+ 五木の里から不知火海へ 川辺川 - 地域と住民は今 -
「川んこつは俺が一番よう知っとる。」
普段は寡黙な「肥後もっこす」たちも、球磨焼酎が一口入ると途端に饒舌になる。決まって話に出るのは、小さい頃から慣れ親しんだ球磨川、川辺川の話だ。
球磨郡錦町に住む米田重信さん(71)もまた、瀬音を子守歌に育ち、川と共に暮らしてきた一人である。
「昔は俺も川見回りの監視員ばしよったもん。漁協に委託されて、夏の焼けるごと暑か日も見回って監視ばしよったもんよ。」70の角を曲がり髪は白くなったが、米田さんは今でもアユやハエを釣る現役の川漁師である。
「アユがどぎゃんして育つか知っとるな?」不意に尋ねられ、私は答えに窮した。
現在、アユの稚魚は、下流の八代から中流へ水槽を載せたトラックで運ばれ放流されているのだと言う。毎年4月と5月の間、漁協組合員が日に何度も八代インターと人吉インターの間を往復して稚魚を運ぶ。放流された稚魚は、その後川底の苔を食みつつ、秋の産卵期まで川を更に遡上し続けるのだ。産卵期になると、人口受精した卵を今度は八代の球磨川河口まで運ばなければならない。水温管理や放流地点選びは難しく、経験豊かな漁師でなければできないのだと言う。
「ダムができる前はこぎゃんことなかった。」と米田さんは語気を強める。
アユの遡上と産卵で、人の手が必要になったのは、球磨川下流、上流に昭和30年代作られた3つのダム完成後のことだ。下流の荒瀬・瀬戸石ダムと、上流の市房ダムにより、漁業は大打撃を受けることになった。コンクリートの魚道では、稚魚が遡上することも、卵が下ることもできなかったのである。
「昔はダムのなかったけん、アユは自然に遡上してきよった。ダムができたせいで、草は生える、岩は汚れるで球磨川がどぶ川んごとなってしもうた。まったく変わってしまったもんね。」時折手元のタバコの火を見つめる米田さんの目には、もう二度と戻らない、ダムのできる前の球磨川が写っているのだろうか。
米田さんは過去の3つのダムの苦い経験を忘れていない。「今度川辺川にダムができたら、川辺川も球磨川本流んごとなってしまう。ダムがでくると川の死ぬとが分かるけん、俺は反対しよったい。」米田さんはダム建設に反対する、漁民有志の会のメンバーでもある。
俺は今もアユば捕りよっとばい、との言葉に私がぜひ食べさせてほしいと希望した。川辺川のアユは尺アユと呼ばれ中には体長30cmにもなるものも多い。まだ生きたアユを見たことがないと言うと米田さんは豪快に笑い、「よかよか、今度食べさすったい。」と約束してくれた。
次回も川と共に暮らし、川を守ってきた人びとの声を紹介する。(了)
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