人は群れに属し群れは個人の集合ね成り立ち自然の中で環境に適合して生きるという有機的な理解を見失い。権力者は個人を自分の道具のように使ったり、個人もまた権力者に取り入り利己的な行動をとるようになる。つまり、個人と、群れと、自然の有機的なバランスは崩れてしまったのである。
 
 膨大に膨らんだ社会、複雑極まりなくなった人のつながり。これを個人と社会と自然のどれもが優先しないバランスの取れた有機的な構造にすることは容易ではない。
 
 しかし、今これをしなければ人類の滅亡を加速させてしまうことは目に見えている。
 
 私の言う個人主義とは、個人が自然(地球環境)と人間社会との中で過不足なく生かされるようにするということである。
 過不足の尺度は、哲学の問題であり、或いは宗教の問題になるかもしれない。ただしあくまでも人間の立場からのみの哲学や宗教は排除しなければならない。