| ■■ダムと私的五木考■■ シリーズ第3回(2002.11.2)
テーマ:代替地に暮らす人々〜大平代替地編〜その1
国道445号線を川辺川沿いに上り、ダムサイト予定地そばのトンネルをくぐると、まもなく五木村入り口を示す看板が見えます。
五木村に入って最初に見えるのが小浜代替地。3区画分の土地が用意されていますが、家は一軒もなく敷地だけが残っています。木が植えられ公園のように装っている敷地もありますが、紛れもなくここは代替地。小浜代替地完成は昭和62年ですが、結局小浜集落は全軒代替地へ移転せず、村外へ移転したり、村営住宅へ移ったそうです。
川辺川を上ります。小浜の次に見えるのは野々脇代替地。道から川側に作られたのり面に、三棟の家屋と集会所、お堂が並びます。ここは旧野々脇地区から移転した家の代替地ではなく、代替地前のバス停「野々脇村住前」の名前が示す通り、村営住宅用地になっています。一棟に2家族ずつ、計3棟6家族が暮らしています。かつて20軒あった旧野々脇地区から村内移転したのは、この代替地の少し上流、橋のたもとにある、森口商店ただ一軒だそうです。
野々脇の次に現れるのが大平代替地です。道沿いに3軒、木々や花に囲まれた平屋の家が並びます。ちょうどトンネルの少し手前になり、トンネル入り口付近には代替地と道を挟んで、神社とお堂、倉庫一棟が建っています。
Yさん(82)は、大平代替地の一番手前の家に暮らしています。週末になると町から子供たちがやってきますが、普段は一人暮らし。「一人で寂しかなかかち言わるるばってん、なんが寂しかことのあるもんですか。隣の2軒のじいさんばあさんたちから茶飲みの誘いが来て、毎日3軒で持ち回りしては茶飲みばしよります。」
Yさんが代替地へ移ったのは、平成7年3月のこと。ご主人のTさんと一緒でした。竜夫さんは、川で漁をしていた時、足に上から落ちてきた石が当たったのが元で、20年ほど下半身不随の生活をしていました。「新しい家はなにもかもじいさん向きに」と、代替地に新築した家は、竜夫さんが暮らしやすいようにとすべて配慮して設計しました。入り口にはスロープ、廊下幅は広く取り、ぐるっと縁側まで車椅子で回れるようにしつらえ、段差もなくしすべてバリアフリー。家の外と中用に、それぞれ1台ずつの車椅子も用意しました。設計してくれたのは相良村の大工さんです。
家の木材はすべてヒノキ。「自分で育てた木で家ば作らんば」という竜夫さんの希望通り、葛の八重(くずのはえ)集落にある持ち山からヒノキを切り出しました。切り出した木は線に吊って下まで下ろして製材し、暇とお金をかけて家を建てたので、3軒のうちでも移転は最後になりました。
しかし、新しい家に移って3ヶ月後、容態の悪くなったTさんは人吉の病院へ入院。その2ヶ月後の8月末、帰らぬ人となりました。スミエさんの一人暮らしはもう7年目になります。
竜夫さんと暮らしたわずかな期間、Yさんは毎日車椅子での散歩を欠かしませんでした。家の前の国道も当時はまだ途中までしか開通しておらず、家の前の道を通る車はありませんでした。歩いて15分ほどの所にある森口商店まで、竜夫さんの車椅子を押して散歩しました。
「わたしの運動にはなりませんばってん、毎日車椅子ば押して、じいさんを『遊ばせ』してました。」
85歳で亡くなった夫のTさんを「自分の思うように家を作られて良かったろうと思います」と話します。
亡くなったTさんは船漕ぎの名人でした。育ての父親と二人でよく釣りに出ては鮎やイダをたくさん釣っていたそうです。夏は二人で網をさし、冬はガスランプを持ってヤスで魚を刺していたそうです。竜夫さんは兄弟のうちで一番遅くに生まれた末っ子で、子供のいなかった一番上の兄が養子にし、弟として子として、大変かわいがられて育ったそうです。漁のときも、一番上の兄になる育ての父親と一緒に船を出し、兄弟だからか、よく気が合って釣りをしていたと言います。
Yさんと竜夫さんが元暮らしていた家は、川辺川沿いの旧大平地区のお堂の隣りにありました。母屋と納屋、「大昔のものや味噌造りのカメやらがたくさん入ってた」という蔵が二つ、それに川沿いの下の道の所に車庫が2台分ありました。川沿いから家の前まで上がってくる道は狭く、尋ねてくる子供の乗っていた車が通れなかったため、下の川沿いに車庫を作っていたのだそうです。
以前は馬を飼い、その後牛を飼っていたので、毎朝その秣草刈りが大変だったと話します。田んぼも以前は作っていましたが、耕耘機や刈り取り機など、機械を入れて作ったのは10年間くらい。その後移転の話が出てきたそうで、今では田は作らず、大きな農機具も人にあげてしまったとのこと。現在は、代替地そばの畑や家の庭先で、毎日野菜や花を育てています。
代替地の隣りには、「建設省さんがちゃんと作ってくれた」と言う小さな畑があります。代替地の3軒で三等分し、どの畑も夏野菜や花がところ狭しと植えられ、よく手入れがされているのが分かります。畑の土を外から持ってきたので地味も良く、ピーマン、ナス、大根、白菜、キュウリにニガウリと、一人では食べきれないくらい作っているそうです。Yさんはシソと高菜作りの名人と言われ、瀬目や相良の人にも分けてあげているとのこと。Yさんの作ったシソは、瀬目地区のシソと梅といっしょにして漬けられ、国道沿いの瀬目公園にある売店の店先に、梅干しとなって並んでいます。
またYさんは、今でもお茶畑を別に持っていて、今朝も機械を抱えて山道を登り、手入れをして帰ってきたばかりと話します。
今年もYさんは、1000kgのお茶を収穫しました。しかし最近ではお茶を飲む家も少なくなり、買い手がいないとのこと。摘んだばかりの生茶は、その日のうちに製茶工場に持っていき、荒茶にしなければいけませんが、お茶は売れないからと引き取ってもらいにくく、昔は製茶工場が「買わせてくれ」と言っていたのに、今ではこちらが「買って下さい」とお願いするくらいだそうです。製茶工場に委託をして加工だけしてもらい、今年は3カ所の店に引き取ってもらったそうです。そのうち、1kgずつ12、13袋だけは別に袋詰めしてもらい、毎年スミエさんの親類に送っているそうです。もちろん自家消費分もたくさん取ってあります。
「わたしんとこは、誰にでも茶ば出しよりますけん、茶はよう飲むとです。郵便配達に来た人にも茶ば出しますよ。」
旧大平地区では、隣の野々脇地区の方まで茶畑が広がり、多くの家がヤブキタ種を育てていました。五木村では焼畑の後、そのまま放っておいたら茶が自生してくるほど、お茶の栽培に向いている土地だそうです。昔はこの野生のお茶を「在来種」として作っていましたが、やがてヤブキタ種が入ると、そちらの方がおいしいからとどの家もそちらを育て始めました。他にもヤマトミドリ、カナヤミドリなどの種類がありましたが、やはりヤブキタの方が売る値段は高かったということです。大平にあったというお茶畑は、元は畑でカライモやイモ、粟、麦などを育てていました。在来のお茶も、昔から自家消費用に作ってたそうですが、役場が補助金を出して茶の栽培を奨励し始めたので、ほとんどの家がヤブキタに転作たそうです。今では在来種の茶を作る家はありません。在来種の茶畑は、ヤブキタと違って畝ができていないので、一目見て分かるそうです。
旧大平地区には、以前は20軒近くの家がありました。昭和56年から移転が始まり、昭和59年までに3軒だけとなりました。まさかこんなに出ていってしまうとは思わなかった、とYさんは話します。
現在の大平代替地の辺りも、当時はタテヤマ(樫の山)でした。「ここはカシ林でしたで、『あげな山ん中に道なんかでくるわけなかタイ。スミエさんとこも早く外になおったら(移転したら)よかとに』ち、人に言われたこつもありました。」
五木村の3つの水没者団体の一つ、水没者地権者協議会が、事業計画取消を求めての長い闘いの末、和解のテーブルに付いたのは昭和59年のこと。昭和50年代後半は、村がダムを受け入れることを決めた後、その代償としての補償案や立村計画をより良いものとするため、何度も交渉や申し入れが行われている最中でした。その一方でダム反対の声も強く、村の中心地である頭地代替地の造成の目途もまったく立っていませんでした。多くの人がダム問題や村の将来、それに自分たちの老後の生活に不安を抱える中、村を離れることを選択し、後ろ髪を引かれる思いで五木を後にしていきました。
様々な事情に加え、代替地造成の遅れも離村移住を増やした決定的な原因の一つだったと言われます。
ダムサイト右岸側にある野原代替地も、小浜代替地と同じく、誰も移転しなかった「代替地」。野原小学校や一般家屋が移転する予定の野原代替地には、今はただ公民館のみが立っています。野原地区は、谷を挟んで周囲5,6集落地区で一つとなる行政区の中心地でした。ちょうど谷の中心に位置し、民家も多く、小学校や公民館もあった野原地区が消えたことで、この行政区はバラバラになってしまったと、周囲の老人は話します。新しい公民館へ行くには、谷向こうから時間も距離もあり、高齢者にとっては一苦労です。月に一度の集会にも、車がなければ参加できなくなってしまいました。頭地を含め、川沿いには比較的戸数の多い集落も多く、周囲の集落と合わせて一つの行政区の中心でもありました。
ダムにより小学校は3つ水没します。そのうち、野原小学校(相良村)と五木南小学校は、移転されることなく、結局閉校となった小学校でした。
昭和55年当時、小浜地区で20戸前後、大平地区で17戸前後の代替地造成が予定されていました。現在では計画そのものがなくなっていますが、当時は瀬目・南・下谷・土手平(つてびら)地区にも代替地造成計画がありました。五木村の中心地、頭地の代替地も昭和55年頭地は190戸が移転予定でしたが、現在ではその約半分の80数区画ほどに規模を縮小しています。
昭和56年初め、五木村には3,356人、1,019戸が暮らしていました。そのうち人口で43.4%、戸数で48.4%にも上る、1,457人、493戸が水没対象となりました。
ダムによってもたらされる公益性への疑問が、利水や治水、環境影響の面から指摘されています。しかし、五木村村民一人一人が、これまでに受け、また現在も受け続けている影響だけを考えてみても、ダムに公益性が本当にあったのかどうかは極めて大きな疑問に思えます。
(第3回−おわり−)
+ + + + + + + + + + おことわり + ++ + + + + + + +
・シリーズ『ダムと私的五木考』は、五木村で見聞きしたこと、文献に当たって調べたことを私的に記すものです。なんでもない話、ダムに関係なさそうな話も出てきますが、広い目で川辺川ダムと村を見ていく時の参考になればと思い内容に含めています。
・このシリーズの目的は、五木村の視点から川辺川ダムを見ることにあります。川辺川ダムのために揺れ続けている五木村を知り、五木村や流域と一緒に、川辺川ダム(中止)のその先を考えていくきっかけになれればと思います。
・私的に記しているため、部分的に正確な文献の裏付けのない部分もありますが、どうぞ御了承下さい。また事実と違う部分があったら、ご指摘お願いします→yu@cown.npgo.jpまで。
・発行者が不精者なので、定期的に流していける自信がありません。気が向いたとき、余裕がある時にだけ発行します。
・川辺川ダム反対を応援してくれる方には、出典が分かる形になっていれば、勝手にメールとして転送して頂いて結構です。国土交通省関係者による引用は絶対にお断りします。
・バックナンバーはどらごんさんがHPに掲載して下さっています。
../../../www.geocities.jp/kawabegawa2002/report/ituki-ko/yu-repo00.htm
・川辺川ダムをめぐる最新の情報は以下をどうぞ。MLもあります。
「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」
http://kawabegawa.jp/
発行:
川辺川を守る福岡の会、STOP!強制収用つんつん椿の会、川辺川流域を考えるユースの会(Youth
Kawabe)
寺嶋 悠 yu@cown.npgo.jp
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