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Poland


アウシュビッツ

ウィーン発クラクフ行きの電車は、オーストリア、チェコ、ポーランドを通り抜けるだけあって色々な国の人が乗り合わせています。あっという間に国境を越え、再びかつての鉄のカーテンの向こうへ。しかし、チェコ共和国は旧共産圏の中でも工業が発達し、経済的にも優等生だったようで、ハンガリーに突入した時に受けたほどの衝撃はありませんでした(2度目で慣れただけかもしれませんが)。作曲家ドヴォルザークが愛したボヘミアののどかな田園地帯をひた走り、列車はついにポーランド国境を越えます。ぶっきらぼうなおじさんがパスポートコントロールにやってきて、国境の通過を実感。それ以上にポーランドの土地は荒れていて、家もみすぼらしいので、景色を見ただけでも十分実感が湧きました。ポーランドに入ると、すぐにアウシュビッツ収容所のある街、オスティウェンチムに到着。

写真(ポーランド1)
オスティウェンチム駅

駅舎に入ると、今まで旅してきたところでは考えられないみすぼらしさにカルチャーショックを覚えました。観光客が唯一頼れるインフォメーションセンターでは英語は全く通じず、荷物を入れるコインロッカーもなし。駅にあるただ一つの売店は物が無造作に並べてあるだけで、客の購買意欲をかきたてるつもりもないらしい。街の唯一の銀行で日本円を両替しようとしても、「何このお金?」という表情で相手にもされません。たまたまあったドイツマルクでなんとかポーランドの通貨を手に入れました。ポーランドは第二次大戦中ドイツによる被害をさんざん受け、反独感情も残っているのでしょうが、さすがはヨーロッパ一の経済大国ドイツだけあって、通貨の通用力は圧倒的です。
駅にコインロッカーがないので、仕方なく駅の中にあるクロークのようなところに荷物を預け、いよいよ街中へ。ここまでで約1時間経過。街中といっても駅前にホテルと銀行とバーが1つずつあるだけで、収容所観光以外には時間を潰しようのない本当に小さな小さな街です。駅からバスに乗ること約5分、アウシュビッツ収容所に到着。小さな門を抜けると、その先は広大な旧収容所の敷地になっていて、全部くまなく見ると半日はかかりそうな広さです。
“ARBEIT MACHT FREI(労働すれば自由になる)”と書かれた入口から中に入ると、土の道の両脇に規則正しく全く同じ形をした建物が並んでいます。これらは全て戦時中、主にユダヤ人が収容されていたところで、今は博物館として中に様々な展示がされています。

写真(ポーランド2)
アウシュビッツ収容所入口

収容所に入れられたユダヤ人は、ドイツの利益のために、毎日朝から晩まで平均11時間労働させられたそうです。そのような過酷な労働を強いながら、食糧は一日あたり1100キロカロリーに制限され、生活用品も必要最低限のものしか与えられませんでした。余分なものは全て没収され、ただただ命令されるままに生きざるを得なかったようです。病気などで働きが悪くなった人はいとも簡単に殺されたそうです。収容所内には入所していたユダヤ人の顔写真が何千枚とありましたが、平均すると1〜2年ほどで病死しているか、殺されています。最盛期には10万人以上もいた収容所ですが、生きて出られた人の写真はついに発見できませんでした。アウシュビッツのガス室は当時の殺人方法として比較的よく知られていますが、銃殺された人も多かったようです。「死の壁」と呼ばれる壁の前でかなりの数のユダヤ人が殺され、その死体を処理するのもまたユダヤ人と、残酷極まりないことが公然と行われていたのです。
昔から異なる人種間には争いは尽きませんでした。内と外を完全に区別し、他を排斥して自分を優位に置きたいと考えた結果起こるのが戦争だったのです。そして、これが行き過ぎたのが第二次大戦中のドイツや日本のファシズムなのです。自分の民族に誇りを持ち、愛国の精神を持つことと、非人道的な方法で隣国の人々に傷をつけることとは全く別問題です。戦争の世紀を乗り越え、世界の人々と協調できる日が早く来ることを願うばかりです。

収容所見学を終え、歩いて駅へ。プラハ行きの夜行まで5時間。何もない駅で時間を潰すのは大変なことでした。でもクロークの人がどこかへ行っちゃって荷物が1時間近く取れなかったり、余ったポーランドのお金を使って駅のレストランで食事をしたり、買い物をしたりしたので、本当にボーっとしていたのは1時間ほどでしょうか。売店で余ったお金(日本円で300円ほど)で水やお菓子を大量に(物価が安いので)買い込んでいる時、周囲の現地人に「なんだあいつらは・・・」という目でじろじろ見られたことをはっきりと記憶しています。


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