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個人ページ〜OB&OG

  しもじ      まこと

下地 誠

1.
ゼミの印象と思い出
印象として思いつくことは、「場の重さ」です。何故でしょうか?今振り返れば、高畑先生からのプレッシャーと同期生同士でぶつけあうプレッシャーのなかでゼミに臨んでいたと思います。
特に中途半端な気持ちでゼミに入っていった私は高畑先生が述べていることも解らず、まわりの同期生にもとけ込めず最初の3ヶ月くらいはゼミに出ることが嫌で嫌でしょうがなかったです。ゼミ中もチームメイトとミーティング中もなんだか気が重かった印象があります。(特に「社会政策論」は活動の意義がさっぱり掴めず最もつらい講義でした。)
そんなゼミ活動で厳しさを感じつつも、楽しくなりはじめたのはグループのレジメをつくるために深夜までチームメイトと議論しながら世間話をした時に「解らない思いでいるのは自分だけではないのだな。」と知った時と、ゼミ終了後に先生と学食で昼食を共にするようになって「先生は普通の人でもあるのだな。」と感じてきた頃です。
勿論そこまでいくのには桃原さんや工藤さんが輪にとけ込めるように引っ張ってくれたのが大きいです。
今ではすっかりゼミ関係者のなかで、でかい顔をしていますが、当時は隅っこに隠れているような存在でした。 
 僕は4年の時に先生から大学での勉強の仕方を教わって初めて「優」の取り方を掴みました。しかし。論文も書いていないですし、個人発表もしたのですが、先生に厳しい評価を下されたこともありました。
 故に僕が学んだことは、知識云々よりも物事の考え方だったと思います。研究では力不足により成果が出せず、自分の生き方について激しく悩みましたし、ゼミでの先生や同期生との人間関係にも悩んでいました。
 思い出はたくさんあります。琉薬の入社試験を受ける際にも先生から大きいアドバイスを貰いました。
そんななかで最も大きい思い出はゼミも終盤に差し掛かった際に、起きた「第一次桃原さん疾走事件」
(注)です。桃原さんがゼミのつらさに耐えかねて学校に来なくなり先生の元にも顔を出さなくなったことの初期の事件なのですが、私はその時、先生の教えを実践するのならばあそこで桃原さんが返ってこられるように力を尽くすべきだと考え、夜ゼミ終了後山里さん、我那覇さん、城戸くんら何名かで桃原さんに会いに行って深夜まで、とまりんで議論を交わしたり、桃原さんの問題を他人毎のように扱う同期生に憤りを感じて先生に堂々と「あんな連中と一緒に講義をうける気にはなりません。今日は出ません。イエローカード下さい。」といって講義をボイコットしたりしたこともありました。
とにかくゼミの後半はいろいろ問題が紛糾して、私もゼミのあり方や先生の指導方針に疑念を抱きガンガン先生にぶつかっていきました。
しかし、先生は講義をボイコットする私に「じゃあ、そのかわり工藤さんのお見舞いに行ってくれる?」として思慮深い工藤さんのもとにさりげなく相談にいかせたり、ゼミのあり方に対する僕の不満を夜中まで聞いてくれたりと、持ち前の心憎い気遣いと熱いハートで応えてくれました。
あの時にぶつかった壁は結局乗り越えたともいえず、自分の内なる課題も先送りにしたまま卒業することになりましたが、謝恩会で先生が「5年待つ。卒業後の君らの成長に期待する。」の言葉は今でも忘れられません。
あの先生の言葉があるからこそ、現在の琉薬での活動を「先生の教えの実践」としての側面として自分なりに捉えることが出来ます。
今の私の諸所での活動が「先生の教えの実践」であるとの評価は先生やまわりの方々へお任せしますが、私が自分の活動に主体性を見いだすうえでの重要なキーワードであることは間違いありません。
今もよく「場の重さ」に直面することが有ります。しかし、「こんなことに出くわすのは当然であり、大事なのはそういうことを乗り越える力をつくっていくことなのだ。」と自分に言い聞かせて、学生時代の思い出を胸に日常に埋没しないように仕事をしていますし、どんなに失敗を重ねても次に繋げるような気持ちの切替をしています。

2.卒業してからの(卒業した者としての)ゼミの評価 ゼミで培った物事の考え方は今でも活きていると思います。高畑ゼミを通らず大学を卒業していたらどうなっていたでしょうか・・?考えるだけでもぞっとします。そんな私にとってゼミはビートルズの「キャバーンクラブでのナイト演奏」時代やタイガーマスクの「虎の穴」、徳川家康の「駿府での人質生活」のようなものです。こうして月給取りというカタギの職につけたのもゼミ時代があってのものです。
3.高畑先生の評価 私にとって先生は、王貞治にとっての「荒川」、荘子にとっての「老子」、織田信長にとっての「斉藤道三」、吉川晃司にとっての「布袋寅泰」であります。私がこの社会で自分が思う世界をつくっていくうえで、卓越した理論を授けて下さる師匠であります。
 しかも卒業後はプライベートなことも相談するようになり、その点では恐れながら「大切な友人」であり、ゼミOB会を通した活動では「同志」であります。
 故に先生への評価は、3つに別れますが、「友人」としてということになると、私は友人を評価したりしない主義なのでそこは出来かねます。「同志」としてはこれからのことなので、これも評価しかねますが。最後に「師匠」としての評価は「人生の恩人」です。つまり私にとって先生は大恩人なのです。

4.卒業後の自分の紹介 さて、卒業後の私ですが、現在沖縄県浦添市在住の蒲ョ薬の「薬粧本部 薬粧推進課」におります。
 昨年の10月までは経理部にいたのですが、5月に体調を崩したのを理由に現在のセクションに異動しました。
 経理部では高畑先生の考えの体現者のような譜久山課長に出会って共に頑張っていたのですが、深夜の残業と細かい数字の管理と女性が多い職場故の気配りの難しさより、ストレス性による心臓発作を再発させて体調を崩し、昨年の6月には病休をとるに至りました。
 私にとってこれは己の力のなさを実感する出来事でした。学生時代に気づいていて先送りにしていた自分の内なる課題が乗り越えられなかったせいでもあるでしょう。
 その時、腐っていた私を励ましてくれたのは何を隠そう高畑先生や金城努くん、工藤さん、新城さん、OB、現役ゼミ生のみんなや、譜久山課長を始めとする職場の同僚、家族、多くの友人でした。
 病気になるとどうしてもまわりに甘えがちな私ですが、本当にそういう時期の励ましは心に染みます。そしてそのお陰で、「元気になったら僕も人を励ませるようなことをしよう!」と思うことが出来ます。
 今は体調も戻り、新しいセクションでもなんとかやっていますが、「人を励ませるようなこと」や「高畑先生の理論の実践」などが出来ているか・・?となりますと、それはわかりません。
 ただ会社でも私の力を必要としてくれているようですし、高畑先生との親交も続いていますし、この社会で私が存在する意義はあるようだと感じています。
 卒業して3年になりますが、先生やゼミの関係者に限らずいろんな人のお世話になってここまで来ました。こんな私ですが、これからもOB会では皆さんに恩返しをする気持ちも持ちつつ、それ以上に活躍していきたいと思います。
 
5.後輩および閲覧者へ一言 まず後輩の皆さんに申し上げたいのは、ひとりで悩まないで欲しいということと、人に頼ることと人の力を借りることは違うこともあるということです。
 個人の力などちっぽけだと私は思います。特に大学生といえども、人生経験においてはこれから経験していくことの方が遙かに多いはずです。
 今直面している問題はとても大きく感じても時がたてば、小さく感じるものです。それは時間の経過による成長による場合もあるでしょうし、他者との関わりから学んだことによる場合もあるでしょう。
 もし、後輩のどなたかがゼミ活動に限らずなんらかの問題に直面した時に遠慮せず、先生、同輩、先輩、OB、に相談して欲しいです。
 そこで重要なのは解決の糸口を相手に委ねてはいけないということです。あくまでも自分の主体性のある判断で問題を切り抜けたり先送りにしたりする為に相談することが人の力を借りることだと考えます。
 故に後輩の皆さんには人に悩みを相談することも自分の成長を促すきっかけになるということに気づいて頂きたいです。
 また、このゼミとは関係のない閲覧者の方に申し上げたいのは、閲覧した時点でその方はもう関係しているということです。
 このゼミや教官の高畑先生やOB会になにか感じるものがある方は、遠慮なく書き込みなり先生へメールなりして頂きたいです。
 特にゼミのHPが、今後の進路などに悩んでいる高校生や、大学や大学院へ進学を考えている方が高畑先生の門を叩くきっかけになれ幸いです。

(注)タカハタより:下地氏の事実認識に種々のものが混同されているところがあるので、タカハタの記憶のかぎりで正確を期しておきます。
             桃原英樹氏は、下地氏と同期のゼミ在籍者でした。
             当時のゼミは、琉球大学の「テーゲー(いい加減)」さを受け継いだままのところがあり、
               無断遅刻で「イエローカード」を、無断欠席で「レッドカード」を出さざるをえない状況でした(黄3枚で赤1枚。赤3枚で解雇)。
             桃原氏は前期で赤3枚となりました。その経緯については、
               家庭環境や「ウチナンチュウ(沖縄人)」として生まれ育ったことなどが左右していたようです。
             後期を迎えるに当り、桃原氏はタカハタと相談の上、練習生(つまり単位取得はなし)としてゼミに参加することを決意し、
               ゼミ全体ミーティングにおいて了承され、再出発となりました。
             ところが、氏は、自分をとりまく状況を自分で変えることができず、またまた各種カードを累積することとなり、
               赤3枚で解雇となりました。
             氏の改めての懇願により、タカハタはゼミ全体ミーティングにおいて来期の桃原との再契約問題を議題としました。
             下地氏の指摘通り、残念ながら、当ゼミにおいても自分のこと以外はどうでもよいとするままの人もいて、協議は紛糾しました。
             結局、新年度のことは新年度のメンバーに任せるとの決議となり、
               新年度を迎え、新メンバーによって承諾されて、桃原氏は改めてゼミ生となることができました。
             ところが、氏は、やはり、自分の殻を破ることができず、レッドカード累積3枚となり、
               タカハタは桃原氏と再三にわたり議論し、断腸の思いで氏を解雇しました。
             氏は、その直後、行方不明となりました。
             この、家族にも行方が不明となった時期を、下地氏は「桃原失踪事件」と呼んでいる訳です。
             約半年の後、桃原氏は、学費などを稼ぎ、涙でタカハタ研究室を訪ね、非礼を詫び、他ゼミで再起を期す旨を述べました。
             氏をめぐる一連の問題は、沖縄と沖縄に生きる人々の抱える問題を、ある種、集約しているようにも思えます。
             将来展望をもてないまま自堕落になっていくのは、基地や米軍があるがゆえに、自分たちの思うような社会形成ができなかった
               沖縄の、辛くて悲しい部分を引きずっているように思います。
             われわれは、桃原氏の、ゼミOB会に参加できなくなった経緯を過去のこととして済ますのではなく、
               沖縄での教育活動の難しさの象徴として、真摯に受け止めねばならないでしょう。



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