+ 赤大根(あかだいこん) +
西俣(川辺川右岸側、五木小川沿いの地区)の出ル羽(いづるは)地区特産の、赤い大根のこと。
話に聞いたところでは、他の場所に植えると赤くはならず白い大根になるとか・・・本当なんだろうか!?ミステリーである。
+ 阿蘇神社(あそじんじゃ) +
頭地の下手と久領にある2つの神社。下手の方を「東俣の神社」、久領の方を「西俣の神社」とも言う。どちらも人吉市青井町にある青井阿蘇神社の分社。地元の氏神であると同時に地域全体の氏神を兼ねた存在。社家伝によると大同年代(806〜809)に創られた古社らしいが、永徳2年(1382)に「地頭朝師修創」との記録もあるらしい。「麻郡神社私考二」(元禄12年(1699)刊)の中にも阿蘇神社の記録がある。
神官は尾方芳郎氏。祈祷のほかに神楽なども行われていたらしい(現在もかどうかは未詳)。
+ 鮎(あゆ) +
川辺川の鮎はその大きさから「尺アユ」と呼ばれ、全国にファンも多い。鮎は遡上するので川辺川辺りでも大きな鮎が釣れる。村内にも川漁師がいるが、漁をする人は限られていて村民全部がするわけではない。球磨川本流は上流に市房ダムができて以来、川が汚れて鮎も減ったたので、下流から川辺川へ釣りに来る人も多い。味も色も、球磨川本流の鮎と川辺川の鮎では違うらしい。川辺川の尺アユは、ビッグコミックで連載中の「築地魚河岸三代目」でも紹介された。
+ 有佐(ありさ) +
五木村から最寄りのJRの駅は人吉駅だが、北から来る場合は有佐駅で下車するのも近い。ただし、有佐駅から頭地までは車で40〜50分ほどだが、有佐駅から大通峠越えの公共交通機関はないため移動の車がある場合に限る。鹿児島本線の熊本駅と八代駅の真ん中あたりで、小川町にある。大通峠を越えて宮原五木線を下りてくると、3号線とぶつかる交差点がある。そこをそのまままっすぐにすすむと、突き当たりが有佐駅。小さな白い駅舎で、どこか懐かしい。5月が近づくと、駅の近くに鯉のぼりが泳ぐ。
+ 安心どん(あんしんどん) +
田口お堂のそば、銀杏の木とお堂の間にある石碑のことを地元ではこう呼ぶらしい。即身仏を祀った信仰で、安心して亡くなったから安心どんと呼ばれるのかもしれないという話を聞いた。久領にも同じ石碑があり、そちらに刻まれている命日は、対岸の田口の石碑に刻まれている日付と数日違いだと聞いた(未確認)。田口では土の中に埋まった際に、長く行者の鐘の音が聞こえていたという言い伝えも残っているらしい。一方、即身仏の信仰は球磨郡一帯にあり、田口や久領のものもその一つだという説もある。
+ 「あゆみ」(あゆみ) +
五木村水没者団体の一つ、「水没者同盟会」の活動記録のタイトル。1巻と2巻がある。同盟会から見た、五木村、国、県のダムをめぐる経緯が詳しく記録されている。
い
+ 池の鶴(いけのつる) +
五木小川と川辺川の合流点付近で、五木中学校のある辺り。五木の新興地帯で、中学校が昭和26年10月にできて以来、村営住宅などができ、昭和47年11月には人吉高校五木分校も開設された。ホタル祭りの会場でもある。
+ 出ル羽(いずるは) + ![]()
西俣の一地区。小鶴トンネルを出てそのまま宮原五木線を少しすすみ、内谷方面に入って間もなく左折(南下)すると出ル羽の方に行く。
+ 銀杏(いちょう) +
五木村の各集落には、ほぼ一つずつお堂があり、その側にはよく銀杏の木が立っている。中には樹齢を重ねた巨木もあり、宮園の大銀杏は有名である。頭地にも田口のお堂の側に、大銀杏がある。秋になると金色の葉が柱のように立ち、遠くからでもよく目立つ。銀杏にはぎんなんのなる木とそうでない木がある。宮園は知らないが、田口の銀杏はぎんなんがなるらしい。拾いに行きたいところである。
+ 移転補償(いてんほしょう) +
ダムによって頭地以下下流が水没予定地に指定されたため、村外や村内代替地への移転が行われてきた。移転補償とは、水没予定地にある家屋や農地、山林を国交省が見積もり、補償を支払うというもの。精神的補償などは含まれず、川辺川ダムによる移転補償基準というものがあってそれに沿って額が決定される。一般に思われているほど高いものではないという話もあるが、個々それぞれによって額が違ってくるのでよく知らない。
移転補償契約に調印したら、補償金の7割が支払われ、水没予定地にある家屋を取り壊し、宅地も田畑も更地にした後で、残り3割が支払われることになっている。
+ 五木小川(いつきおがわ) +
東陽村との堺から五木村頭地で川辺川と合流するまでを流れる川で、川辺川の支流。五木小川に対して、川辺川を「大川」と呼ぶこともあるらしい。
+ 五木南小学校(いつきみなみしょうがっこう) +
→「南小」
う
+ 内谷ダム(うちたにだむ) +
五木村内谷にあるロックフィル式のダム。宮原五木線の途中のY字の分かれ道から入って、内谷集落を抜けてしばらく走るといきなり巨大な石垣が現れる。それが内谷ダム。揚水発電の上ダムになっていて、下ダムは九州自動車道から一瞬だけ見える。
+ うりゅうじいさん +
終戦の頃、頭地にある田口観音堂に住んでいたおじいさん。いつの頃からか村にやってきて、下駄を作ってそれを売って生活していたが、そのまま村で亡くなったのだそうだ。昔の山村にはこういった漂泊者がよく見られた。
え
お
+ 大久保(おくぼ、またはおおくぼ) +
村南部地区の大平、宮目木、葛の八重地区をまとめて大久保と言い、元は一つの行政単位だった。頭地には「大久保のダンナ」である田山氏がいる。ダンナが大久保地区にいないのは、近世になって頭地へ移転したためと言われている。
+ 大滝公園(おおたきこうえん) +
西俣、宮原五木線の白岩戸方面にある森林公園。四季折々の自然の移ろいを楽しみつつ、清流の瀬音を聞きながら遊歩道を15分ほど歩くと、その先に落差約35mの滝がある。頭地から車で20分ほど。
+ 大通峠(おおとおりとうげ) +
県道五木宮原線(県道25号線)を通って、東陽村との村境にある峠。現在は頂上にトンネルができたが、トンネル手前から入る旧道も残っており、そこを通ると見晴らしのよい本当の「峠」を通ることができる。昔のその「峠」には、アスレチックや子守唄像、トイレなどがある広い芝生の大通峠公園があって、天気の良い日にはピクニックに良。頭地から熊本へ抜けるには、人吉インターへ降りるよりも、大通峠を越えて宮原町へ抜ける方が早いらしい。宮原へ抜けたら3号線があり、松橋インターにもつながっている。
+ 大平代替地(おおひらだいたいち) +
水没予定地の大平地区(頭地より下流)から移転した人達のための代替地。大平は20戸弱の集落だったが、ほとんどが村外へ移転し、国道445号線沿いにある大平代替地には平成8年頃に3戸が移転した。大平トンネルの手前で、3家屋とサイエン(畑)、道を挟んで倉庫、霧島神社、お堂がある。445号線沿いの近くに冷たくおいしい水の湧き出る場所がある。
+ 大平銅山(おおひらどうざん) +
地名としては逆瀬川になるのだろうが、大平代替地の対岸には銅山があった。閉山と復活を繰り返し、現在では木々に埋もれてほとんど分からない。山を歩いていて、銅山の坑道跡と銅山労働者の墓を見つけたことがある。ダムによる工事用道路や右岸付け替え道路工事の際、この銅山労働者の墓と思われる無縁仏が見つかったらしいが、国交省が公告をしたかどうかを疑う声もある。無縁仏の処理はあいまいにされがちだからだ。工事の時に死亡事故が起きたことがあるらしいが、この原因は無縁仏の祟りではないかという噂すらある。
銅山の歴史については、地元の村でもおぼろげにしか記録されておらず、記憶が消滅してしまわないうちにきちんとした調査の急がれるところである。
+ お茶(おちゃ) +
五木村のお茶は「五木茶」として特産品となっている。五木は元々茶の栽培に適した場所のようで、コバ作の時に山を焼いた後、自然に山茶が生えてきていたほどだという。昔は山仕事に行って、自生した山茶をあぶって飲むこともあったらしい。野々脇にも製茶工場があったそうだし、村内には他にもあるとか。移転が進んでいるので未詳。森口商店は元々製茶もしてきた店で、子守唄公園にはお茶屋さんが出している店もある。
野生のお茶は「在来種」と呼ばれ、ヤマトミドリ、カナヤミドリなど。五木の各家は自家消費用に在来種を育ててきたが、ヤブキタ種が入り、味が良かったことや役場が栽培を奨励したことなどもあって、ほとんどがヤブキタ種に転作したらしい。在来種の茶畑は茶摘みの道がうねっていて、ヤブキタ種は後から植えたので整然とまっすぐに走っているため、茶畑を見ると在来かヤブキタかはすぐ分かる。村内で現在在来種を育てている人はほとんどいないのではという話。お茶を生け垣代わりに家の周囲に植えている人は多い。今はほとんどが製茶工場に出して加工するが、昔はみんな釜で煎る手揉み茶だった。今でも自家消費用に少し作っている家では、釜で煎っている家もあるとかないとか。
+ 温泉(おんせん) +
→子守唄温泉(こもりうたおんせん)
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か
+ カジ +
カジというのはカジ紙の原料になる木のこと。昔は山の暮らしは現金収入が少なかったので、カジの木を栽培し、業者さんに売って収入にしていた家もあった。(楮(コウゾ)のことをカジと言うのかも?)村内に製紙工場があったという話も聞くが・・・?
+ 梶原(かじわら) +
梶原集落のこと。下梶原(しもかじわら)地区もある。
頭地方面から行った場合、竹の川より右折し県道五木湯前線に入り、梶原川沿いに10分ほど行ったところから左折して、車で10分程度の場所にある集落。以前は太鼓踊りが伝えられていたらしい。また、県道を直進すればヤマメ養魚場のある下梶原地区に20分程度で到着する。下梶原は梶原川上流なのに、なぜ「下」なのか?興味深いところである。
また梶原、下梶原から水上村に抜ける道もある。
+ 金川(かなごう) +
五木村南部にあった集落の名前。9戸の茅葺き民家が並んでいたが、昭和60年までに村外移転を済ませ、集落そのものがなくなった。
集落には観音堂、馬頭観音像(個人所蔵)もあった。観音堂は民家が移転して20年たってから移転したので、その間に観音様が盗難にあってしまい、右岸付け替え道路沿いにあるお堂の中には何も祭られていないという状態にある。心ない人がいるものである。
+ 金川の共有地(かなごうのきょうゆうち) +
金川には強制収用にかかっている共有地があり、国交省と一部の地権者ら(錦町在住ほか)の間には、無縁仏埋葬問題、立木伐採、境界線の間違いなどの問題もあるが、未解決のまま収用委員会審理が打ち切られている。強制収用問題については:http://www01.vaio.ne.jp/wild/kawabeDAM/syuyo/kyoseisyuyo.htm
+ 茅葺き民家(かやぶきみんか) +
最近ではほとんどが瓦に葺き替えられたが、昔は茅葺き屋根の家ばかりだった。茅から瓦になったのは、材料の茅を手に入れるのが大変になったことと、茅の葺き替えにはかなり手間がかかることなど(茅は傷むので、10年に一度くらいは葺き替えなければならない)。瓦に葺き替えるのではなく、トタンで屋根全体を覆った家も時々ある。かつて子守唄公園にあった茅葺き民家は、一般家屋を移築したものだと聞いた。現在は頭地代替地に新子守唄公園ができ、再度移築されている。
なお、人吉市西間に横枕五十雄さんという画家がおられ、茅葺き民家を好んで描かれている。五木村の茅葺き民家をモチーフにしたスケッチや油絵もあって、画集や週刊ひとよしで紹介されている。
+ 川辺川(かわべがわ) +
五木小川とともに村の中心部を流れる川。「大川」「五木川」とも呼ばれた。古くから川沿いの迫に集落が形成され、魚など川の恵みや、田畑への水、主要な交易路として古くから五木村の文化と生活を支えてきた。道が整備されるまでは川は重要な交易路で、山から切りだした木はほとんどが「川流し」で人吉、八代まで下っていた。発電所や堰ができても、川流しに支障がないようになっていたが、そのうちに村に車が入りだし、道も整備されてきたので廃れていった。
昭和41年7月、建設省による川辺川ダム建設計画が発表され、長く五木村社会を揺るがしてきた川でもある。近年では、ダム反対運動の盛り上がりから清流川辺川の名前が全国的に知られるようになってきた。
川辺川ダムと五木村についてはこちら。
+ 川遊館(かわゆかん) +
道の駅温泉センター夢唄の一室にできた、全国でも珍しいヤマメ釣りとフライフィッシングの展示室兼、体験ツアー案内所。フライフィッシングの道具の展示や、竹竿やランディングネット、フライ(毛鉤)などのヤマメ釣りの道具を手作りする教室や、フライキャスティング講座、水生昆虫についての講座や野外料理教室などの体験メニューを用意。親子連れや初心者でも楽しめる内容を展開していく予定。
梶原川のキャッチアンドリリースや地域づくりを進めている「マダラ倶楽部」が監修。
+ 簡易水道(かんいすいどう) +
昔は川原のそばや谷水のわき水があって、その水を飲料に使っていた。衛生面や利便のために簡易水道が作られ、飲料や田畑の水はそこから引かれるようになった。田口にある頭地簡易水道は昭和37(1962)年の完成で、地元の人がみんなで作ったという。簡易水道ができたことで田んぼに水が引けるようになったそうで、それまでは一部の田しか水が引けなかったそうだ。
なお、頭地の簡易水道は現在は公営の水道施設そのものを指しているが、以前は掛橋谷から導水した施設を「田口の水道」と呼んでいた。つい最近まで田口地区の住民が単に「水道」と呼ぶ場合、この田口水道を意味している場合が多かった。
(例:水道修繕に行く ⇒ 田口水道の水漏れ修理に行く)
+ 観音さま(かんのんさま) +
いわゆる観音菩薩。五木村にはお堂が多いが、その中に祭られているものには観音様、お地蔵様、お薬師様が多い。
***現在鋭意作成中**
き
+ 祇園池(ぎおんいけ) +
清楽集落の対岸、野の脇地区より下流500mほどの川辺川左岸にある(った)。言い伝えでは、ここの池の魚は取って食べてはいけないと言われていたそうだが、ふざけて魚を取って食べた人が相次いで不幸になったと言う話もある。
祇園池には「片目の鮒」と「亀」がいると言い伝えがあったらしい。この亀は毎年のように瀬目の祇園神社(八坂神社)へ行くのだと言う(「五木の民俗」より)。
現在は瀬目トンネル掘削の影響なのか無くなったとの話も聞く。現地に行って確認したい。なお、瀬目トンネル内で交通事故が頻発するのは、この祇園池の祟りだと、言う人もいないでもない。
+ 祇園さん(ぎおんさん) +
瀬目の氏神である八坂神社の別名。北瀬目と言われる、瀬目の中でも一番高い位置にある。
→ 「八坂神社」参照。
+ 教育委員会(きょういくいいんかい) +
五木村役場の2階にある。村のことで電話で質問すると、担当課が分からないものは大抵、教育委員会か総務課につながられる。
昔は村の広報誌は公民館だより「館報いつき」と言って、教育委員会の活動の一つとして発行されてきた。現在では「広報いつき」となって総務課の管轄になった。教育委員会は学校関係や運動会、文化財保護など仕事が幅広い。役場の2階、見晴らしの良いベランダ付きの部屋が教育委員会の部屋。埋蔵文化財調査の仕事で現在多忙を極めている。今の教育長は兼田さん。
+ 霧島神社(きりしまじんじゃ) +
阿蘇神社とは別の系統の神社。大平代替地に、旧大平集落から移転した霧島神社が建っている。村内にここだけなのか、ほかにもあるのかは未詳。年に一度、11月(確か)にお祭りがあっている。
く
+ 苦渋の選択(くじゅうのせんたく) +
五木村がダムを受け入れた経緯を表す言葉。現村長がこの表現を使って有名となった(と記憶している)。
苦渋の大きさは村民一人一人にとって違い、中でも地権者協議会の中心メンバーや、ダムに反対と言葉に出すことのできなかった人々の苦しみは計り知れない。本当に苦渋の選択をした村民にとって、「苦渋の選択」という言葉を口にすること自体が苦しみに近いのではと思う。それが今では、ダム反対運動に対して、五木村のダム本体着工を正当化するための言葉として若干安易に使われることに、個人的には疑問もある。
いずれにしても多くの村民、元村民にとって、ダムと故郷のことは忘れようと思っても忘れられないものなのだと言う。
+ クズ(くず) +
昔祇園池に住むと言われていた大きな亀の名前。
→「祇園池」
+ 熊ヶ嶽(くまがたけ) +
江戸相撲の有名な力士。五木村平野の黒木家の出身で、平野のお堂のそばの銀杏の木の根元には、熊ヶ嶽の墓碑が祀られている。本名は黒木松五郎。頭地の道の駅物産館に錦絵が飾られてある。
+ 熊本日日新聞(くまもとにちにちしんぶん) +
熊日とも言う。熊本県では熊日のシェアは大きいが、五木でも結構多く読まれている様子。頭地辺りは毎日配達されるのだろうが、ダムサイトの山手にある相良村中ノ原地区では、熊日は郵便配達と一緒に届けられ、日曜日は新聞はお休みなのだそうだ。おそらく五木の山の奥の集落でも同じなのではと思われる。お昼近くになるまでその日のニュースが届かず、もちろん番組欄も見ることができないわけで、当然夕刊を購読することも難しいのではないと思われる。
熊日は地方紙であるので、早い時期から川辺川ダムと五木村の問題を取り上げてきた。ダム反対運動が現在ほど盛り上がる前までは、川辺川ダムと言えば9割がたは五木の問題として書かれていたが、最近では逆に9割がたが下流や地元以外の問題として報道され、五木の問題として報道されるのは1割程度。地元不在なのは村内に現在激しいダム反対闘争がないからもあるだろうが、地元が抱える問題として川辺川ダム問題は極めて大きく、地元の視点に着目した報道として熊日に期待したい。
川辺川については以前から報道されてきたが、ここ近年では「考 川辺川」というシリーズの中で「五木日記」「続 五木日記」を経て、現在は「五木から」といる連載が不定期で掲載されている。中でも、「五木日記」は、2000年1月23日付から2001年4月1日付まで285回にわたって連載され、『山が笑う村が沈む〜ダムに揺れる五木の人びと〜』(熊本日日新聞編、2001年、\1800、葦書房)として出版された。私のイチオシ、必読の書である。ぜひご一読を進めたい。 → 葦書房
+ 栗(くり) +
近代になって栗の栽培が広がった。それまで栗を植えるという発想はなかった。収穫した栗は収入源になったが、最近では猿害があまりにひどく、村の人たちの悩みの種になっている。相良村や人吉でも山の方では栗園が多い。
栗と言えば、瀬目公園の売店「四季の里」には季節限定で手作りの栗饅頭が販売されている。4個入り\350。栗あんがぎっしり詰まっていておいしく、オススメの一品。
+ 久領(くりょう) +
頭地の一地区。頭地橋の西側の地区で、消防署、新泉寺、五木屋本舗、久領公会堂、チッソ頭地発電所がある。つい最近までは郵便局と派出所も久領にあった。久領にも薬師堂があって、その裏には村で最も古いという土屋家の墓碑があった。墓碑は頭地代替地へ移転されていて、今は久領にはない。
け
+ 渓流(けいりゅう) +
五木村は渓流だらけで、ヤマメの格好の棲家となっている。ただヤマメ釣りなどで意外と多くの人が入り込むようになったため、五木村の古来のヤマメはそのため激減してそうだ。注意したいところである。
+ KGFF(ケージーエフエフ:Kumamoto
Game Fishing Federation) +
熊本や南九州での渓流釣りを愛する人々のクラブ。
梶原川キャッチ&リリース(保全のために釣ったヤマメを再度放流する)の取り組みを、地元の紅葉の里検討会、球磨川漁協、村と一体になって手伝ってきた。梶原川で開かれる毎年のマダラフォーラム、地元マダラ倶楽部の取り組みをさまざまな面で支えている。
http://www.yamame.net/kgff/
こ
+ 甲・乙・丙(こう・おつ・へい) +
五木村の住所は、田口、下手や竹の川などの地名で書かれることもあるが、五木村甲、乙、丙○番地と書かれることも多い。
大まかには川辺川と五木小川を境に分かれていて、川辺川左岸が甲、五木小川左岸が乙、五木小川右岸・川辺川と五木小川合流点より下流の右岸を丙となる。
ただし甲は川辺川左岸のうち、正式には五木小川をのぞく川辺川の支流域も含む。しかし掛橋谷はなぜか含まれない…(注:推測であるが、掛橋に向かうためには一度川辺川を頭地付近で右岸側に渡る必要があり、そのため久領との関係が深く、五木小川の左岸を意味する乙になったのではないか?と推測する)。なお久領は川辺川沿いではあるが五木小川の左岸を意味する乙である。
+ 工事用道路(こうじようどうろ) +
付け替え道路を作るための、工事用の仮道路。
川辺川左岸で国道445号線の付け替え工事が行われており(頭地までは通っているがその以北が建設中)、右岸でも旧道の付け替え工事が行われている。右岸の方が後から工事を始めたのと、地質が悪く作る側から崩壊しかけているようで、進行状況が遅いようす。
+ 庚申塔(こうしんとう) +
五木村には庚申塔も多くある。 お堂の側にあることもあれば、道端などにあることもあるらしい。庚申信仰がどのように村内に存在するのか、興味深いところである。
+ 国道445号線(こくどう445ごうせん) +
相良村から五木村へ上がる道で、ダムサイト手前からは付け替え道路になっている。1982年までは県道だった。川辺川沿いに五家荘方面まで続いている。
+ コバ作(こばさく) +
焼畑農業のことを、五木村ではコバサクと言う。コバ(山林)を切って焼き、その後ソバやマメ、カライモなどを3〜4年かけ続けて耕作する。地力が弱くても育つ作物は後で作る。4年ほど耕作し、地力が弱まったらそのまま20〜30年くらい放置して、自然に草木が生えてくるのを待つ。これをアラスと言う。コバサクは昔はどこの家でもやっていた。自分の持ち山や共有林、あるいはダンナから借りた山で耕作していた。共有地でコバサクをする場合には、途中まで共同作業をしてその後個々人の土地ごとに作業を進めるものや、最初から区分してその土地を耕作するもの(区分した土地をワリコバという)など場所によっていろいろな形態があった。ダンナから借りた山でも、この辺りはどの家がコバサクをするというのが大まかに決まっていたらしい。収穫物は分収林のように貸し手と借り手で分けたり、焼酎を持って挨拶に行ったり、ダンナ家の作業を手伝いに行ったりという形だったようだ。五木でコバサクが多かったのは、農地が絶対的に少なかったためで、日常的な食料を得るための農地が不足していたからと、山の土が肥えていたのでコバサクに向いていたためではないかと思われる。
+ 小浜代替地(こはまだいたいち) +
川沿いにあった小浜集落の住民が移転するために作られた代替地。当初は移転予定者も多かったらしいが、代替地造成が遅かったことで数が減り、また代替地上斜面で亀裂が見つかったので危険ではないかと不安に思った人も移転を取りやめたため、結局3戸分の土地が移転者もないまま国道沿いに残されている。川辺川工事事務所の出張所がある付近。
+ 子別峠(こべっとうげ) +
こべっとうげ、こべっとうとも言われる。五木の人は単に「こべっとう」と呼ぶ。川辺川上流の平沢津辺りにある峠のこと。
名前から考えると、子どもと別れる峠だったのだろうか。
+ 子守唄(こもりうた) +
五木の子守歌はあまりにも有名である。昭和30年頃に、NHKの放送終了時の曲として流され、哀愁漂うメロディに魅せられた人々からNHKに問い合わせが殺到したとか。
五木の子守唄は球磨地方に伝わる唄の一つで、それぞれ歌詞や節まわしが微妙に違う。五木村でも、よく聞かれる「五木の子守唄」とは歌詞とメロディが少し違う、「正調 五木の子守唄」というのがあって、堂坂よし子さんはその歌い手として、五木の子守唄の大ヒット後あちこちで歌う機会があったそうだ。
現在では宮園の川辺みゆきさんが歌い手として受け継いでいる。
五木の子守唄の歌詞にはいろいろある。一般に知られているのは以下のもの。
一 おどま 盆ぎり盆ぎり
盆から先ゃ おらんど
盆がはよ来りゃ はよ戻る
二 花はなんの花
つんつん椿
水は天から もらい水
三 おどま かんじんかんじん
あん人たちゃ よか衆
よか衆 よか帯 よか着物(きもん)
これ以外に、村内に伝わっている子守唄のさまざまな歌詞について五木中学校生徒が調査をしたことがある。着眼点がすばらしい。
+ 子守唄温泉(こもりうたおんせん) +
五木温泉センター夢唄というのが正式名称。かつては旧頭地の真ん中より少し北側、子守唄公園の中にあったが、今年4月から頭地代替地へ移転して新装オープンした。大人\300、子ども\200で夜21時まで営業。物産館等と合わせ道の駅の一施設として、第3セクター「いつきむら」が経営している。地下1100mからほりあげた低温(30度くらい)の温泉を沸かしなおした温泉。
|
◆泉温 30.1度 ◆掘削深度 1,100m ◆pH値 8.02 ◆湧出量 315L/min ◆ラドン濃度 0.38M.E/kg ◆泉質 単純温泉(低張性、弱アルカリ、低温泉) ◆効能 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消火器症、痔病、冷え症、病後回復期、疲労回復、健康増進など |
+ 子守唄公園(こもりうたこうえん) +
川辺川ダムによる移転により、2004年4月から頭地代替地へ移転した。郵便局の隣り、温泉センターのはす向かいになる。
茅葺き民家が移築されていて、5月の連休中には野点などイベントもあっていたらしい。周囲にはお茶が植えられ、子守唄の像もある。
なお、以前の子守唄公園にあった「ママあいたかった」の像は、現在は道の駅物産館の前に移っている。川がちょっと遠くなってしまったのが残念。
<かつての子守唄公園について>
頭地の溝の口にあった公園のこと。駐車場、温泉、トイレ、うどん・そば屋、おみやげ物屋が併設されていた。公園内には、村が「子守唄の里彫刻コンテスト」を行った際の作品が並んでいた。子守唄公園の左奥にあるのが、「ママ 会いたかった」というやさしいフォルムの作品。村内のあちこちにこのコンテストの入賞作がある。また、温泉前には森重久彌筆の石碑があり、その石碑を見ようと近づくと自動的に「正調 五木の子守唄」が流れるしくみなっていた。
子守唄公園で最も残念なのが、水辺へ下りる道が分かりにくいこと。左奥の「ママ 会いたかった」の裏へ回ってジグザグに下りていく道しか知らないが、もしかすると森重久彌氏の石碑の裏辺りからも下りられるのかも。
なお、どうせ川へ下りるのならば、もう少し下流の森林組合の、道を挟んで川沿いの隣りの方へ回っていくと、コンクリの細い路地があるので、そこに沿って下りて行ける。玉石の砂利になっていて、数m歩くと大きな岩場もある。この岩は、昔頭地橋がなく対岸と船で行き来をしていた頃の船着場だったらしい。昔は涼しい木陰が広がっていて、本当に気持ちいい場所だったのに、国交省がダム計画に伴って無情にも切り倒したので木陰がなくなった。(おっと話が脱線してしまった)
+ 子守唄の里(こもりうたのさと) +
五木村の村づくりのコピー。心のふるさとである。
+ 子守唄祭り(こもりうたまつり) +
商工会が毎年11月に主催している村一番の祭り。地元の人達による芸能や木遣り唄(木を切り出す時の唄)などの披露や、バザーなどもあってみんな楽しみにしているらしい。私はまだ参加したことがないので、今年こそはと思っている。会場は通常であれば旧五木東小学校グランド。去年は試験的に会場を村内に分散させて開いたが、あまり評判が良くなかったとも聞く。できれば、村民みんなが参加できるよう、例年通りの場所で開くのが良いのかもしれない。http://www.kumashoko.or.jp/itsuki/event/html/event_001.html
+ 子守茶屋(こもりちゃや) +
子守唄公園にある茅葺き民家タイプのそば屋さん。五木屋本舗が経営している。うどん、そばの他、焼酎や山うに豆腐などもある。お茶受けに豆腐の味噌漬けや山ごぼうなどが各テーブルにあり、料理を待っている間も待ち飽きない。のどこさぎソバというメニューがあって、ぶつ切りにしたソバに山芋がかかっていた記憶がある。「のどこさぎ」とは五木の子守唄の歌詞に由来している。隣の売店にはおみやげもあって、山うに豆腐を試食できる。
さ
+ 猿(さる) +
五木村ではここ10〜15年くらいの間に、猿や鹿が激増しているらしい。猿は最近では国道沿い、川沿いにまで降りてくるようになって、庭先の野菜を荒らしたり、山の椎茸や栗を食べ尽くしてしまったりとかなり悪質ないたずらをして住民を困らせている。猿も鹿も駆除申請をして駆除することがあるが、猿は人間に似ているので銃を向けるのをみんな嫌がるそうだ。庭仕事をして家に戻ってきたら、玄関のたたきに猿が座っていたとか、庭で音がするから戸を開けると猿が大根を小脇に抱えて逃げようとしていたとか、嘘みたいな本当の話も多い。山の栗畑や椎茸を守るために、電気の通る防御ネットを買って設置しても、猿は木から木へ飛び越えてくるので役に立たない。イノシシは、電気の通っていない線を鼻先で引っ張って通れるように穴をあけたり、ネットの下に穴を掘って入ったりするそうだ。
猿が川を渡って移動する姿もよく見られ、国道445号線を歩いていても時々「ギャー」「キー」という猿の叫び声を耳にする。
猿や鹿を可愛いと言っていられるのは、ヨソ者的視点である。地元は生活がかかっているのである。猿やシカ、イノシシの被害に遭うと、収入が減るわけだが、役場やJAなどからは十分な被害補償は行われていない様子。今のままではイタチごっこで、効果的な対策が急がれるところである。
+ 逆瀬川(さかせごう) +
水没予定地の一つ。九電の無人発電所がある。
→ 「水没地」
+ 逆瀬川九電第二発電所(さかせごうきゅうでんだいにはつでんしょ) +
→ 「発電所」
+ サド + ![]()
野草の一種、イタドリのことを地元ではサドと呼ぶ。道ばたに生えていて茎にえんじ色の斑点があり、手折ると「ポキッ」という音がする。よく似た植物に「ヘビサド」というのがあり、こちらは食べられない。見分け方は茎のえんじ色の斑点の大きさ、数(ヘビサドは斑点が薄く数も少し少ない)や、茎が節に関係なくまっすぐのびているかどうか(サドの方がまっすぐ。ヘビサドは節を境に若干曲がっている)、それに手折ったときに音がするかどうか(サドは音あり、ヘビサドはなし)だそう。皮を剥いてそのままかじったり、塩漬けにした後で炒め物にするのが一番オーソドックスで、その他炊き込みご飯などにする調理法もある。
し
+ 椎茸(しいたけ) +
五木あたりではナバとも呼ばれる。きのこ一般をナバということもある。多くの家が自家消費用に椎茸栽培をしていて、中には生業として育てている家もある。山に囲まれた五木にあって、重要な現金収入手段の一つだった。近年、鹿や猿による椎茸被害が大きくなり、全滅に近い年も出ているという。対策が急がれる。村内のお店や物産館などでは、生シイタケや乾燥シイタケを購入できる。生シイタケのサイズがでかい。
+ 鹿(しか) +
猿同様、鹿の数も近年で激増している。山が荒れていたり、林道が増えたりしたためか、最近では里の方まで降りてくる。頭地代替地あたりでもたまに鹿が歩いているのを見る。五木村の人口より鹿が多いそうで、駆除をしても切りがなくて困っている。
→ 「猿」の項参照
+ 四季の里(しきのさと) +
国道445号線沿いに相良村から五木へ入ると、途中左手に展望台と売店がある。ここが瀬目公園で、この売店が「四季の里」である。四季の里は、瀬目という標高500mくらいのところにある7戸の集落で、四季の里はここの婦人部、老人会が一緒になって「マロン会」というグループを作り、地元産の農産物や山菜の加工品を生産し、お店を運営している。
詳しくは週刊ひとよし記事を。
朝8:00〜16:00。定休日は毎週火曜日。TEL0966-37-2822
→ 関連「瀬目公園」
+ 地獄の一丁目(じごくのいっちょうめ) +
相良村から五木村へ抜ける道は数十年前まで悪道で、カーブが多い上に狭く見通しが悪かった。車体をガードレールや岩でこするのは日常的で、トラックもガリガリ音を立てながら走っていたらしい。途中でバスがはまって動けなくなり、乗客が降りてバスを押したという思い出話もある。事故も時々起こったため、相良村藤田の辺りのカーブは「地獄の一丁目」とも呼ばれていたと聞いた。
+ 地蔵(じぞう) +
五木村にはお堂が多く、お地蔵さまもかなり多い。堂に祀られていることもあれば、道ばたにひっそりと祀られていることもある。
耳の病気に効くお地蔵様(金川?)、安産と子どもの成長を願う子安観音(田口)などもある。
**現在鋭意制作中**
+ 地蔵前婚(じぞうまえこん) +
五木では古く、地蔵前婚の風習があった。結婚式の時に2体の地蔵を花婿、花嫁が結婚式の場所まで運び、その前で結婚の誓いを行うもの。今では行われていないが、その時に使った地蔵が、頭地の新泉寺の入り口に残っている。
+ 下谷代替地(しもたにだいたいち) +
水没予定地になった下谷集落からの移転者の家と、村営住宅がある。国道445号線から山手に少し上がったところで、国道からはあまり見えない。
+ 下手(しもて) +
頭地地区の一番下流側にある集落。上流側に田口、川を挟んで久領と隣接している。村の入り口であり中心地で、旧役場庁舎、森林組合、商工会(この二つは現在も下手にある)、民宿(五木荘は今も下手にある)、商店(代替地へ移転、あるいは閉業)、ガソリンスタンド(去年末から代替地へ移転)などがあった(ある)。下手はさらに二瀬、栗瀬、舟戸の3地区に分かれていたので、3人のダンナがいた。下手のお堂が頭地橋のたもとにある。
+ 下頭地ダム(しもとうじだむ) +
昭和28,29年頃から電源開発株式会社が発電ダム計画の調査を始め、昭和32年には「下頭地ダム計画」を発表した。下頭地とは、板木から下手に至る地区の名前。その後建設予定地は突然、下流の藤田地区(現在の川辺川ダム計画地付近)に移動。村の中心地を一企業の利益のために水没させるという計画に、村と村民は強く反対を表明。電源開発は昭和35年前後に計画を中止せざるを得なくなった。板木には電源開発の事務所まで作られていたらしい。この電源開発のダム計画では11万〜14万キロワットの発電が計画されていた(現在の川辺川ダムは、1万6500キロワット)。電源開発のダム撤退には、下流の球磨村で計画していた神瀬ダム計画が、同じく人吉市民らの反対運動等によって中止を余儀なくされたこととも関連しているらしい。
電源開発社によるダム計画はここで一旦白紙になったが、その後、国土総合開発計画の中で下流の高原台地への灌漑ダムとして再度着目され、昭和38年からの水害後には治水ダムとして有力候補となり、昭和41年7月になると川辺川ダム計画が発表されることとなった。この後、村がダムを受け入れざるをえない状況に追い込まれる背景には、国と県による五木村への強引な圧力があった。
+ 商工会(しょうこうかい) +
http://www.kumashoko.or.jp/itsuki/
昭和38年12月24日設立。会員は53名(業種区分では59名)。頭地地区下手にある。青年部、女性部がある。会長は田山淳士(きよし)さん、副会長は田中雄士さんと早田吉臣さん。地域の発展、商工業の振興と村の活性化を目指し、会員一丸となってさまざまな活動に取り組んでいる。ホタル祭りなど商工会主催イベントもある。
所在地/〒868-0201球磨郡五木村2909-3
TEL/ 0966-37-2321
FAX/ 0966-37-2323
mail/ maito:ituki@lime.ocn.ne.jp
+ 縄文遺跡(じょうもんいせき) +
五木村には至るところから縄文遺跡が出ている。有名なのは五木東小学校校庭の頭地下手遺跡だが、ダム関連工事実施前の埋蔵文化財発掘調査によって、鏃(やじり)、土器片、住居跡などさらに多数の遺跡が出てきた。
+ ショーローさん(精霊さん) +
先祖の霊のこと。毎年お盆になったらショーローさんが帰ってくると言われた。お盆にはお墓を掃除して花やお神酒を供えた。ショーローさんは家まで帰ってくるので、家ではごちそうを作った。
+ 白滝(しらたき) +
五木小川沿いにある、高さ70m、幅200mの石灰岩の岸壁。近くに白滝公園がありそこから行ける。人吉から1時間、宮原町から40分。産交バス小鶴バス停から歩いて5分。→ 商工会のページhttp://www.kumashoko.or.jp/itsuki/kanko/html/kanko_004.html
+ 人高(じんこう) +
人吉高校のこと。人吉市北願成寺にある人吉高校本校を指すこともある。これに対し、五木村中学校に隣接している人吉高校五木分校は「五木分校」「分校」と呼ばれることもある。
+ 振興公社(しんこうこうしゃ) +
高野代替地にある村出資の法人。温泉センター運営など、村営施設の運営をしている。
+ 新泉寺(しんせんじ) +
五木村頭地の久領にある曹洞宗のお寺。現在の住職は吉澤庸道氏。
境内には大平銅山労働者のための観音堂や、歴代住職の墓、地元の人の墓地などがある。お寺へ続く門には、1対の向き合ったお地蔵さんがいるが、これは地蔵前婚の風習の名残。結婚式のたびにここからお地蔵さんが式場へ運ばれたらしい。
+ 森林組合(しんりんくみあい) +
五木村頭地の下手にある。林業家の組合で、山から木を切り出す時には個人で切るか、森林組合に依頼して労務班の人に切ってもらう。西村村長は長く森林組合に在職されていたらしい。
す
+ 水害(すいがい) +
大雨による災害を水害とするならば、昭和38年からの3年連続水害は五木村の歴史を変える大きな出来事だった。中でも五木村で最もひどかったのは昭和38(1963)年の水害だった。朝、小降りだった雨は10時頃から「天の底が抜けたような」豪雨に変わり、村内数カ所で大きな土砂崩れや鉄砲水が相次ぎ、死者11名が出る被害となった。増水と土砂崩れで家を流された人も多く、交通路は寸断され、出荷を待っていた炭や田畑もすべて台無しになった。当時の山は拡大造林の真っ最中で幼木が多かったことも原因の一つと言われている。
この水害は下流人吉でも洪水となり、治水ダムの話が持ち上がり始めた。38年の水害から1年後、2年後も同じような水害が続き、復興しつつあった村は再度大きな打撃を受けた。災害復旧工事は村の産業構造を変え、衰退しつつあった炭焼きや山の仕事が減って行った。昭和41年7月、突然国土交通省は「川辺川ダム計画」を発表。ダムの目的は治水だったが、その後間もなく、利水と発電等が加わり、多目的ダム計画になった。またダムによる水害を防ぐためにと、県営五木ダム計画もある。これは川辺川上流に建設予定となっていて、いわゆる「穴空きダム」だそうだ。
+ 「水源地域対策特別措置法」(すいげんちいきたいさくとくべつそちほう) +
法令は http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S48/S48HO118.html
または http://www.houko.com/00/01/S48/118.HTM
同法施行令は http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S49/S49SE027.html
→国土交通省 土地・水資源局水資源部
「水源地域対策特別措置法」について
http://www.mlit.go.jp/tochimizushigen/mizsei/i_watersupply/watersupply01.html
→(財)日本ダム協会 ダム事典
「水源地対策特別措置法」
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jdf/Dambinran/binran/Jiten/Jiten_07.html
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■水源地対策特別措置法 ダムの建設は地域に与える影響が大きいので、ダム周辺の地域振興を図るため、昭和48年10月17日に水源地域対策特別措置法が制定され、水源地域の振興のための中心的な制度として大きな役割を果たしてきています。 この法律は、水源地域の生活環境、産業基盤等を計画的に整備し、併せてダム貯水池の水質汚濁の防止等により、水源地域住民の生活の安定と福祉の向上を図り、これらを通じてダムなどの建設を促進し、水資源の開発と保全に寄与することを目的としています。 対象となるのは水没戸数20戸又は水没農地20ha以上のダム(補助率嵩上げの対象となるのは、150戸又は150ha以上、北海道などについては例外あり)で、この要件に該当するダムが対象ダムとして指定され、水源地域整備計画が策定され、整備計画に基づいて道路、下水道、レクリエーション施設、公民館、福祉施設など広範な整備事業が実施されます。事業実施のための費用については、国の補助(一部のダムは補助率の嵩上げ)があるほか、水源地域の市町村や県が負担する事業費の一部を受益者(下流の自治体や水道、発電などの事業者)が負担する制度も盛り込まれています。 昭和49年4月に法律が施行されてから平成15年1月までに94ダム1湖沼水位調節施設が指定され、このうち84施設については水源地域整備計画が策定され、さらに、このうち45ダムについては整備計画に基づく整備事業が完了しています。 なお、法律の名前は、略して「水特法」と呼ばれることがあります。((財)日本ダム協会 「ダム事典」より) |
+ 推進派(すいしんは) +
川辺川ダム建設に賛成して推進する立場に立つ人たちのこと。ダム反対派は「反対派」と略される。
川辺川ダムの推進、反対によって、平和な村は一転した。小さな村は二分され、特に「明確なダム反対派」は常に少数派であったため、村内でも周囲からプレッシャーをかけられる立場にあった。ダム推進派と呼ばれる人びとでも、ダムの底に故郷を沈めることを喜んだ人は誰もいなかったと言われる。ダムに付随する道や生活基盤整備を待ち望み、国と県、世論に対してダム中止を貫くことは困難と判断した人たちが、より良い条件でダム受け入れをしたと言われている。しかし、ダム反対派にとっては、性急な手続きでダム受け入れへ走り出す村当局と建設省(当時)は自分たちの生活権を脅かし、村の将来まで破壊しようとする存在であり、彼らに対してある意味で賛同の立場を取った村内の「条件付きダム賛成派」の存在もまた受け入れがたい存在であった。逆に推進派にとっては、堅固なダム反対派が村内にいることによって、ダム計画が延び、村づくりが遅れ、結果的に人口流出を招くとされ、一つの問題に対する捉え方の違いは、対立の深まりという悲劇を生みだした。国、県がその仲介をすることはなく、早い時期にダム受け入れを決めた村とともに終始ダム推進の立場から反対派にダム受け入れを迫ってきたと言える。
五木村には公務員や森林組合など、公的な機関で働く人も少なくなく、また建設業に従事する人も少なくない。彼らは自分の立場を表明することは難しく、公務員は公務員で行政の立場に従うしかなく、建設業従事者の心理もまた複雑なものがあった。なお、推進、反対以外にも明確に立場を表明できない人びともいた。
+ 水対協(すいたいきょう) +
→ 「水没者団体」
+ 水特法(すいとくほう) +
→「水源地域対策特別措置法」(すいげんちいきたいさくとくべつそちほう)
+ 水没者対策協議会(すいぼつしゃたいさくきょうぎかい) +
→ 「水没者団体」
+ 水没者団体(すいぼつしゃだんたい) +
ダムによる水没地となった場所に住む人を水没者と言った。水没者は建設省(当時)との間で補償交渉をしなければならなかったが、個人個人で交渉するよりも、水没者で団体を作り交渉に当たるのが慣習となった。五木村でも水没者団体が組織された。
五木村には:
1)五木村ダム対策委員会/ダム計画発表後に、当時の村長を会長として結成された。村条例に基づく委員会ではなかったこともあり、水没者団体としての位置づけや税金支出について、村内から疑問の声が上がり、住民監査請求や村長を被告に裁判も起きた。そのため後に解散した。
2)五木村地権者協議会(地権協)/元々の名称は「生活権を守る会」。昭和51〜59年まで、裁判闘争を行った団体。当初はダム反対ではなかったが、村行政と国、県への不信が募り、最終的にはダムの基本計画取消を求めて闘った。名前の通り、水没地や代替地予定地の土地所有権を持つ人が多かった。最も多い時期には82戸が参加していた。さまざまな事情から、昭和59年、国との間で和解するに至った。
3)五木村水没者同盟会(同盟会)/村主体のダム対策委員会が解散したのち、その主要メンバーで結成した水没者団体。水没者団体の中で最も多数を占めた。ダム反対ではなく、村と個人にとってより良い条件で補償交渉を進め、地権協とは最も方針が分かれた団体。
4)五木村水没者対策協議会(水対協)/ダム対策委員会のうち、同盟会に入らなかったメンバーで結成した水没者団体。主に代替農地造成を求めて国と交渉を行った。
があった。当初は「ダム対策委員会」だけしかなかったが、ダム対策委のやり方に疑問を持った村民有志が地権協を結成。国はその存在をしばらく認めなかったが、徐々に無視できない動きとなったため、水没者団体として認定して交渉を開始した経緯がある。地権者協議会の姿勢は、立村計画のプランを作らないままに走り出す村行政と国、県に対する牽制であり、治水機能への疑問、村や国・県の村民に対する一方的な押し付けなどについて疑問を投げかけた。現在下流で起きているダム反対運動の動きから考えると、正に先見的な取り組みだったが、当時地権協は常に少数者であり、世論の弱さから村外からの支援と結び付くこともなかった。
+ 水没地(すいぼつち) +
川辺川ダム計画で水没予定地となった地区のこと。水没地の民家は移転対象となった。
下流から、小浜(こはま、おばま)、金川(かなごう)、清楽(せいらく)、野々脇(ののわき)、大平(おおひら)、逆瀬川(さかせごう)、下谷(しもたに)、板木(いたぎ)、頭地の下手(しもて)・久領(くりょう)・田口(たぐち)・溝の口(みぞのくち)、池の鶴(いけのつる)、高野(たかの)、土会平(つてひら)、元井谷(もといだに)である。
村が補償基準を受け入れた昭和59年4月当時で、村の総人口3356人(1019世帯)。そのうち水没地人口は43%に当たる1457人(493世帯)だった。
+ 水曜会(すいようかい) +
今から7,8年ほど前に地元若手有志で作られたむら作りグループ。ダム建設を前提としながらも、若手であり村外の視点を持つ有志たちが、自由さと大胆さで活気ある五木村の地域おこしやむら作りに関わった。特に、後の村自身による地域振興策である「五木村ルネッサンソン計画」策定の際には、実質的に水曜会メンバーが関わり、行政ではない、村民の立場から提言づくりに関わった。現在は活動していないのが惜しまれる。
+ すっぺんこっぺん +
五木村の方言で、「四の五の(言わずに)」「ぶつくさ(言ってないで)」というような意味を表す。不平を口にしてあれこれ言っている様子をたしなめる時に使うようだ。
せ
+ 清水バイパス(せいすいばいぱす)
+
国交省がダムにからめて計画している、その効果がまったく謎の構造物。
板木(頭地より少し下流)に「水位維持施設」という副ダムを作り、右岸側の山にトンネルを掘ってダムサイトにまで通すもの。
ダム湖の上流の方にある澄んだ水を下流に流すので、ダムができても水質は維持されるというのが国交省の説明。
だが極めて非現実的な話であることは、多くの人が知るところである。また現在かなりうやむやにされつつあるが、五木村は清水バイパスと選択取水装置の建設にはまだ同意していない。
+ 西南の役(せいなんのえき)
+
明治10年の西郷隆盛率いる薩摩軍と当時の官軍との戦い。西郷隆盛は人吉の安国寺に陣を構え、五木村もまた戦場となった。薩摩軍に味方したダンナ家が後に政府からお咎めを受けたが恩赦で許されたという古い資料があるらしい。薩摩軍は逃げ去る時に五木の家々に火を放ったため、五木村では築120年を超える古い民家が少ない。西南の役は地元の人には、火攻めとして記憶されている。
+ 勢子(せこ) +
猟をする時に獲物を追い立てる役のこと。
カワンタロウ、ヤマンタロウのことを「せこ」とも言うとも聞いた。
+ 瀬目公園(せめこうえん)
+
五木村南部地区、国道445号線沿いにある展望台と売店、トイレのある公園のこと。道を挟んで「瀬目の滝」へ続く遊歩道がある。
→関連「瀬目の滝」「四季の里」
+ 瀬目の滝(せめのたき)
+
瀬目公園から山手に入る遊歩道をしばらく歩くとある滝のこと。休憩ついでにどうぞ。
+ 選択取水装置(せんたくしゅすいそうち) +
清水バイパスと並ぶ、これまた効果に大きな疑問のある設備のこと。ダム計画に関連して計画されている。
ダム水門に付けるもので、下流に流す水を、水温と汚濁度に応じてダム湖のどの高さの水の層から取水するか操作できるものらしい。
しかし数々の調査でも、この効果には大きな疑問符が突きつけられている。
それを執拗なまでに認めない国交省の姿勢にも大いに疑問がある。
そ
+ そば +
五木そばと言えばブランドになっている。しかし、一般のお店で売っている、子守をしている女の子の絵が付いた「五木そば」の多くは、五木村や球磨地方の生産ではなく、大抵熊本市や県内のほかの場所にある会社が作っている。五木そばが有名なのは、コバ作でソバを作ったり、気候の良い斜面を利用してそばを作ったりと、村の特産品だったからだと思われる。最近では村内でそばを作ったり、農業を営む人が減っているため、純粋な村内産のそばは滅多にないらしい。個人消費用に作っているという家はある。
そばは、そば切りにしたり、そば麺にしたりする。そば切りとは、小さな器にそば粉を入れて湯を少しずつ足し、練って箸にからめて醤油を浸けて食べる料理。そば麺はシロウトには難しいらしい。村の人から前に自家製そば粉を譲ってもらったことがあるが、やっぱり地元のそば粉でつくったおそばはおいしい。生産者の顔が見えるのがいい。
+ 村営住宅(そんえいじゅうたく) +
代替地の中には、村営住宅が立っているところもある。野々脇代替地前のバス停も「野々脇村住前」だった気がする。野々脇代替地や下谷代替地など。わたしも村に住みたい。
+ 村花(そんか) +
村の花。五木の村花は「つばき」。
+ 村木(そんき) +
村の木。五木の村木は「いちょう」。
+ 村議会(そんぎかい) +
五木村の村議会は、現在議席10席。現在の議長は照山哲栄氏。最若手の議員は40代の早田、田中議員。定例議会は3,6,9,12月。議場は五木村役場2階にあり、議会事務局から議会だより「やまめ」が発行されている。事務局に依頼すれば議会だよりや議事録も分けてくれるかコピーさせてくれる。
+ 村章(そんしょう) +
村のマーク。五木の村章は下のもので、器と杵臼を表す。丸は太陽。五木村の平和と発展を意味している。

+ 村長(そんちょう) +
現在の村長は、西村久徳(にしむらひさのり)氏。昭和60年に前任者が議会から不信任を受けた後に当選し、現在まで5期を勤める。
+ 村鳥(そんちょう) +
村の鳥。五木の村鳥は「めじろ」。
た
+ 大乗建設(だいじょうけんせつ) +
五木村の建設会社。本社は頭地代替地の一番右手奥、山つきの場所にある。村議会の議長でもある照山哲栄氏が経営。人吉の藍田付近、農業振興局(合同庁舎?)向かいには、同じく照山氏がオーナーのレストランがある(パフェがおいしい)。故郷らしい外観に配慮した代替地工事を行ったのは大乗建設。
+ 代替地(だいたいち・だいがいち) +
ダムによる水没地と指定された地区の住民が移転したり、代わりの農地として使うために、国交省が造成した場所のこと。
川辺川ダムによる代替地は8ヶ所ある(相良村、五木村合わせて)。基本的に、村内移転を希望する人はその水没地の移転先として造成された代替地にしか移転できない。
<五木村>
1)高野代替地(昭和62年度造成)/一般住宅と振興公社
2)小浜代替地( 〃 )/3戸分が造成されたものの誰も移転しなかったので現在空き地。
3)大平代替地(平成3年度造成) /一般住宅3戸と神社、お堂
4)下谷代替地(平成10年度造成)/一般住宅と村営住宅
5)野々脇代替地(平成12年度造成)/お堂と村営住宅
6)頭地代替地(平成13年度造成)
/当初予定より大幅に規模縮小し、約90区画造成。しかし移転を拒む人や転出する人もいるので全区画は埋まっていない。役場、医療センター、郵便局、派出所など。
<相良村>
7)柳瀬代替地(平成56年度造成)/国交省川辺川工事事務所のすぐそば。
8)野原代替地(平成61年度造成)/小浜と同じく、造成されたものの誰も移転しなかった。現在では集落センターと野原小学校の碑だけがあり、空き地になっている。
→ 国交省の、絵に描いた餅のような「五木の村づくりについての政策」については
http://www.qsr.mlit.go.jp/kawabe/qa7-2.html
+ ダイヤモンドシティ(だいやもんどしてぃ) +
鏡町にあるショッピングモール。広大な売場面積を持つジャスコが入っているほか、スポーツ用品店、TSUTAYA、映画館、パスタや釜飯、回転寿司屋、ファミレスなど、敷地内にはさまざまな店舗が並ぶ。五木村の西俣こと五木小川沿いの地区からは、八代や錦町のサンロードシティに行くより近く、大通峠を越えれば50分くらいで到着する。五木から休日にダイヤモンドシティまで買い物に来る家族も少なくないらしい。また熊本へ向かう3号線沿いにあるため、五木から車で移動をする人たちにとっては割となじみの深い場所のようである。
+ 高野代替地(たかのだいたいち) +
高野地区の集落が移転するための代替地。代替農地も合わせて造成。林業センター、振興公社、旅館、食堂、商店、民家などが移転。昭和62(1987)年に造成完了。
+ タカンポ(たかんぽ) +
説明するまでもないが、竹筒のことをタカンポという。墓前やお堂の入り口に花を生けるのもタカンポ。
+ 嶽野(たけの)/相良村 +
ダムサイト右岸側四浦トンネルの上にあった集落。下流から四浦トンネルを抜けて、野原代替地方面に上がり道の途中で左折する。
かつて3戸の民家とお堂があったが、水抜き工事の途中に突然「地すべり地帯」に指定され、移転することになった。嶽野集落は竹野、嶽、竹と呼ばれた。与一左兵衛門(?)と呼ばれる「嶽野集落の祖」が開いたと言われ、矢と銅鏡が伝えられてきた。移転に伴いそれらとお堂は相良村に移された。現在も嶽野にはお堂が残っており、農作業の合間の休憩所になっているらしい。
+ 竹の川(たけのかわ) +
国道445号線沿い、川辺川と梶原川の合流地点。田中商店、ロッジ山小屋などがある集落。
+ 田口(たぐち) +
頭地の一地区。昔の役場の少し上から、子守唄公園の少し下までが田口。他の集落と違い、なぜか田口にはダンナがいない。それと関係しているのかどうか分からないが、田口には集落で持っている共有地があるらしい。田口の公会堂とお堂は、銀杏の木のそばにある。
+ タテノ(たての) +
茅葺きの屋根を葺き替えるための茅を育てる畑を、タテノと言った。タテノは共有地だった。屋根の葺き替えは集落の人達が一緒にやったそうで、今年は誰それさんの家というふうに順番に回ってきた。
+ ダム(だむ) +
五木村の現在を語るのに、ダムの話を抜きにしては語れない。相良村藤田に国交省が計画している川辺川ダム計画は、37年間に渡り五木村を揺るがし続けている。村が反対していた当時、下流や世論にはダム反対の声はなく、国と県、下流の自治体首長らからの強い要請もあって、村はダム受け入れを決めたと言う。その頃になってダム反対の世論が起き始めたため、五木村と下流との間の「時差」は大きな溝となっている。
五木村とダムとの経緯はこちら
+ 端海野(たんかいの) +
川辺川の上流、泉村との村境の地区。端海野森林公園があり、キャンプ場などが整備されている。キャンプ場の料金はこちら。森林公園では毎年8月にマウンテンバイク大会が開かれている。昨年、陶芸家の永尾さんが端海野小学校(休校中)に移られ、新たな村民となられた。夏でも涼しく標高は1000mを超える。高原なので風が強いらしく、風力発電があるという話も聞いたが未確認??
→「マウンテンバイク」
+ ダンナ衆(だんなしゅう) +
ダンナとは山林地主で、五木村の広大な山林も元は33人の地頭=ダンナ家が所有していたと言われる。ダンナ家は旧家であり、古くは集落の実質者でもあったらしい。公的な職に就くことも多く、村長選挙が初めて実施された頃にはダンナ家出身者か、その他の出身かで争われたこともあるそうだ。ダンナは山持ちで、それぞれ集落にナゴがいた。ナゴは、ダンナ家に対してニシャ(男性)、メロウ(女性)と言われる労働奉仕をすることが慣習になっていた。労働奉仕と言っても強制的なものではなく、茶摘みの時期や木の手入れをする時、早朝からダンナ家に行き仕事をして、まかないもついていた。ダンナ家の多くは財産家でもあり、広大な山林によって収入を得ていたし、また小作料も多くはないながらも徴収していたようだ。コバサクはその集落のダンナ家の土地を借りることが多かった。長い歴史の中で没落したダンナ家もあり、そういった家の土地はナゴや集落の人たちで買い取られたり共有地となったりした。
ち
+ 地権協(ちけんきょう) +
→地権者協議会
+ 地権者協議会(ちけんしゃきょうぎかい) +
川辺川ダムによる水没者団体の一つ。
地権者協議会は昭和48年5月、会員数53世帯で発足。
昭和47年1月、水没予定地区の住民有志によるダム計画についての自主研究会「木曜会」が発足。同年10月、下筌ダム闘争で住民リーダー室原知幸氏の支援者だった森純利氏を五木村に招き、講演会を開くに当たって団体名を「五木村生活権を守る会」としたのが、地権者協議会の前身になる。ダム計画と、国・県・村行政への懐疑から、最終的には水没団体で唯一、明確なダム反対を主張して裁判闘争を行った団体。
その名前の通り、水没予定地や代替地造成予定地に土地や家の所有権を持つ住民が会員。一方的にダムを押し付ける国と県、またそれを受け入れ拙速にダム容認へと傾いていく村行政を牽制して慎重な検討をするよう繰り返し要望してきた。地権者協議会の存在は、村民の間にあった「村の未来への不安」を代弁したものであり、当時の国や県、村行政の描いていた立村計画をより具体的なものにするよう求めたのがそもそものスタート。当初から強いダム反対の声を持っていたわけではなかったが、昭和50年末から昭和51年年始にかけ、ダム基本計画の県議会上程をめぐり、村行政との地権者協議会との方向性の違いが浮き彫りになる。これをきっかけにして、地権者協議会はダム反対路を明確に打ち出した。
同51年4月13日、1)川辺川ダム基本計画取消を求め熊本地裁に提訴。その後、2)「ダム対策委員会」設置及び役員報酬等をめぐって、当時の村長を相手取った損害賠償請求訴訟、および3)河川予定地指定処分無効確認を求める訴訟を起こす。
昭和53年12月、熊本地裁は実質審理に入らないまま和解を勧告するが、和解不成立。
昭和55年3月、熊本地裁が地権協の訴えを却下(1)及び3))。同年4月、地権協が福岡高裁へ控訴。
昭和58年、2)の田山親村長を相手取った裁判を取り下げる(被告の死亡による)。
昭和59年4月、高裁での判決を目前に、地権協が実質的に訴えを取り下げ、国との間で和解成立。
最終的には国と和解したが、ダム反対の立場から、最も早くから村の将来を案じ、絶対的少数派という困難な状況の中で闘いを続けた団体である。現在ではダム反対の世論は強いが、昭和40〜50年代はダム反対の声は全国的に見ても圧倒的に少数であった。わずか人口数千人の小さな村にあって、国を相手に住民自らの生活権を訴えた地権協の方針は、現在のダムをめぐる状況から見ても、極めて先見性に富んだおのであった。
五木村のダム抵抗の歩みを語る時、まっ先に語られるべき団体であろう。
詳しくはこちら。
+ チッソ頭地発電所(ちっそとうじはつでんしょ) +
川辺川沿い、頭地の久領にある発電所のこと。最大出力5,200kwで、株式会社チッソの所有。
川辺川上流と五木小川から取水しているとも聞いた。発電所の隣りには以前は社宅があり、多くの人が発電所で働いていたが、技術の進展と合理化のため現在は管理者一人がいるのみ。発電所建設の際には多くの労働者が村に入り、朝鮮から来た労働者もいたという。
川辺川ダムにより水没のため廃止される予定となっている3つの発電所の一つであるが、もちろん現在も稼動している。
国交省による説明はこちら。
+ 茶(ちゃ) +
五木村の主要な産品の一つ。
焼畑を終えた山に山茶が自生していたが、近代に入ってヤブキタなど味が良い商品用のお茶栽培が始まった。
自生していたお茶はザイライ(在来種)と呼ばれる。
五木にはお茶の木を垣根として植えている家も多く、自家用のお茶を栽培している家も多くある。昔はそれぞれの家で釜炒りしていたが、現在では機械を使って製茶している。
地元産のお茶は、子守茶屋(頭地道の駅→贈答用)、森口商店(川辺川下流。瀬目谷の橋のたもと→贈答用)、四季の里(下流の瀬目公園→一般用。無農薬茶あり)などで手に入る。
+ 調印(ちょういん) +
川辺川ダムによる水没移転補償契約に調印することを地元では単に「チョウイン」と言う。
チョウインしたかどうかということは、村内か村外かに移転を決めたかどうかということ。ここ20年間で日常的な言葉になってしまった。
つ
+ 土会平(つてひら) +
五木小川沿い、高野の向かい側にあった集落。4戸のうち1戸だけが土会平に今も暮らす。他の家は、高野代替地や村外へ移転した。行政区としては高野と一つになっている。茶畑があり、村外に移転したが茶摘みの季節にはやって来るという人もいる。
+ 椿(つばき) +
村花はつばき。「五木の子守唄」にも歌われている。
+ つんつん椿(つんつんつばき) +
→ 「五木の子守唄」
て
+ 天狗岩(てんぐいわ) +
一般に天狗岩というと、吐合の三浦小学校対岸の上にある石灰岩の巨岩を言う。形が天狗に似ているからとか、岩の真ん中にある大きな丸い穴に天狗が住んでいたからだとかいろんな説があるが、とにかく天狗岩。紅葉の季節には美しいとか。
なお、頭地の天狗岩というのもある。こちらは五木中学校グランドの上にある、大きな石灰岩のこと。昔は頂上に旗が立っていたと記憶している者もいる。今は付け替え村道になる予定の道路のトンネルが出来ている(未開通)。なお、五木村では天狗岩という名称はわりとポピュ
ラー切り立った岩に天狗岩と名付ける風習があるようだ。(例:下頭地の天狗岩、頭地の天狗岩)
+ 電源開発(でんげんかいはつ) +
→ 「下頭地ダム」の項
と
+ 堂(どう) +
五木村にはお堂が多い。各集落にほぼ一つずつお堂があり、それぞれ地元の人たちによって祭られている。
**現在鋭意制作中**
+ 頭地(とうじ) +
五木村の中心地。下手(しもて)、久領(くりょう)、田口(たぐち)、溝の口(みぞのくち)から成っている。
川辺川と五木小川の合流する頭地地区は、かつてもっとも民家が密集した地区で、役場、森林組合、商工会、へき地診療所、駐在所、郵便局などの公的機関があった。すでに頭地代替地へ移転を済ませた商店や理髪店、ガソリンスタンドや食堂の他にも、スーパー式雑貨店、数軒の旅館、薬局、クリーニング店、畳屋、写真屋、五木タクシー、自転車修理屋などがあり、日常生活品のほとんどを揃えることができた。ダム移転による急激な人口減によって、次第に店を続けることが難しくなり閉店をしていったところが多いが、代替地でも商売を続けているところもある。
+ 頭地橋(とうじばし) +
頭地の真ん中にかかる石の橋。頭地発電所が建設される時にかけられたもので、それ以前は舟で渡しをしていた。「とうぢばし」という文字が橋に掲げられている。昭和38年の水害の時には、頭地橋の橋脚が半ばまで土砂で埋まったそうで、久領の土屋義人さんの家にはその時の写真が残っている。
+ 頭地大橋(とうじおおはし) +
高野代替地と頭地代替地を結ぶ大橋。現在はまだ建設されていないが、完成すると球磨郡一の大きな橋になる。
+ 頭地資料室(とうじしりょうしつ) +
→「やませみ」の項
+ 同盟会(どうめいかい) +
水没者団体の一つ。村長を会長とするダム対策委員会が解散したあとに結成された。条件付きダム賛成派とも言われる。
会長は照山哲栄氏だったが、最近解散した。 頭地代替地に碑がある。
→ 「水没者団体」
な
に
+ 西俣(にしまた) +
五木小川の両岸を指す。すなわち川辺川の右岸。しかし、同じ右岸であっても平沢津は西俣には含まれない。それは甲乙丙の割り方と同じ考えであると思われる。なお長じて、西俣の久領にある阿蘇神社のことを言うことも。
+ 人情淵(にんじょうふち) + ![]()
宮園地区右岸、平野そばの川辺川にある大きな岩のこと。てっぺんに赤松があり、小雨のけぶる日などは一幅の掛け軸にでもなりそうな趣深い姿をしている。
昔平家のお姫様が身投げをし、この淵に流れ着いたのだという。岩の上にはほこらがあり、平野の黒木家(ペンション黒木)が祀っている。今は岩の上のほこらではなく、道沿いの場所に分社してそこを祭祀している。
ぬ
ね
の
+ 仰烏帽子山(のけぼしやま) + ![]()
五木、山江、相良村の境付近にある高さ1,301.8mの山。登山道は、勾配がゆるい元井谷からの道と、勾配がやや急だが距離の少し短い相良村からの道の2つがある。登山道沿いには自生の福寿草やシャクヤクが咲くことでも知られており、福寿草の季節には週末に1000人ほど訪れるほどの人気らしい(ただし、福寿草は持ち帰らないよう!)。また途中、仏石と呼ばれる石灰岩の奇岩や清水の飲めるポイントなどもあるらしい。花の見頃や登山道については、五木村役場企画振興課TEL0966-37-2211へ。
+ 野々脇代替地(ののわきだいたいち) +
→ 「代替地」
+ 野々脇の堰堤(ののわきのえんてい) +
野々脇地区の川辺川にある堰堤のこと。相良村六藤のチッソ第二発電所の取水口にあたる。
+ 野原(のはら)/相良村 +
ダムサイトをくぐってすぐの川辺川右岸にあった集落。野原と嶽野、中の原、椎葉など山手の集落で一つの行政区を形成していた。野原には野原小学校があり、田んぼの中に立つ木造校舎は牧歌的な雰囲気をかもし出していた。国交省は野原代替地を造成し、一般家屋や小学校の移転に当てるよう計画したが、結局誰も移転せず、人口の少なさから小学校も移転できなかった。その代わり、周辺の住民は村にスクールバスを出すよう約束させ、現在では相良北小学校までバスで集団通学している。野原代替地には現在集会所が立っている。
野原と藤田という川辺川沿いの大きな集落がダムのために消滅したことにより、周辺のちいさな集落は行政区の中心を失うという「ドーナツ」状態になり、極めて不便を強いられることとなった。集会所では月に1度常会(定例会)があっているが、川向こうの旧藤田集落からは常会に参加するのにも車で1時間近くかかるらしい。
+ 野原代替地(のはらだいたいち)/相良村 +
→ 「代替地」
は
+ 発電所(はつでんしょ) +
川辺川の流れを利用した発電所が、五木村にはいくつかある。昭和初期から昭和10年前後に作られたのがほとんどで、その後内谷発電所などができたそう(内谷ダムと内谷発電所があるとも聞いたけれど、まだ未確認。)。端海野には風力発電があるという話も聞いたがこれも未確認。発電所は、九州電力かチッソの所有で、チッソが発電して九電に売電しているらしい。
五木村には発電所から固定資産税が入っていて、村内の収入のうち、少なからぬ割合を占めると聞いた。
+ 早田石油(はやたせきゆ) +
五木村頭地の下手の三叉路にあったガソリンスタンド。長く、早田石油の看板は旧頭地入り口の看板のようなものだった。
近年代替地へ移転し、新しく営業を始めている。代替地の早田石油の辺りが、頭地大橋の付け根になる。早田石油の主は若手村議の早田吉臣さん。働き者で明るいさっぱりしたいい方である。早田石油そばには、日用品とお酒を扱う早田商店がある。ガソリンスタンドは基本的に日曜定休なので注意。
+ 反対派(はんたいは) +
川辺川ダム計画に反対する人のことを略して反対派と呼ばれる。
川辺川ダムの推進、反対によって、平和な村は一転した。小さな村は二分され、特に「明確なダム反対派」は常に少数派であったため、村内でも周囲からプレッシャーをかけられる立場にあった。ダム推進派と呼ばれる人びとでも、ダムの底に故郷を沈めることを喜んだ人は誰もいなかったと言われる。ダムに付随する道や生活基盤整備を待ち望み、国と県、世論に対してダム中止を貫くことは困難と判断した人たちが、より良い条件でダム受け入れをしたと言われている。しかし、ダム反対派にとっては、性急な手続きでダム受け入れへ走り出す村当局と建設省(当時)は自分たちの生活権を脅かし、村の将来まで破壊しようとする存在であり、彼らに対してある意味で賛同の立場を取った村内の「条件付きダム賛成派」の存在もまた受け入れがたい存在であった。逆に推進派にとっては、堅固なダム反対派が村内にいることによって、ダム計画が延び、村づくりが遅れ、結果的に人口流出を招くとされ、一つの問題に対する捉え方の違いは、対立の深まりという悲劇を生みだした。国、県がその仲介をすることはなく、早い時期にダム受け入れを決めた村とともに終始ダム推進の立場から反対派にダム受け入れを迫ってきたと言える。
五木村には公務員や森林組合など、公的な機関で働く人も少なくなく、また建設業に従事する人も少なくない。彼らは自分の立場を表明することは難しく、公務員は公務員で行政の立場に従うしかなく、建設業従事者の心理もまた複雑なものがあった。なお、推進、反対以外にも明確に立場を表明できない人びともいた。
ひ
+ 東俣(ひがしまた) +
川辺川の左岸(東側)の地区をこう呼ぶ。長じて五木村頭地の下手、旧五木東小学校敷地内にある阿蘇神社のことを言うこともある。
+ 東小学校(ひがししょうがっこう) +
五木村には7つの小学校があり、東小学校は一番大きい。2003年4月時点で在校生29人(うち、新入生は7人)。
2003年4月に旧頭地地区にあった旧校舎から移転した。
旧校舎は頭地の入り口にあり、1938年完成、築65年の木造2階建て校舎だった。現役校舎としては県内最古だった。なお、次いで古いのは1950年前後に完成した上色見小(阿蘇郡高森町)、佐伊津中と本町中(本渡市)、大野小(阿蘇郡蘇陽町)、女島小(芦北郡芦北町)、五木中(五木村)だそう。
旧東小の敷地内に阿蘇神社、縄文期遺跡、村指定文化財のケヤキ並木などがある。グランドは、子守唄祭り、盆踊りなど、地域のイベント会場として長く使われてきた。現在の校舎は、開校して2期目の校舎。現在70歳くらいの方たちが当時一期生だった。開校には、地元住民が備品を寄付したりした経緯もあるらしい。今年4月から代替地の新校舎へ児童は移ったが、新校舎の給食室がまだできていないため、現在は給食時だけ児童がスクールバスで下りてきて使っている。
校舎は2003年8月末までに解体予定となっているため、村内外で校舎保存を求める声があった。これに対し村の対応は「延期は無理。解体やむを得ず」とし、その理由は1)シロアリ被害があり改修・保存・移築に費用がかかる。
2)新校舎の給食室が9月落成なので、それまでに解体しなければならない(国交省は、移転補償手続きとして旧建物を更地にすることが条件になっている。現在でも、3月解体を延期してもらっている状態というのが村の説明)
3)全面盛り土(代替農地、代替中・高校用地)造成のために、埋蔵文化財発掘調査を行わなければならないので、時間がない。
4)文部科学省の補助金の関係
としていた。
2003年8月、惜しまれつつ解体され、現在では高低の林が残っている。
2004年夏以降、旧東小学校敷地内で縄文遺跡発掘が開始される予定。大規模な発掘となると予想され、関係者の期待が寄せられている。
+ 火責め(ひぜめ) +
明治10年の西南の役の際、五木村に西郷隆盛率いる薩摩軍と官軍が陣を構えた。薩摩軍が逃げ去る時に周囲の家屋に火を放ったため、五木村の多くの家は明治11年以降に再建されたものだと言う。火を付けることのできなかった家には、薩摩軍の兵士が刀傷だけ残して行ったそうで、その時の傷が残されていた家もあったらしい。洪水と川辺川ダムを「水責め」とするならば、五木村は「火責め」にも遭っていると言える。
+ びゃーどん +
びゃーどんとは五木にいたとんちもの。溝の口の旦那、木野家の先祖に実在した人物で、本名は木野兵衛。お殿様から「茶の実」「キノコ」「じゅうぜん葛(かずら)」を献上するようにと言われて、機知に富んだ対応をして殿様をぐぅと言わせたという話が伝わっている。びゃーどんのお墓は溝の口の木野家向かい側に今でもある。
びゃーどんの話http://portal.kumamoto-net.ne.jp/vill_itsuki/minwa/minwa.htm
ふ
+ 藤田(ふじた)/相良村 +
相良村の一番北の集落。川がカーブしたところに傾斜地があり、そこにあった30戸が移転対象になった。現在では白いコンクリートの構造物の建設工事があっていて、昔の面影はない。
へ
+ ペンション黒木(ぺんしょんくろき) +
五木村宮園地区、上平野(かみひらの)にある宿泊施設。黒木晴代さんが経営。
25畳のワンルームはロフトも付いており、宿泊者はここで山の幸を味わったり、晴代さんのガイドで山の散策を楽しんだり、農業体験をしたり、何もせずにただのんびりしたりと思い思いに過ごせる。詳細は九州ハイランド活性化協会HPのガイドインストラクターのページにも掲載あり。
TEL0966-37-2168
ほ
+ 棒踊り(ぼうおどり) +
高野と瀬目に伝わっている。※調査中※
+ 防災行政無線(ぼうさいぎょうせいむせん) +
村内全家にある無線のこと。消防署と役場と各家が無線でつながっており、大雨洪水警報や常会、役場や農協、林業組合などからのお知らせを必要な際に放送している。五木の人は大雨洪水注意報や警報に敏感である。急峻な山と民家が近接しているため、大雨が降れば土砂災害の恐れがあるからである。梅雨や台風の季節になると、役場経済課職員は毎日のように村道を走り、土砂崩れが起きていないかや通行止めの場所をチェックしなければならない。実際に、大雨がちょっとでも続くと必ずと言っていいほど村内のどこかに土砂崩れが起きてしまうらしい。
+ ボウズ山(ぼうずやま) +
ボウズ山とは久領の裏の山のこと。五木小川と川辺川が合流するその間にある、小高い山である。なぜボウズ山なのかは分からないが、ボウズ山の麓には新泉寺があるので、その坊主のことなのかもしれない。麓の頭地発電所では昔定刻になるとサイレンを鳴らしていたのでサイレン山とも言ったらしい。西俣の阿蘇神社もボウズ山の麓にある。昔の子守唄温泉の窓から見えたのもこのボウズ山の山腹。
+ ホタル(ほたる) +
五木村では今でもホタルをよく見るが、昔はもっとすごかったらしい。地上数mのところに、長さ200mくらいに渡って群でいたらしく、明るいくらいだったらしい。今でもそのくらいホタルが出るポイントもあるらしい。役場にはホタルの乱舞の写真が飾ってあるが、確かにすごい。キレイである。→ 五木村商工会のページよりhttp://www.kumashoko.or.jp/itsuki/event/html/hotaruranbu.html
+ ホタルツリー(ほたるつりー) +
知る人ぞ知る梶原川のホタルの群舞。川沿いの木にホタルがたくさんとまり、一斉に点滅するようすはさながら天然のクリスマスイルミネーション。人によってはこれをホタルツリーと表現する。
+ ホタルまつり +
毎年6月初めに、五木村商工会が開いているお祭り。今年(2003年)で第13回で、会場は五木中学校のグランド。商工会青年部や地元の人達によるヤマメの塩焼き、ビール、豚足などのほか、夜店も出ている。人吉高校吹奏楽部による演奏や、ホタル餅投げ(中に5円玉やくじが入っている)、利き水大会、ヤマメ塩焼きなどもあり、フィナーレは豪華景品があたるくじ引き。村外からの参加者が多いが、地元の人達も遊びにやってくる。
http://www.kumashoko.or.jp/itsuki/
+ ぽっくり堂(ぽっくりどう) +
地元の人がぽっくり堂と呼ぶお堂があるらしい。分からないので確認中。久領にあった薬師堂のことか?
+ 仏岩(ほとけいわ) +
仰烏帽子(のけぼし)山にある石灰岩のこと。昔この岩の中にお釈迦様を見た人がいたことから、仏岩と呼ぶようになったとか、お釈迦様の形に岩が似ているからこう呼ぶのだとか諸説がある。
+ 保楊枝(ほよじ) +
川辺川沿いの村北部、宮園地区より少し上の左岸側の数集落を保揚持と呼ぶ。現在民家は1戸しかなく、他の家は川沿いの住宅に移転したり村を離れた。年寄りが多くなったのと、災害等が心配されたためらしい。位置的には平野の真向かいに当たる。また保楊枝地区の地主である「保楊枝のダンナ」と呼ばれる家(尾方家)がある。
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ま
+ 埋蔵文化財調査(まいぞうぶんかざいちょうさ) +
ダム計画の付帯工事の一つとして15年ほど前から行われている遺跡発掘調査のこと。県と村が実施するものの2種類がある。南部地区はほぼ終了し、現在では頭地地区が行われている。頭地地区には大きな縄文遺跡があると指摘されている場所であり、田口、久領のほか今年度半ばには下手地区でも調査が始まる。これまでに鏃や土器破片などが出土している。教育委員会で担当されている福原さんが地元で一番詳しい。
+ マウンテンバイク +
五木村端海野(たんかいの)で毎年8月下旬には村主催のマウンテンバイク(MTB)大会が開催される。端海野自然森林公園そばが会場で、九州各地から猛者が集結するらしい。お問い合せは村役場企画振興課へ。Tel/0966-37-2212、E-Mail/ituki02@hinokuni-net.jp
→商工会のイベント紹介のページhttp://www.kumashoko.or.jp/itsuki/event/html/event_003.html
+ マダラ倶楽部(まだらくらぶ) +
川辺川から梶原川沿いにある、竹の川、吐合(はけあい)などを中心とした地域づくりグループ「紅葉の里検討会」に、マダラ(ヤマメ)をキーにした地域おこしを企画した人々が作ったマダラの里推進協議会が重なり、最近「マダラ倶楽部」と名称を変えて取り組みを始めた。
マダラ倶楽部は、KGFFや球磨川漁協、村と共同でキャッチアンドリリースやマダラフォーラム、ホタル鑑賞会などに取り組んでいるほか、頭地の温泉館の一室にフライフィッシング展示室を整備しているところ。マダラ倶楽部代表は、フライフィッシングを愛してやまない島巻弘充さん(下谷)。
マダラ倶楽部のことは、広報いつき2004年4月号でも紹介されている。役場HPにPDFで有。
ともすると閉鎖的な村にあって、新しい取り組みを始める方がいることはすばらしい。http://www.kajiwaracr.com/
+ 松本(まつもと) +
今の頭地代替地の上流側にあった集落。頭地代替地のほとんどは元は畑地で、山手の方に松本という小さな集落があった。松本は頭地代替地造成のために一旦旧頭地へ移転し、代替地完成後に再度移転というふうに、二度の移転を強いられた。代替地の上流側が松本地区にあたる。
み
三浦小学校(みうらしょうがっこう)
+ 溝の口(みぞのくち) +
頭地集落の一番上にある集落(頭地に含まれることもあれば、頭地3集落+溝の口とされることもあるようす)。田口と隣接していて、子守唄公園、温泉、びゃーどんの墓、溝の口の薬師堂は「溝の口」にある。
+ 南小(みなみしょう) +
野々脇にあった五木南小学校のこと。野々脇の堰堤より少し下流に、木造2階建て校舎があった。主に水没予定地となった南校区の子どもたちが通っていたが、移転による児童数の減少のため平成4年に閉校となった。南校区には移転対象にならなかった山手にある集落もあるが、南小閉校によって五木東小まで通わなければならなくなり、不便を強いられているという。現在小学校跡地は残っているが、土砂置き場になっている。
+ 宮園(みやぞの) +
五木村は川沿いに比較的大きな集落があり、そこから山に入ったところに小さな集落がある。頭地が村の中心地で、川辺川上流に宮園、五木小川上流に小鶴(こづる)という集落があり、この3つが村の中心的な集落になっている。
+ 宮園の大銀杏(みやぞののおおいちょう) +
宮園地区にある、有名な大銀杏の木。本当に大きい。
+ 民宿いちょう(みんしゅくいちょう) +
「いちょう」は以前は頭地にあった。いちょう弁当という看板を見たことがある。最近代替地へ最近移転して、食堂と民宿を営業されているという話を聞いたが未詳。郵便局の隣り辺りに「いちょう」という看板を見た記憶があるので、おそらくそこのことだという。女性がお店を切り盛りされている。
む
め
も
+ 森口商店(もりぐちしょうてん) +
瀬目や葛の八重へ行く道の入り口にあるお店。山村さんというにこやかな男性がお店の主人。元は製茶工場を野々脇で営んでいたそうだ。パンや菓子、飲み物などだけでなく、焼酎やお茶、きびなどのお土産品も置いてある。お茶も森口さんのところで製茶したものだそう。
+ 薬師さま(やくしさま) +
五木村にはお堂が多く、お堂には薬師如来が祀られていることも多い。
***現在鋭意制作中**
+ 役場(やくば) +
2002年4月1日から、頭地代替地の南側に新築移転した。以前の役場は下手の森林組合向かい側にあった。
〒868-0201熊本県球磨郡五木村甲字下手2672-7
TEL 0966-37-2211
FAX 0966-37-2215
五木村ホームページ http://www.vill.itsuki.kumamoto.jp/
+ ヤーコン(やーこん) +
数年前から村内で栽培の始まった南米アンデス原産の野菜の一種。キク科で塊根を食用とする。見かけはレンコンに少し似ている様子。脂質、糖質は少ないが、ポリフェノール(ガン抑制)やフラクトオリゴ糖(腸内の善玉菌を増やす)、食物繊維、カリウムなどが多く含まれるらしい。
+ 八坂神社(やさかじんじゃ) +
瀬目の一番高いところにある神社。ここの境内にある木には、乳房の形をした瘤があるので、昔は母乳の出が悪い母親が乳の出がよくなるようにと参っていたという。ここにも銀杏の木がある。
+ 山(やま) +
五木村には山が多い。村の面積の96%は山林である。
また、周囲を1100〜1500m級の山々に囲まれた九州山地に位置し、この地形がコバ作やダンナ制度など独特の文化や歴史を生んできた。
+ 山師(やまし) +
**準備中**
+ 山うに豆腐(やまうにどうふ) +
頭地の五木屋本舗が開発した商品。元々五木村には豆腐の味噌漬けがあったが、これをヒントに、チーズのようなウニのようなやわらかい味わいを出したのが山ウニ豆腐。山ウニとは言ってもウニではない。子守唄公園の子守茶屋ほかで売っている。私はキュウリにつけたり、そのままでつまみに少しずつ食べるのが好き。五木屋本舗の主は橋本悦治さん。→五木屋本舗http://www.itsukiyahonpo.co.jp/
+ 山が笑う村がしずむ(やまがわらうむらがしずむ) +
熊本日日新聞に、2000年1月23日付から2001年4月1日付まで285回にわたって連載された「五木日記」は、2001年に葦書房から『山が笑う村が沈む〜ダムに揺れる五木の人びと〜』(熊本日日新聞編、2001年、\1800、葦書房)として出版された。必読の書である。ぜひご一読を進めたい。 → 葦書房
+ やませみ(やませみ) +
国土交通省が作ったダムを中心とした資料館。頭地の久領にあり、元は国交省の事務所跡。頭地資料館やませみが正式名称。
現在の内容はダム関連資料が主で、ついでのように五木村の民俗も分かるように展示されているが、さすが国交省、村の文化を軽視している旨がうかがわれ、見ていると私は心が痛い。とゆうか、展示物があまりにダムばかりでおもしろくない。庭にあるキンマは風雪による痛みが激しく、ダム工事の際にやませみの生態や環境に配慮して取り入れたというというコンクリートのやませみの巣の模型は、プラスチックボード内部に湿気がたまり、いつ行ってもやませみの模型の姿が見えない。生態系配慮を言う前に、この模型で作った巣だとやませみ死ぬんとちゃうかと思わされる・・・どうなんだろか。
また、資料館内部には頭地代替地の完成模型があり、最近は埋蔵文化財も少しだけ展示されている。五木の自然が写真などで展示されているがなぜか鳥などが中心で魚の写真がない(ダムが魚の生態に与える影響に関して、やっぱり国はやましいところがあるに違いない)。五木の子守唄をヘッドフォンで聴けるコーナーもあり。民具など収蔵品の数は少ない。
当初、村が中心となった資料館が建設される予定になっていたが、いつの間にかダム資料館に内容が変わり、現在に至っているらしい。
地元では別に歴史資料館の設置を望む声もあったが、現在のところまったく予定はない。そう遠くないうちにこの資料館もそのままの規模で移転するらしいが、現在のダムPR館の内容のまま移転だそうで、地元内外に不満の声がある。国交省は文化面で地域に貢献する視点は皆無に近いようだ。
+ ヤマメ(やまめ) +
地元ではマダラと呼ばれている。3月1日が解禁日で、球磨川漁協発行の遊漁券は日券2,000円、年券6,000円。ロッジ山小屋ほか村内数カ所で購入できる。川辺川や五木小川上流やその支流で釣れる。梶原付近は「キャッチアンドリリース」区間だそう。梶原の奥には清流を活かしたヤマメ養殖場もあるらしい。川辺川で釣れた大きなヤマメの魚拓を見たことがあるが、顎が大きく、鮭のように大きくて驚いた。五木村ではマダラ倶楽部が中心となりマダラ釣りの環境整備や地域おこしに取り組んでいる。
→「マダラ倶楽部」
+ 山ん太郎(やまんたろ) +
子どもの姿をした山の神様。いたずら好きで、山仕事をしていると誰もいないのに木を伐る音がしたり、木を下ろす音が聞こえたりするのは、この山ん太郎のしわざだと言う。川には「川ん太郎」(かわんたろ)という同じく子どもの姿をした山の神様がいる。年に一度、9月15日の夜に山と川の持ち場を交替するそうで、「ケーンケーン」という鳴き声が聞こえるとか。山ん太郎と川ん太郎の通り道は山を知っている人だったらすぐに分かるらしい。竹の川の滝本さんは山ん太郎の足形を見たことがあると言う。子どもの足と同じような5つ指だったそうだ。
ゆ
よ
+ 四浦(ようら)/相良村 +
相良村の北の地区。昔は四浦村だった。川辺川ダム計画では四浦の一番北にある、藤田と野原地区が水没地になった。ダムサイトのすぐ手前、右岸側に四浦トンネルがある。このトンネルのある地区は地質が川へ向かって動いている地区だそうで、四浦トンネル天井の亀裂は有名である。
+ 445号線(445ごうせん) +
→「国道445号線」
ら
り
+ 漁師(りょうし) +
川で漁をする人のこと。竿で釣る人もいるが、刺し網(さしあみ)を川に仕掛けて漁をする人もいる。刺し網は舟で川に刺したり、川に入っていって刺したり。よく連れるポイント(漁場)があっても、漁師さんはあまり人には教えないらしい。
+ 猟師(りょうし) +
山で猟をする人のこと。主にシシ、鹿を獲る。何人かでグループを作り、猟犬を連れて獲物を追い込んでしとめる。
ちなみに、猟師であっても漁師でない人もいるし、漁師であっても猟師でない人もいるし、猟師でも漁師でもある人もいる。専業の人は村では聞いたことはなく、仕事の合間に趣味でとっている人が多い。
る
+ ルネッサンソン計画(るねっさんそんけいかく) +
平成8年策定の五木村立村計画。地域資源を活かした村づくりを目指して作られ、その後の村づくりの方針となっている。
詳細はこちら。
れ
ろ
+ ロッジ山小屋(ろっじやまごや) +
川辺川上流の竹の川にある宿泊施設。元村議の田中雄士さんが営んでいてカウンターでお酒も飲める。ロッジの向かいには田中商店があり、不定期にここの店の方が作られているコロッケは大きくおいしいと、人吉球磨タウン情報誌「どうぎゃん」でも取り上げられた。私はまだ見たことがないので、いつかぜひ味わってみたい。
→ロッジ山小屋http://www.spanet.co.jp/yamagoya/
→村内の宿泊
わ
+ 渡辺の墓(わたなべのはか) +
旧頭地地区、下手の「いつき荘」裏手あたりに「渡辺の墓」と呼ばれる石碑があるらしい。(私はまだ見たことがない)
五木郷の郷元だったが、没落したのか何かの理由で家は絶えてしまった。石碑には三つの●に横棒という家紋が刻まれているらしい。
この紋は現在溝の口の木野家が引き継いでいる。渡辺家と関係あるのだろうか?
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