+ 五木の里から不知火海へ 川辺川 - 地域と住民は今 -
地図で九州を見ると、熊本から鹿児島北部にかけ1600m級の山々が南北に走る。この九州山地の原生林で大伐採が始まったのは戦後のこと。林野庁(当時)や営林署はこぞって原生林を伐り、経済林と呼ばれたスギ、ヒノキの苗木を植えて回っていた。
中島康さん(62)は、高校生の時、友達と歩いた山を今でも鮮明に思い出す。矢部から宮崎県北部にかけ、重いテントを背負い一週間かけて九州縦断を敢行した。尾根伝いに、山道や細い生活道を黙々と歩く。秘境のような奥山で目にした、豊かな森が水と多くの生命を育む光景はその後の原風景になった。
高校から始めた山歩きで、山の変化がそのまま水の変化につながっていく様子を見てきた。五木や五家荘の奥山でも、かつて豊かで透明な水があふれるように渦巻いていた。昭和30年代からの拡大造林により九州四国の山々は切り尽くされた。あちこちで谷川が枯れ、大雨時には洪水が起きるようになっていた。
中島さんは感覚的な思いを立証することができずにいた。その頃、北海道石狩の話を知る。石狩原野では無理な伐採が元で川へ流れ込む養分が減って磯焼けが起き、ニシンの激減を招いていた。森と海を結ぶつながりが立証され始めていた。
平成3年、中島さんは「脊梁の原生林を守る連絡協議会」を立ち上げた。脊梁山脈原生林の保全を国と県に訴え続け、毎週のように山に入っては説得力のあるデータ作りに取り組んだ。仲間たちと原生林の植生分布地図を作り上げ、国と県へ最終的に提出した。現在、その脊梁山脈は「生物遺伝資源保存林」に指定されている。仲間たちと勝ち取った成果でもあり、方向転換できずにいた林野庁にとっては中島さんたちの活動が方針を変えるきっかけにもなったと話す。
「治山をせずに治水が出来るのか。」
ダムへの漠然とした疑問はあった。しかし子どもの時から「ダムは良いもの」と教えられてきた。原生林保全と同じで、感覚的な疑問はあっても、説得力を持って人に伝えられるものを持たなかった。
「緑のダム」構想が有名になったのは、吉野川河口堰問題た。中島さんはこれだと思い、すぐに詳しい話を聞きに行った。昨年、知人の紹介で広島大学の中根周歩・広島大学大学院生物圏科学研究科教授を知った。「緑のダム」構想の中心人物だった。中根教授は、自分の足で山々を歩き、数百箇所で行った浸透率調査を元に、手入れのされた針葉樹林や針広混交林によって、現在弱まった山の保水力が大きく復活する結論に辿り付いていた。
「林野を保全する財源は、国や県が地元を支援すべき。」と話す。ダムに比べて、わずかな額で大きな経済効果を生み出し、山川海を守る重要な仕事でもある。「緑のダムの考え方は、今後絶対に重要になる。ダムを越えたその先を、地元の人たちや県・国を巻き込んで一緒に考えていきたい。」
少年のような目をして、銀髪の紳士はそう語る。(了)
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