+ 五木の里から不知火海へ 川辺川 - 地域と住民は今 - 



連載6◆ダム計画の狭間で 揺れる五木村(2)

 山林は五木村の97%を占める。かつては日田から建築用木材を求めて商人が出入りし、遠く紀州からは炭焼き職人が移住した。数十年前までは、急峻な斜面を利用した焼畑も行われ、「コバ作」と呼ばれていた。一面の水田光景などはなく、河原の石で垣を築き、わずかな広さの土地を田畑に変えての農作業。耕地面積はわずか0.9%だった。
 五木村には「ダンナ」と呼ばれる旧家がある。江戸時代の地頭制度を引き継ぐもので、戦後の農地解放では山林は対象にならなかった。その後土地の一部は村人のものとなったが、現在も「山持ち」である。
 そんな旧家の一つに、頭地地区久領に暮らす土屋義人さん(86)宅がある。
 明治10年の西南の役のとき、薩摩軍は逃げる時に家々に火を放った。そのあと再建した家なので、築125年になる。座敷を、夏を告げる涼風が通り抜ける。
 村の郵便局長を長く勤め、球磨川漁協組合員でもある。弟と二人、刺し網でアユを釣ることも多かった。「瀬戸石・荒瀬ダムがなかった頃は、自然にアユが遡上してきとった。アユがたくさんおって、川に入ると足に寄ってきてこそわ(くすぐった)かったくらい」。昭和30年代、球磨川下流に建設された2つダムは、はるか上流の五木村の川も変えていた。
 五木村の漁民にとってダムはもちろん最大の関心事。しかし、村是がが条件付きでダムを受け入れた現在、村でダムの話をすることはそう易しいことではない。
 「ダムができて良くなった町は、全国どこにもなかが・・・」土屋さんも言葉を濁す。五木村水没者地権者協議会の副代表。ダム計画に反対した村内の3水没者団体のうち、最後まで県や国と争ったが昭和56年、「補償基準」を妥結し条件付きダム容認へと変わった。しかし「水没者団体はダムにOKを出したが、移転することにOKを出したわけではない」。土屋さんのところにもまだ国交省は移転交渉に来ていない。ダムはでけんのが一番いいというのが本音。だが「どうせできるのだろうけど・・」とも。個人で移転を急ぐ必要はないと思っている一方で、子供夫婦と同居するための新築するための木材は切り出し、現在寝かせているところ。白黒つけることのできない心内は、今も変わらない。
 五木村は苦渋の選択をしたとよく言われている。村がダム問題に分断され、苦しい道のりを歩いていた当時、下流や世論ではダム反対の声が弱かった。
 「私は今反対している人たちのことも分かる」と土屋さんは話す。「あの頃は下流の人も勉強していなかったし、ダム反対も今ほど言われてはいなかったので仕方なかった。五木の人も、下流で反対の声が上がるのはそれほど悪くは捉えていないと思う」
 川辺川ダムを知るにつれ、「もう少し早ければ」という思いが私にいつもつきまとっていた。肩が少しだけ軽くなった気がした。(了)



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