| ■■ダムと私的五木考■■ シリーズ第9回(2003.5.12)
テーマ:ダムと村の歴史(その1)
〜電源開発によるダム計画と3年連続の水害〜
■ダムに狙われた村
熊本市にある県立図書館に、一冊の薄い冊子が保管されています。
紙の表紙には「五木村下頭地ダム建設反対陳情書」の文字。
「電源開発株式会社による調査開始以来われわれ村民の精神的動揺は日増に強くなっている現状であり個人の産業開発生活の充実発展を強く阻害しつつあるのであります。新聞等が伝えるところのダム建設が若し実施されることになれば村行政の中心地である頭地は全く水没し約四百戸に近い住民は先祖伝来の土地を離れて他所にそれを求めることにはなりますものの現住地より以上な安住地を求めることは極めて困難なことであります。・・・」
五木村には、川辺川ダム計画が表面化する以前からすでにダム計画がありました。昭和28年から電源開発株式会社が調査を始めた、下頭地ダム計画です。頭地部落の直下に堰を作り、村の中心地を沈めて最大11〜13万キロワットの発電を行うというものでした。
「陳情書」は褪せかけた粗末な紙に、青インクのガリ版刷りです。ページをめくると、下頭地ダム計画地図と陳情文に続いて、約800世帯の名前と押印がありました。日付は昭和32年1月。電源開発の調査が進んで新聞でも正式に発表される中、桜井三郎県知事(当時)に対して、近く開催される電源開発審議会において全面的にダム計画の撤回を行うよう請願する内容でした。
下頭地ダム以前にも、村にはダムの話があったと言います。昭和29年には現在の川辺川ダム建設予定地とほぼ同じ場所に「相良ダム構想」がありました。同じ電源開発株式会社の計画で、その後なぜか一旦立ち消えとなり下頭地ダムとして復活します。どうも戦時中から村に測量をする作業員が立ち入っていたようで、正式に記録に残ってはいませんが、早い時期から村民の間では時折ダムの噂話が出ていたようです。
下頭地ダムは計画発表から半年後、予定地を頭地直下から相良村藤田へと移しました。ダム予定地は再び、現在の川辺川ダム計画予定地とほぼ同じ位置へと戻りました。
村の中心地を沈めるという突然の計画発表に、村民は迷わず、一斉に計画反対の声を上げました。その後電源開発株式会社によるダム計画調査自体は姿を潜めます。これには、球磨川下流の球磨村神瀬地区での神瀬ダム中止も少なからず影響しています。神瀬ダムは同じく電源開発株式会社が計画した発電用ダムでした。人吉市街地では、郡部からの不買運動にも負けず神瀬ダム反対運動が盛り上がり、コストに見合わないことと住民からの反対意見に押される形で電源開発は計画を撤回したという出来事が起きていました。電源開発による、発電を主目的とした五木村でのダム計画は沈静しますが、今度は国土総合開発計画の一環として、建設省(当時)と県が調査を引き継ぎます。
村の中心地水没を免れたのか、免れていないままなのかははっきりしませんでしたが、表面的には大きな動きはなく、村民の間からほっとひと安堵のため息をついたその直後。
昭和38年から続けざまに、村を未曾有の大災害が襲いました。
■3年連続の大災害
昭和38年から40年の3年間は、五木村史に残る大災害が続いた年でした。雨だけでなく、38年1月と豪雪と台風による被害にも見舞われました。38年1月の豪雪、4月から6月にかけての長雨、7月の集中豪雨の後、8月に入ってからは台風9号の接近に伴う集中豪雨に村は見舞われました。
後々まで村民の記憶に刻みつけられることとなった昭和38年8月17日。その日は折からの長雨が一時小康状態になり、大雨洪水警報は朝7時35分、大雨洪水注意報に一旦切り替えられていました。ちょうどその日、五木郵便局職員によるソフトボール大会が予定されていたそうで、「朝8時の段階では、昼過ぎには雨もなんとか上がって大会も決行されるのではと思っていつも通りに出勤した」と、当時の郵便局員は後に回顧しています。
ところが正午へ近づくにつれ天気は一転。突然「天の底が抜けた」ような集中豪雨が村中を強打します。五木村八重にあった観測所の記録によると、8月17日朝9〜10時の雨量は3.6ミリ。それが12〜13時には140ミリに達しています。激しい雨は夕方まで降り続きました。川辺川の水位は6メートルにまで上昇し、川辺川とその支流では数カ所で鉄砲水や土砂崩れが起き、11名の方(10名との説もあり)が命を落としました。この大雨で295戸が全壊・半壊・流失し、155戸が浸水しました。
当時、頭地郵便局には電話交換台がありました。豪雨によって五木郵便局にも非難命令が出されましたが、郵便局が無人になってしまうと村内の電話網が完全に途絶えてしまいます。当時郵便局長だった土屋義人さんは、局長としての責任と村長からの要望もあり、局員1名と共にその場に残りました。交換台では途切れなく呼び出しが入り、対応に追われながらも、足元では徐々に水位が上がってきていました。お互いに不安な気持ちを抑え、励まし合いながら仕事を続けましたが、とうとう電話交換台が水に浸かり、やむなく二人は消防団の出した小船に乗り非難しました。
上流の横手地区では、川辺川へ注ぐ谷川沿いに大規模な土砂崩れが起きました。横手地区住民は土砂崩れが起きる前に非難していて無事でした。谷の水が急に止まったのを見て、横手のあるお年寄りが土砂崩れを予知し、みんなを非難させたそうです。あっという間に土砂が家屋や田畑を押し流し、Y字谷から川までを一面真っ白に埋めました。
横手の対岸である鶴地区では、何人もの方が命を落としました。鶴
の上流、栗鶴地区の更にその先には、炭焼きのために山奥に居を構え
ていた家族がいました。「土砂が流れてくるかもしれないという父の言葉で、身の回りのものだけを持って家を出た瞬間、鉄砲水が家を襲い目の前で家が流されていった」と、今も栗鶴の復旧住宅で独り暮らす女性は話します。鉄砲水はそのまま谷沿いに川辺川まで流れ、鶴の民家を濁流へと押し流しました。逃げる間もなく突然の出来事で、轟音と共に土砂が押し寄せ、すべてが土砂の下に埋まりました。小さな娘さんや老いた母親を亡くした家族もありました。
激流はそのまま下流まで流れていきました。
下流の相良村六藤にあるチッソ第二発電所。国道から発電所へ渡る六藤橋の真下の川底には、ところどころ太い鉄線がむき出しになったコンクリートの円柱が横たわっています。発電所裏から川へ降りる流水路の出口にも、2メートル四方ほどの平たいコンクリートの板が沈んでおり、これらは昭和38年の大水で流された、旧六藤橋の残骸だそうです。上流を大規模な土砂崩れと鉄砲水が襲った後、樹木や家は濁流と共に川辺川を押し流されてきたと言います。
この災害によって交通網、電話網は完全に遮断。自衛隊のヘリコプターや小型飛行機が104台、消防団員や警察が延べ1000人以上出動し、行方不明者の捜索や、取り残された村民への物資援助、復旧工事を行いました。この時の被害総額は32億5000万円。全国から義援金が寄せられましたが、当時の村財政が6000万円という時代に、その54倍という巨額の被害総額でした。尊い人命や貴重な村施設、300戸を超える家屋や店舗、田畑が失われ、穏やかだった村内を暗鬱な空気が覆いました。
数日間の「陸の孤島」期間を置いてのち、人道と電気だけは間もなく仮復旧しましたが、完全な復旧のための工事は数ヶ月に及びました。そしてやっと復旧が一通り終わり、いつもの穏やかな生活が戻ってきたと思った、1年後の昭和39年8月23日。村を再び台風14号が襲います。この年は死者こそなかったものの、22戸が全壊・半壊・流失したほか、104戸が浸水しました。
さらにその1年後となる翌年7月。後に「7・3水害」と呼ばれる集中豪雨がまたも村を襲います。昭和40年のこの災害でも、五木では死者は出ずに済みましたが、再び38戸が全半壊・流失し、浸水家屋は156戸にも及びました。
昭和35年当時、五木村の総人口は6,161名を数えました。しかし10年後の昭和45年には、34%減の4006名へと激減します。また昭和35年には2267名だった第1次産業就業人口は、10年間でその半分以下の946名にまで大きく減りました。
3年間の水害は、村の産業構造を大きく変えたと言われます。
それ以前からも、五木村へは変化の波が徐々にやってきていました。コバ作(焼畑農業)から造林へ、自給自足的な生活から現金収入も取り入れた生活へと、ゆっくりと移り変わっていった時期にこの災害が起きました。皮肉にも無理な拡大造林計画によって、当時の山々がほとんど保水力を失っていたために、被害が拡大したという指摘もあります。3年連続水害によって、出荷を待っていた数百俵もの木炭も、何代もかけて少しずつ切り開いてきた田畑も、家も山もすべてを失った多くの人々が村を後にして行きました。時代はちょうど高度経済成長期に差しかかり、農山村から都市へと人口の集中が起き始めた時期でもありました。
そして7・3水害からちょうど1年後の、昭和41年7月3日。
建設省は、相良村藤田を予定地とする川辺川ダム建設計画を発表しました。
(第9回 おわり)
参考資料:
・『国が川を壊す理由〜誰のための川辺川ダムか』福岡賢正著、葦書房、1994第一版
・「五木村誌」五木村
おしらせ:
★2003年5月16日、川辺川利水訴訟結審!
12:00門前集会/14:00判決/14:30判決報告集会
場所:福岡高等裁判所(福岡市中央区城内1-1、地下鉄赤坂駅下車
徒歩10分)入り口
問合せ:川辺川利水訴訟原告団事務所 林田(T/F:0966-24-4844
携帯:090-1346-4526)
または川辺川を守る福岡の会寺嶋 yu@cown.npgo.jp
+ + + + + + + + + + おことわり + ++ + + + + + + +
・シリーズ『ダムと私的五木考』は、五木村で見聞きしたこと、文献に当たって調べたことを私的に記すものです。なんでもない話、ダムに関係なさそうな話も出てきますが、広い目で川辺川ダムと村を見ていく時の参考になればと思い内容に含めています。
・このシリーズの目的は、五木村の視点から川辺川ダムを見ることにあります。川辺川ダムのために揺れ続けている五木村を知り、五木村や流域と一緒に、川辺川ダム(中止)のその先を考えていくきっかけになれればと思います。
・私的に記しているため、部分的に正確な文献の裏付けのない部分もありますが、どうぞ御了承下さい。また事実と違う部分があったら、ご指摘お願いします→yu@cown.npgo.jpまで。
・発行者が不精者なので、定期的に流していける自信がありません。気が向いたとき、余裕がある時にだけ発行します。
・川辺川ダム反対を応援してくれる方には、出典が分かる形になっていれば、勝手にメールとして転送して頂いて結構です。国土交通省関係者による引用は絶対にお断りします。
・バックナンバーはどらごんさんがHPに掲載して下さっています。
http://www01.vaio.ne.jp/wild/index.html
・川辺川ダムをめぐる最新の情報は以下をどうぞ。MLもあります。
「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」
http://kawabegawa.jp/
発行:
川辺川を守る福岡の会、STOP!強制収用つんつん椿の会、川辺川流域を考えるユースの会(Youth
Kawabe)
寺嶋 悠 yu@cown.npgo.jp
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