+ 五木の里から不知火海へ 川辺川 - 地域と住民は今 -
連載17◆ ダム反対運動の10年(2)
1991年8月、毎日新聞で一つの連載記事がスタートした。担当したのは人吉通信局に赴任したての若手記者、福岡賢正氏。当時、人吉・球磨地方では多くの人がダムへの疑問を抱えながら、その科学的検証や裏付けはまだ不十分だった。国はそんなダム反対住民の弱点に目を付け、「ダム反対は感情論。科学的根拠がない」として一蹴していた。もう一度川辺川ダム計画の考証が必要なのではないか。福岡記者はそう考え、緻密な調査、資料収集と分析を重ね、市民と同じ目線に立った連載を開始した。ダム計画の発端、目的、効果、環境への影響など、住民の疑問の一つ一つを取り上げ、国の説明を解きほぐしながら科学的検証を試みた。
この連載が人吉市民を大きく勇気づけることとなった。
「連載が続くにしたがい、まるで目から鱗が落ちていくようだった」。当時の印象を、手渡す会事務局長重松隆敏さんはこう語る。新聞記事をテキストにした小さな勉強会は、やがて大きなうねりへ。折からのJRローカル線存続運動や、地域見直しの運動に関わってきた市民らを中心として、1993年8月、「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」(手渡す会)が産声を上げる。初代会長には、地元人吉の池井良暢氏が就いた。
川辺川ダム反対市民団体の先駆けとして誕生した手渡す会。その最初の仕事は、国営川辺川総合土地改良事業(利水事業)をめぐる問題だった。区画整理や農地造成とともに、ダムから水を引いて広大な台地を灌漑するという計画。すでに時代のニーズから乖離していたが、国はダムありき、事業ありきで着手を急いでいた。少なからぬ数に受益対象農家の間からは、事業への同意取得手続きのおかしさや、土地改良事業の必要性についての疑問の声が聞かれていた。しかしそれらはまだ個々の声でしかなく、また問題の所在を知らない農家も数多く存在していた。
手渡す会は、後の川辺川利水訴訟原告団のメンバーと共に当時農家を回り、まずはその実態調査と広報活動に乗り出した。当時、国は対象農家名簿すら公表していなかったため、対象と思われる農家を探すところから始まった。事業対象地に入っていそうな農地を見つけ付近の住民にその持ち主を聞いたり、家々の納屋の形を見て農家かどうかを判断したり、一戸ずつ戸を叩き利水事業について尋ねて回った。その結果浮かび上がってきたのは、事業に反対だとした人の名が同意者名簿に並ぶという実態。事業についての農家負担額はないと説明されていたが、実際にはそれも虚偽の説明だった。多くの農家が事業同意の取消を求め、再三に渡って申し入れたが国は無視。行政不服審査法に基づく異議申し立てを行ったが、1996年、管轄である農水省はこれを棄却。これに対し農家は、この異議申立棄却決定を取り消すよう求め熊本地裁へと提訴した。これがその後7年間の歳月を経て、今年5月に勝訴判決を勝ち取った川辺川利水訴訟である。
手渡す会は発足と同時にダム計画凍結の署名運動、集会、シンポジウム、講演会を開催など精力的な活動を開始した。発足翌年にオープンした手渡す会事務所「くま川ハウス」は、そんな活動の拠点として大いに活躍した。
(了)
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