| ■■ダムと私的五木考■■ シリーズ第5回(2002.12.18)
テーマ:五木村頭地の近況、村とダム反対の動き
12月14日、五木村の中心地、頭地に行ってきました。
頭地代替地には80数軒分の区画が用意されていますが、すでに移転した人、現在建築中の家を合わせて60数軒になるそうです。水没予定地となっている旧頭地集落にも、移転をしたくない人、まだ移転契約を済ませていない人たちの十数軒の家があり、そこには人々の日常の暮らしがあります。
今回頭地を尋ねてみました。代替地では、郵便局の新しい局舎が完成し移転したばかりのようでした。来年には物産センターや道の駅(住民から農地を奪っておいて何の商品を並べるのか疑問ですが)の建設工事も始まるそうで、中身はともかく、真新しいハコモノだけはそろいつつあるようです。
ダム問題が大揺れに揺れている現在でも、五木では移転が進んでいます。まだ残っている家々でも、来年5月頃移転するらしい、という家が数軒ありました。中には築100年以上になる家もありますが、煤で黒くなった天井も、土間も、何度もコンニャク芋を煮たクド(かまど)も、苔のむした石垣も、移転する時には置いていかなければなりません。例え70年の思い出が詰まった家でも、ショベルカーが入ってきて瞬く間に砕かれ、後には無数の瓦礫だけが残ります。今回も、前に訪ねた時よりさらに空き地が増え、解体作業をしているところも数カ所ありました。
今年の夏に訪ねた時、庭先に七夕飾りが揺れていた家がありました。おばあさんが住んでいるそうで、そのうち尋ねてみたいと思っていたのですが、今回行ったら、そこはもう空き地になっていました。もっと早くに尋ねてみるべきだったと後悔しました。かつて住居があったはずの空き地には、冬枯れした草木だけが揺れ、余計にさみしさを感じさせました。
頭地には尾方茂さんを尋ねていきました。家の庭先で、下校途中のランドセルを背負った男の子二人に会い、こんにちはと挨拶されました。五木村では、知らない人にも子どもは挨拶をし、大人も会釈をします。最初は少し恥ずかしさもあり戸惑ったのですが、段々と慣れてきて今では心地よくなってきました。
尾方さんの家の玄関は開いていましたが呼んでも返事がなく、誰もいないようでした。納屋の方も除いてみましたが、味噌や漬け物のたくさんの瓶や、籾がたくさんあるだけで、誰の姿もありません。
庭先に山水が引かれていて、榊や菊が浸けられていました。細い樋から流れる水のチョロチョロという音以外には、何も聞こえず、静かな昼下がりでした。
樋からの水を引いた池には、鯉が20匹くらい揺られていました。私が近づくと人影にビクッと驚いて、逃げてしまいました。以前この鯉を「食用ですか?」と聞いたら、尾方さんは「長いこと飼っているとかわいそうで食べる気になれない」と言われていました。
仕方なく犬のジローさんと遊んで待っていたら、近所の年配の女性たちと一緒に尾方さん夫婦がもどってこられました。山に柚ちぎりに行っていたとのことで、先に切り目を入れた竹竿と一緒に、オレンジ色の柚がどっさり入った籠を背中から下ろされました。近所の女性たちは柚を分けて帰られ、私は居間に上がり込んでお茶をもらいつつ、近況を聞かせてもらいました。掘り炬燵は温かく、布団の下では、尾方さんが焼いたという炭が赤く燃えていました。
近所の人に「もう生きとる時間もそうなごない(長くない)とだけん、はよ補償ばもらって新しか生活ば始めたらよかとに」と言われると話されていました。尾方さんの奥さんは「生きるもなんも、もう死ぬまで残っとる時間の方が短かとだけん、ここ(に住むの)でよかたい」と言っているとのことでした。
尾方茂さんも水没者団体「地権者協議会」のメンバーですが、今は奥さんが地権協の話し合いに行かれているそうです。頭地代替地にあった農地を国に売るか売らないかで、尾方さんは地権協の会長とケンカしたので、それ以来もう長いこと話し合いには出ていないそうです。
尾方さんの奥さんは、地権者協議会が熊本地裁、福岡高裁で、国と県を相手に裁判闘争をしていた昭和50年代にも、一人で参加していたそうです。福岡高裁へも行ったと言われていました。あの時に下流の人たちが一緒に反対してくれていたら、ダムは止まっていたとに、と言われました。九州自動車道もなかった時代、遠く福岡高裁まででかけていって裁判に参加されていた方の口からこの言葉を聞き、ずしりとした重みを感じました。
私がそのとき下流はどうだったのですか?と聞くと、「そん頃は人吉ん人たちゃ誰もかれも『五木はダムで沈むとげな』ち言うたふうで、まるで人んごつで笑われるごたふうでした。ダムで沈むとがもう決まったかち言うふうに言われよりました」と言われ、もう一度「本当に、あん時一緒に反対ちゆうてくれとったら、ダムは止まったろうに・・・」と誰にともなくつぶやかれました。
過ぎたことをもしと仮定するのは、後ろ向きの話になるのかもしれません。ただ、五木村が反対していた時に、さまざまな事情や関心の低さ、情報の少なさ等もあって、下流ではダム反対論が少なかったのは事実で、五木村でかつてダム反対の先頭に立っていた人たちから度々耳にする「もっと早くにダム反対をしてくれていたら」という言葉は、ダム反対運動に関わっているすべての人が、真摯に受け止めるべきものだろうと思いました。
五木村内でのダム反対運動について、いろいろ言われています。
「水没者団体がいくつかあったが、最初から条件闘争だった」「ダムに本気で反対する人はいなかった」「たくさんの補償金を手にして、喜んで五木を後にした」「早くに地元がダム受入を決めてしまった」・・・など。人に話を聞いたり調べたりして思うことは、そういう人たちもいたかもしれないけれど、それがすべてでは決してない、ということです。そういう声があったからと言って、すぐに地元を責めるのは間違いであり、五木村の人たちがダムと共に歩いてきた36年間の思いを知るべきと思います。ダムを積極的に受け入れのは、いたとしてもあくまで一部の人でしかなく、全体の姿では決してない。またそういう人たちも、そこに至るまでには様々な紆余曲折があったはずだと思います。
外にいる人から見れば、なぜ地元が反対してくれないのか、という思いがあります。
それも理解できますが、その前に五木の事をもっと知るべきであり、もっと知らされるべきだと思います。熊本の山深い村で、外から支援の声があるわけでも、将来に明るい兆しが見えているわけでもない時代に、ダム反対を求めて国を相手にした人たちがいたことは、現在の村是とは別に、正当な評価を受けるべきことだと思います。
五木村に4つ、相良村に1つあった水没者団体のうち、地権者協議会は唯一裁判を起こした団体ですが、昭和59年、福岡高裁での訴えを取り下げ、和解金1億円を手にして一般補償基準を妥結しました。「お金に目がくらんで会は和解してしまった」と尾方さんは言います。五木村では昭和56年からダム離村が相次ぎ、見る見る打ちに人口が減って行っていました。国はその理由を、地権者協議会メンバーが権利を有する土地を手放さないので、代替地造成が遅れているためだとしました。四方をダム容認、推進によって囲まれ、当時は下流や世論からの強い支持があるでもなく、地権者協議会の闘いは孤立と疲労感に満ちていました。15年を越える闘いで高齢化も徐々に進みつつあり、勝訴の兆しは遠いものとしか思えませんでした。高裁判決の直前に、地権者協議会は和解を受け入れたと発表しました。
和解金1億円は、それまでの闘いの経費に当てられました。先にダム受入を決めた水没者団体には、ダム視察の交通費から役員報酬まで、村を通して建設省からすべての資金が出ていました。今年になって、地権者協議会の人たちにこの時に残りのお金の一部が支払われたそうです。20数人の会員に対して、300万円ずつ。会員の中でも高齢化が進み、また離村していく人たちもいるとのこと。会のこの先も分からないので、各人に配分されることになったそうです。配分した残金は、会のお金として取ってあるとのことだそうです。
補償金をもらっても、お金のあるうちはいいが、それが無くなったら暮らしていけなくなる、だから移転したくないと尾方さんは言われました。ここだったら畑もあるし、水もただだし、自分で焼いた炭もあるし、と笑います。
私は「周囲から移転するようにと精神的な圧力もあるでしょうし、一軒また一軒と家がなくなっていく中で、尾方さんのように今も水没地に「残りたい」と思っている人たちが一番大変だろうと心配だ」と話しました。全国でダム反対を応援している人も、五木村のことを気にしている、ダムが止まっても五木の人が誰もいなくなっていたら意味がないですもんね、と話すと、「ですです」とうなづかれていました。
この素朴で人のいいおじいさんが、かつて、代替地予定地にあった自分の田畑を国に売らないことにこだわり、「そんなことできるわけない」と言った地権者協議会の会長と大喧嘩をしたのかと思うと、土と共に生きてきた農家の、田畑への思い入れが分かる気がします。尾方さんの意志に反し、強引に農地売買の契約を結ばされた後、国は農協にある尾方さんの口座にその補償金を振り込んできました。そして、それでおしまい。代替農地を作るという口約束は守られないまま、もう何年にもなるそうです。
尾方さんはこのお金には手を付けず、そのまま取っているそうです。国が代替農地を作ったら、尾方さんたちは国にお金を支払ってその農地を購入しなければならないそうで、そのためのお金として取っているそうです。はよ作ってくれんばできあがった頃には、生きとりゃせんかもしれませんと尾方さんは笑いますが、実際にその通りで、農家にとって農地造成は大きな問題です。
5月に尾方さんの家を尋ねた時、家の前の小さな田には水が張られ、苗が植えられていました。夏にはその苗が青く育ち、秋に尋ねた時には稲穂が頭を垂れていました。先週尋ねてみると、稲刈りが終わった田に、菜っぱ野菜の苗が植えられていました。稲刈りが終わると麦蒔き。長い冬を越すと、夏野菜の植え付けが始まり、農家の仕事には年中休みがありません。
今年が最後になるかもしれない、との思いで田畑を耕し、収穫した後に、水没地から移転していった人もいるだろうと思います。来年も尾方さんがここで田を作れることを願いつつ、来年こそぜひ稲刈りの手伝いをさせてもらおうと改めて思いました。
(第5回−おわり−)
【五木村とダム問題年表】
■ダム計画の発端(s30末〜40年代)
・s28〜35年 電源開発(株)が発電ダムとして調査
・s35年 建設省国土総合開発として調査開始
・s38〜40年 3年連続大水害
・s41年7月 ダム建設計画と県の五木村振興計画発表
・ 〃 村議会、ダム反対議決
・s42年 五木村ダム対策委員会設置
・s43年 洪水調整ダムから「多目的ダム」へ
・s45年 建設省へ対し立村計画基本的要求事項を提示
・ 〃 建設省からの第1次回答
(第2次回答s46年、第3次回答s49年)
・s46年 ダム建設に伴う調査測量のための協定書調印
・s48年 a)水没者地権者協議会発足
■裁判と補償案交渉(s50年代前半)
・s51年 b)川辺川ダム対策同盟会発足
・s51年 建設省「損失補償基準」提示(第1次)
・s52年 c)水没者対策協議会発足
・ 〃 地権協、ダム計画取り消し訴訟を提訴
・s53年 五木村「ダム建設に伴う水没者生活再建計画」発表
・ 〃 地権協に対し熊本地裁が職権で和解勧告
・s54年 建設省「損失補償基準」提示(第2次)
・s55年 地権協敗訴。判決不服として福岡高裁に控訴
・ 〃 建設省「損失補償基準」提示(第3次)
・ 〃 建設省「損失補償基準」提示(第4次)
■ダム建設同意へ(s50年代後半)
・S56年 五木村「ダム建設事業に対する基本的要求書」提示、建設省同回答
・ 〃 五木村水没2団体b)c)、相良村対策協が一般補償基準妥結
・ 〃 水没者の村外移転始まる
・S57年 五木村長、ダム建設同意の所信表明
・ 〃 村議会、ダム反対議決を解除
・s59年 a)地権協による控訴審結審し、ダム建設に合意
■周囲で始まったダム反対の動き(s60年代〜現在)
・H2年 a)地権協、損失補償基準に調印
・H3年 b)c)、損失補償基準に調印
・H5年 頭地代替地の造成着工
・H8年 五木村、ダム本体工事着工に同意
・ 〃 川辺川利水訴訟始まる
・H12年 土地収用のための事業認定
・H13年 球磨川漁協、2年連続で漁業補償案受入れを否決
・ 〃 第1回川辺川ダムを考える住民討論集会
・ 〃 国交省、収用採決申請
・H14年 収用委員会審理開始
+ + + + + + + + + + おことわり + ++ + + + + + + +
・シリーズ『ダムと私的五木考』は、五木村で見聞きしたこと、文献に当たって調べたことを私的に記すものです。なんでもない話、ダムに関係なさそうな話も出てきますが、広い目で川辺川ダムと村を見ていく時の参考になればと思い内容に含めています。
・このシリーズの目的は、五木村の視点から川辺川ダムを見ることにあります。川辺川ダムのために揺れ続けている五木村を知り、五木村や流域と一緒に、川辺川ダム(中止)のその先を考えていくきっかけになれればと思います。
・私的に記しているため、部分的に正確な文献の裏付けのない部分もありますが、どうぞ御了承下さい。また事実と違う部分があったら、ご指摘お願いします→yu@cown.npgo.jpまで。
・発行者が不精者なので、定期的に流していける自信がありません。気が向いたとき、余裕がある時にだけ発行します。
・川辺川ダム反対を応援してくれる方には、出典が分かる形になっていれば、勝手にメールとして転送して頂いて結構です。国土交通省関係者による引用は絶対にお断りします。
・バックナンバーはどらごんさんがHPに掲載して下さっています。
../../../www.geocities.jp/kawabegawa2002/report/ituki-ko/yu-repo00.htm
・川辺川ダムをめぐる最新の情報は以下をどうぞ。MLもあります。
「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」
http://kawabegawa.jp/
発行:
川辺川を守る福岡の会、STOP!強制収用つんつん椿の会、川辺川流域を考えるユースの会(Youth
Kawabe)
寺嶋 悠 yu@cown.npgo.jp
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