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連載16◆ ダム反対運動の10年(1)

 五木村の水没者団体を除くと、一番古いダム反対市民団体は、人吉市の「清流球磨川川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」だと言われる。人吉市は球磨川と川辺川の合流点に位置する、球磨盆地の中核都市。球磨川下りと温泉、球磨焼酎で知られる、風光明媚な人口4万の町である。八代市と共に、川辺川ダムによって「生命財産が守られる」とされる代表的な二大都市の一つである。
 今年9月、その「手渡す会」が発足10周年を迎えた。地元の青井阿蘇神社で開かれた、ダム中止へ向けた再決起集会を兼ねた祝賀会の席に、喜びを噛みしめながら球磨焼酎を湛えた猪口(チョク)を重ねる、小柄な老紳士がいた。人吉市鬼木町に暮らす大山次郎さんは、手渡す会発足から現在まで、ダム反対運動を担ってきた一人である。
 「手渡す会の歩みを語ろうと思えば、重層な大河小説一冊くらいになるよ」。大山さんが語るように、先見的な活動はいつも少数派で、さまざまな出来事と絡み合いながら育まれてきた。
 ダムへの疑問は、市民団体発足以前から誰もが抱えていた。球磨川下りなど清流を活かした観光産業に支えられている人吉市。計画発表直後から、水量減少と水質汚濁への懸念の声が上がっていた。現在はダム推進の騎手となった人吉市長や市議会も、当初からダムに賛成だったわけではない。特に市議会内では、ダムが産業の存続を左右しかねないとして、国に対し何度も質問と要望を繰り返した。
 その一方で、実は人吉市にはトラウマがあった。昭和30年代、球磨川沿いの神瀬(こうのせ)地区に、電源開発株式会社による水力発電ダム建設計画が持ち上がった。観光産業に打撃を与えるとして、人吉市民はダム反対運動を展開。ところがこれに対して、球磨郡住民が人吉市での不買運動を起こした。人吉市を囲む球磨郡域の消費で持っていた市街地の商店では、買い物客の姿が消え売り上げが大幅に落ち込んだ。結局、事業者撤退で神瀬ダム計画は白紙に戻ったが、この手痛い「しっぺ返し」は人吉市民の脳裏に刻まれることとなった。
 そんな中でも、「手渡す会」発足へ向けた胎動は、市民らの間にはっきりと存在していた。
 10年余り前のこと。当時、人吉から水上村まで球磨川沿いに球磨盆地を東西へ走っていたJR湯前線が、経営の悪化から廃線の危機に瀕していた。人吉市民は沿線住民と共に数年間に渡る存続運動を展開。悲願は叶い、現在では第三セクターのくま川鉄道が走る。ローカル線存続運動の高まりは、住民自治の気運を高めることとなった。また時を同じくして、人吉市では「くまがわ共和国」という文化運動も起きていた。故郷と球磨川を愛す有志が中心となり、住民の視点から地域を見つめ直す。めいめいが大統領や大臣を名乗り、球磨川をカギとした観光や人の交流を起こそうという取り組みだった。川辺川ダム計画も、決して避けられない課題だった。(了)



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