+ 五木の里から不知火海へ 川辺川 - 地域と住民は今 -
ゴマ塩頭に大きな体。川辺川の主(ぬし)と言われる。相手が国であろうと漁協執行部であろうと、よどみない口調で漁民の立場から思いをぶつける。
吉村吉徳さんは、3代目アユ漁師。瀬音を子守唄に育ち、学校を卒業しすると漁師の道を選んだ。
川辺川ダムには、初めから反対だった。アユ漁師の立場から見たら、川は生活そのもの。豊かな実りと仕事をもたらす川が、ダムによって大きな打撃を受けることは、漁民なら誰でも予想が付く。球磨川にできた3つのダムによって、流域ではアユが激減し、専業漁師が次々と廃業していった経験があるからだ。
人吉市と相良村のちょうど堺に、川辺川と球磨川の合流地点がある。その真上を、くま川鉄道が走る。赤い鉄橋の真ん中に立つと、左が川辺川、右が球磨川である。二つの川は、大雨の直後に違いが歴然となる。支流の川辺川は徐々に水が澄み始めるが、上流にダムのある本流球磨川は数日間濁流のまま。橋脚の下で合流した水は、しばらくは交わらず、遠くからみると茶色い水と透明な水とが並んで走っているように見える。アユは濁流を嫌い、大雨の時になると支流や岩場に逃げ込む。エサとなる川底の苔の生育状態も重要で、苔は清流でなければ育たない。川辺川と球磨川では水温も透明度も違い、匂いも味も異なっているのだそうだ。球磨川が美しいのは、川辺川があるおかげだと、吉村さんたちは口を揃える。
吉村さんが球磨川漁協に入ったのは、まだ20代の頃だった。年輩の組合員がダムについて議論している間、若造の組合員には「ダム反対」と言い出せない雰囲気があった。「最近になってやっと、みんなから認められるごと、一人前にものが言えるごとなった」そう。今ほどにダム反対の声がなかった時代、当初吉村さんの頭にあったのは、「組合員のために、どれほど国から補償を勝ち取るか」だった。個人的にはダム反対、しかし総代という組合員の代表役員を務めるようになり、漁民一人一人の苦労も知っていた。国を相手に漁民だけでどこまでやれるのか、自信も見通しもなかった。
それが1993年、人吉にダム反対市民団体である「清流・球磨川川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」ができ、その後農家が「利水訴訟原告団」を結成した頃から、大きく社会の状況が変わりだした。ダム神話への疑問が堂々と語られるようになり、環境配慮、住民参加がうたわれるようになった。
吉村さんは、いつしか「球磨川川辺川を守る漁民有志の会」代表になっていた。漁民の代表として、福岡でも東京でも行って話をする。分かりやすく、よどみない口調で「川辺川」を語り、周囲からの信頼も厚い。その胸には小さなバッジが光る。今年4月、ダム推進の人吉市長と国を相手に、市議会へと戦いの場を広げた。人吉市民の7割はダム反対と言われる。25歳を頭に、3人の父でもあり、選挙では子どもたちも一緒に走った。記者からのインタビューに、末息子は父の背を信じていることを伝えた。
「家族には迷惑ばかりかけている。だけど、やっぱり見ていてくれたんだなぁと思って。」
刺し網を編む手をふと止めると、「主」は目を細めてつぶやいた。(了)
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